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126  奴隷船に拾われたサタン

次に目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。

湿った木の床。

塩気を吸った空気。

腐臭、汗、糞尿、血。

暴力に満ちた船底特有の閉塞した臭気が肺に入り込み、意識が急速に浮上する。

サタンはゆっくりと瞼を開いた。

暗い。

だが完全な闇ではない。

檻の外、遠くに吊るされた油灯が揺れ、細い光を投げている。

その光の中で、鉄の鎖が鈍く反射していた。

「……鎖か」

自分の両手首と足首に巻かれた鉄具。

さらに太い鎖が壁の金具に繋がれている。

魔力を巡らせ体を動かそうとした瞬間、じわりと鈍い痛みが走った。

「魔力、神力切れだ。あと……これが船酔いか。死ぬほど気持ち悪い……」

魔力と神力を使い切っていて力が入らない。

万全の状態なら、こんな鎖などストレッチ程度の運動量で引きちぎれる。

だが、弱った相手を拘束するには十分な細工が施されているらしい。

サタンは上体を起こした。

鎖が重く鳴る。

(起きたか。どうやら我々はこの船に拾われたが……ご覧の通り、歓迎されているわけではなさそうだ)

周囲には、人間がいた。

痩せこけ、肋骨や背骨が浮き出た男。

頬のこけ、髪もボロボロ、船の油や汚れが服についた女。

まだ幼い子どもすらいる。

皆、同じように鎖に繋がれ、狭い船底に押し込められていた。

皮膚には鞭痕。

腫れ、変色した顔。

服についた乾いた血。

目だけが虚ろにこちらを見て、すぐに逸れる。

奴隷船だった。

拾われたのではない。

回収されたのだ。

商品として。

サタンは小さく息を吐いた。

「……ずいぶんと趣味の悪い船に乗せられたものだな」

(人身売買か……われはいくらで売れるのだ?)

ルシファー、なんでワクワクしての?

(……)

サタンはルシファーの問いに答えず、目を切り替え、暗い船内をよく観察してみる。

船底には、昼も夜もなかった。

あるのは、湿った暗がりと、腐ったような空気だけだった。

天井は低く、少し身を起こすだけでも頭をぶつけそうになる。

壁板の隙間からわずかに差し込む光は弱く、海の上にいるはずなのに、ここでは水の色すら分からない。

揺れる油灯が時折、船底を黄ばんだ色で照らすたび、鎖につながれた人影がぼんやりと浮かび上がった。

その姿は、どれもひどかった。

髪は油と汚れで蝋をかぶったように固まっている。

痩せ細った腕。

肋骨の浮いた胸。

頬はこけ、唇はひび割れ、皮膚には新しい鞭痕と古い痣が幾重にも残っている。

まともに治療などされていないのだろう。裂けた皮膚は膿み、乾いた血が黒くこびりついていた。

食事の時間になると、上から乱暴に木桶が降ろされる。

中に入っているのは、湯で薄めただけの腐りかけた粥だった。

豆とも穀物ともつかぬ砕けた何かが沈み、表面には油とも汚れともつかぬ膜が揺れている。

鼻を近づければ、酸っぱい臭いが立ち上った。

「ほら、食え。死なれたら値がつかねぇ」

見張りの男が、桶を蹴って笑う。

木の器など与えられない。

奴隷たちは鎖の届く範囲で身を寄せ合い、こぼれた粥を手ですくうようにして口へ運んでいた。

遅れれば、それだけ食い損ねる。

躊躇している余裕はない。

だが、幼い子どもがその臭いに顔をしかめ、手を止めた。

痩せた小さな肩が震えている。

次の瞬間、見張りは何のためらいもなくその子の腹を蹴り上げた。

「食えっつってんだろうが!」

鈍い音。

子どもの身体が横に転がり、咳き込みながら床に胃液を吐いた。

胃の内容物など何もない、ただの胃液。

その母親らしき女が思わず身を乗り出す。

だがすぐに、別の見張りの鞭が飛んだ。

「勝手に動くな!」

皮膚が裂ける音がした。

「ああッ。イッ……」

女は悲鳴を噛み殺し、その場に崩れる。

それでも子どもの方へ這おうとして、さらに二度、三度と打たれた。

誰も助けられなかった。

助けに入れば、自分も打たれる。

いや、それだけでは済まない。

見せしめとして半殺しにされることも、この船では珍しくないのだろう。

船底にいた奴隷たちは皆、目を伏せたまま、息を殺してその光景をやり過ごそうとしていた。

(サタン、助けるか?)

