123 地獄の門 海竜 リバイアサン
かつて地獄と魔界を繋いだ、歪な通路。
インドラは迷わずそこへ突っ込む。
雷をまとった巨体が、裂け目を駆け上がる。
地獄の瘴気が背後で渦を巻き、無数の怨嗟が追いすがるように響いた。
だがもう遅い。
インドラの速度は、それらすべてを振り切る。
しばらく上昇していた一行。
その先には、魔界へと続く亀裂穴がある――そのはずだった。
だが実際に辿り着いた先にあったのは、崩れた岩盤と、幾重にも捻じ曲がった封鎖の跡だけだった。
「出口が……封印されている」
空間そのものが焼け爛れたように歪み、かつて道だったものは、もはや自然には開かぬ傷跡へと変わっている。
インドラが低く唸る。
「塞がれているな。通れぬことはないかもしれんが、強引に突けば空間ごと潰れかねぬ」
アスカントが裂け目の縁へ降り立ち、黒く変質した岩肌に手を触れた。
指先に魔法陣が走り、すぐにその表情が険しくなる。
「……駄目です。これはただの崩落ではありません」
アスカントは振り返り、静かに告げた。
「門の機能が失われています。道を塞いだのではなく、出口という概念ごと壊されている。誰がこんなことを……」
「面倒なことをしてくれる。この先は何があるというのだ」
サタンは舌打ちし、歪んだ空間を睨んだ。
「なら、壊れた門を修復するのではなく、新しく作るしかないか」
ルシファーがサタンの口で皆に告げる。
(作れるのか?」
サタンはわずかに黙り、それから胸元に手を当てた。
(一つだけ、手はある)
低く、だが迷いのない声だった。
「賢者の石を使う」
アバドンから伝え聞いた異界の門を開ける方法。
その言葉に、アスカントの目が見開かれる。
ゾイルも息を呑んだ。
「サタン様、あれを使うのですか」
ゾイルの声には、驚きと警戒が混じっていた。
以前ミスリルを取りに行った際、魔虫の者に助けたお礼にもらったものだ。
しかし、長年、使用用途も分からずサタンの体の中に取り込まれたままだった。
「体内に取り込んでおられる以上、ただの道具では済まないでしょう」
「分かっている。ただルシファーと完全に一体となった今なら、この体内の異物をはっきり捉えられる」
キャンバスに均一に塗られた色の中に存在する2つだけの紅い異色。
今なら、完全に取り出すことが出来る。
「だが、ここで足を止めるよりはましだ。門の核となる“鍵”を生成する。空間そのものに噛ませて、出口をこじ開ける」
アスカントがすぐに思考を切り替えた。
「賢者の石を持っているなんて……ですが可能です。賢者の石なら、理論上は」
彼は歪んだ空間を見上げ、次いでサタンを見る。
「ただし、膨大な演算と制御が必要になります。石の出力をそのまま流せば、鍵ではなく爆発になります」
サタンは薄く笑った。
「なら、お前が舵を取れ。俺は体表に賢者の石を顕現することに集中する」
「承知しました。作り方は異界渡りをする悪魔の教科書にも載っているものです」
アスカントは一礼し、すぐに空間へ魔法陣を幾重にも展開した。
紫黒の光輪が第四階層の空中へ浮かび上がり、複雑な式が鎖のように連なっていく。
それは門を作る術ではない。
門を開けるための“鍵穴”を、この世界の側に無理やり刻み込むための儀式だった。
サタンは深く息を吐いた。
胸の奥――肉体のさらに深く。
己の核に沈む異物へ意識を向ける。
賢者の石。
万象を捻じ曲げ、理を跨ぐ禁忌の結晶。
それは今や、ただ体内にあるのではない。
サタンという存在に半ば溶け込み、その魔力系そのものに食い込んでいた。
「行くぞ」
低い声と共に、サタンの全身から赤黒い光が滲み出す。
皮膚の下を流れるように発光の筋が走り、胸元から脈動に合わせて強烈な輝きが漏れた。
空気が重くなる。
第四階層そのものが、その力を異物として拒絶し、軋みを上げ始めた。
