125 海の藻屑と謎の船
轟音すら後から来た。
最初にあったのは圧力だった。
障壁へ触れた瞬間、高圧水塊はまるで山を叩きつけるように空間を圧壊させた。
五百枚。積み重ねた壁が、紙のように捲られ、潰され、弾け飛んでいく。
サタンは歯を食いしばった。
足場のない空中で、ただ魔力だけで踏みとどまる。
だが、威力が違いすぎた。
「ぐ……ッ、ぁ……!」
障壁の奥まで衝撃が貫いてくる。
腕の骨が軋む。
肩が外れそうになる。
胸の奥で、無理やり働かせ続けた魔力回路が悲鳴を上げた。
すべてがここで限界を迎える。
最後の障壁が、砕けた。
直後、サタンの身体は高圧水塊に呑まれた。
まともに受けたわけではない。
それでもなお、その余波だけで十分な威力だった。
黒い影が、弾丸のように暗い空間の彼方へ吹き飛ばされる。
飛ぶ、というより、打ち出される。
身体の感覚が消える。
上下も前後も分からない。
視界は水と闇と飛沫に埋まり、肺から空気が押し出される。
そして。
サタンの身体は、海へと落ちた。
凄まじい衝撃。
高所から叩きつけられた水面は、柔らかさのない硬い壁だった。
全身が砕けるような衝撃を受け、そのまま深く沈む。
冷たい海水が傷口へ入り込み、鈍った意識をさらに削っていった。
深く。
暗く。
ただ沈んでいく。
海上遥か遠くでは、リバイアサンの巨大な頭部がゆっくりと動いた。
吹き飛ばされ、海へ叩き落とされた小さな影を確認し、その怪物は低く喉を鳴らす。
怒りを晴らしたのか、あるいは取るに足らぬ存在と見なしたのか。
それ以上の追撃はなかった。
超巨竜は、やがてその途方もない巨体をゆっくりと翻し、深海へと沈んでいく。
山脈のような背と首が闇の海へ溶け、やがて完全に見えなくなった。
海だけが残る。
荒れ狂う余波と、砕かれた飛沫の痕跡だけが、さきほどまでそこに化け物がいたことを物語っていた。
その頃、サタンはなお沈んでいた。
意識はある。
だが、身体が動かない。
腕に力が入らない。
脚も重い。
魔力を流そうとしても、回路の奥で火花が散るような痛みが走るだけだった。
「……くそ……」
声にならない呟きが、泡になって消える。
このままでは沈む。
分かっている。
だが、今は浮上するだけの力すら絞り出せなかった。
まぶたが重い。
その時、誰かが体を触れたような感覚がある。
海の底から人間のような女がサタンの体を海面へ押し出す。
「あのリバイアサンに立ち向かうなんて、狂気の沙汰じゃないわ……でも、なぜだろう。応援したくなっちゃった」
「あの島の海岸までは送ってあげる……」
視界の端で、暗い水が揺れる。
どこか遠くから、軋むような音が聞こえた。
船だ。
ぼやけた意識の中、サタンはそれだけを認識した。
大きくはない。
だが、何らかの帆船が、この海域を通りがかったらしい。
浜に打ち上げられた黒い人影に気づいたのか、怒鳴り声と共にいくつかの灯りが動く。
「おい、あそこだ!」
「まだ生きてるぞ!」
「引き上げろ、助かるかもしれん!魔人なら高い」
最後の言葉だけが妙に鮮明に耳に残った。
だが、その意味を噛み砕く余裕はなかった。
鉤付きの縄が投げられ、身体に引っかかる。
乱暴に引かれ、海水を吐きながら甲板へと引きずり上げられる。
誰かがつま先で蹴り、誰かが腕を持ち上げ、誰かが顔を覗き込む。
「変な格好だな」
「傷だらけだが、死んじゃいねえ」
「顔は悪くない。鍛えてあるし」
「やっぱりこいつ魔人だな。でもほとんど魔力感じないし、弱小魔人だな」
サタンは薄く目を開いた。
灯りの下、見えたのは粗野な男たちの顔。
助かったのか……。
潮風と酒と体臭、血の臭いが混ざった、悪臭。
まともな船ではないのは雰囲気で分かる。
そのことだけは、霞む意識の中でもはっきり分かった。
「……そういう類か」
かすれた声でそう呟いたが、男たちは聞いていないか、聞こえても気にしなかった。
すぐに両腕を引きずられ、船底へと運ばれていく。
鉄の扉が開き、湿った悪臭が鼻を突いた。
そこでサタンの意識は途切れた。