(いや、ここで割って入っても今の余力では全員は相手にできん。今は様子見だ)

理不尽だった。

反抗したから殴られるのではない。

遅いから。

目を合わせたから。

気に障ったから。

それだけで拳が飛び、蹴りが入る。

ある男は、水をもう一口くれと頼んだだけで、口の中の歯を三本折られた。

ある老人は、立ち上がるのが遅かったというだけで、足を踏み砕かれた。

そして動けなくなったその老人は、売り物にならんとつばを吐き捨てられ、翌朝には姿を消していた。

海に捨てられたのだと、誰もが分かっていた。

歩けぬ老人には価値が無いという判断なのだろう。

だが、老人がいなくなったことを口にする者はいない。

口にしたところで、次に消えるのは自分かもしれなかった。

サタンは鎖につながれたまま、それらを黙って見ていた。

怒鳴り声。

すすり泣き。

肺を患ったような咳の声。

鞭の音。

腐った粥をすする湿った音。

船底には、人間を人間として扱わぬ、悲しい音ばかりが満ちていた。

「……ひどいものだな」

低く呟いても、誰も反応しない。

反応する気力すら削り取られている。

(サタン、われはこの者たちを助けたい)

(おおむね賛成だが、俺も今魔力を使う余力がない。まずは情報を集めよう)

ここでは、怒りも尊厳も、生き延びるために削っていかなければならないのだ。

だが、その底の底では、まだ完全には死んでいない火種が燻っていた。

夜半。

見張りの足音が遠のき、船底に重たい静けさが落ちた頃。

樽の陰、灯りの届きにくい場所で、また囁き声が集まり始める。

「……本当なのか」

かすれた声で、痩せた男が言った。

「行き先の話だ。あれは本当なのか?」

「水夫たちが話していることを聞いた」

答えたのは、片目の腫れた中年の奴隷だった。

声を潜めながらも、その声音には明確な恐怖が滲んでいる。

「上の連中が酒飲みながら話してた。次の港でまとめて売るってな」

「どこにだ」

「魔人領だ」

その一言で、空気が変わった。

人間の領地ですらないのかと。

誰かが息を呑む。

誰かが小さく首を振る。

「ベルゼブブとかいう者の治める地だ」

知らぬ者もいた。

だが、知っている者にとっては、それだけで十分だった。

片目の男が続ける。

「戦が長引いてるらしい。兵を使い潰してるとかで、前線に送る奴隷を大量に欲しがってるって話だ」

「戦争だって?私たちは魔族じゃなく、人間よ。戦争用奴隷なんて……」

その言葉を口にした若い女の声は、震えていた。

「最初から武器を持たせる気なんてない」

別の男が低く言う。

「塹壕を掘らせる。荷を運ばせる。盾代わりに前へ出させる。城壁に登らせる。死んだら魔獣の餌に使う、それだけだ」

「魔人の戦場なんて……人間が行って生きて帰れる場所じゃない……」

「帰す気があると思うか?」

沈黙。

その一言は、あまりにも重かった。

船底にいる誰もが、それを否定できなかった。

売られるだけでも地獄だ。

だが、売られた先がベルゼブブの地で、戦争の消耗品にされるのだとしたら、それはもはや労働ですらない。

解放される希望が皆無なのだ。

生きたまま死地へ投げ込まれるのと同じだった。

「だから、今しかないんだ」

誰かが言った。

「港に着く前にやるしかない。着いてからじゃ遅い」

「でも武器がない」

「水夫や上級船員の魔人と戦う人数も足りない」

「失敗したら、全員殺される」

「失敗しなくても……死ぬ」

今度の声には、恐怖の奥にある怒りが混ざっていた。

「あんな連中に売られて、戦場の泥の中で踏み潰されるくらいなら……ここで死んだ方がまだましだ」

その言葉に、何人かがゆっくりとうなずいた。

疲れ切った顔。

殴られ、飢え、怯えきった目。

それでもなお、最後に残った人間らしい火だけは消えていなかった。


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