アスカントが叫ぶ。
「出力を一点に!頭のイメージで形を保ってください!鍵は“扉を開けるもの”です、“扉を壊すもの”ではありません!」
「分かっている!」
サタンは歯を食いしばり、掌を前へ突き出した。
胸の奥から引きずり出された光が、血のように濃い赤を帯びながら空中へと迸る。
それは最初、ただの奔流だった。
だがアスカントの魔法陣がそれを受け止め、削り、圧縮し、形を与えていく。
一本の棒。
幾重もの歯。
捻じれた環。
そして中心部に組み込まれる、空間術式そのものを噛み砕くための異形の紋様。
鍵だった。
この世のいかなる城門にも合致しない、理の外側に差し込むためだけの鍵。
それが、賢者の石の輝きから造られていく。
アスカントの額から汗が流れ落ちる。
「もう少し……もう少しで固定できます……!」
サタンの腕が震えた。
賢者の石を引きずり出す負荷は、想像以上だった。
魔力だけではない。
肉体、精神、魂、その全てを軋ませながら、石は力を吐き出している。
指先が裂け、血が鍵の表面へ零れ落ちた。
すると鍵は、持ち主の血を得たことでさらに濃く、禍々しい輝きを増す。
ルシファーが目を細める。
「無茶をしているな」
「今さらだ」
サタンは荒く息を吐いた。
「地獄の底まで来ておいて、綺麗に帰れると思う方が甘い」
その瞬間、アスカントが声を上げた。
「完成です! 今なら差し込める!」
サタンは一歩踏み出し、歪んだ空間の中央へ鍵を突き立てた。
――ギィィィィィィン……。
耳障りな金属音のようでいて、実際には空間そのものが悲鳴を上げる音だった。
存在しないはずの門が浮かび上がる。
捻じれた裂け目が、ゆっくりと、そして無理やりに回されていく。
鍵が回る。
世界が軋む。
裂け目の向こうに、黒でも赤でもない、ぬめるような暗紫色の気配が滲み出した。
「開くぞ!」
アスカントが叫ぶ。
亀裂は一気に拡大した。
岩盤の裂け目ではない。
まるで生きた肉の内部を無理やりこじ開けたような、湿った門。
そこから吹き出したのは瘴気ではなく、巨大な生物の体内に満ちる熱気と、生臭い海の匂いだった。
「……何だ、この臭いは」
ゾイルが顔をしかめた、その直後だった。
一行は門の向こうへと躍り出る。
だが、踏み込んだ先の感触に、誰もが一瞬動きを止めた。
足場が硬い岩ではない。
ぬめりを帯び、微かに脈打っている。
周囲には壁がある。
だがそれは石壁ではなく、赤黒い肉の襞だった。
はるか上方には牙のような白い柱が並び、天井らしき部分は粘ついた唾液に濡れて鈍く光っている。
沈黙。
最初に口を開いたのはアスカントだった。
「……口内、ですね」
「は?」
ゾイルが固まる。
ルシファーが静かに周囲を見渡し、断じる。
「門は別の生体空間へ繋がっていた。ここは外界ではない。インドラすらすっぽり収まるほど超巨大な生物のな……」
サタンが足元の肉壁を見下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その目がわずかに細まる。
「……なるほど。そういうことか」
次の瞬間。
世界が、揺れた。
いや、世界ではない。
この空間そのものが動いたのだ。
肉壁が蠕動し、上下の牙が軋み、遙か先に見える喉の奥から、地鳴りのような低音が響いてくる。
インドラが唸る。
「この牙と巨大さ、ドラゴンだ……あいつだな!」
一行は、その時ようやく理解した。
自分たちが通ってきた鬼側地獄の門は、固定された空間通路などではなかったのだ。
それは、ある超巨大生物の口へ直接繋がる“出入口”だった。
外へ視線を向けたゾイルが、息を呑む。
巨大な牙の隙間、そのさらに向こう。
そこに見えたのは、暗い海のような空間と、常識を拒絶するほどの巨体の輪郭だった。
「う、そだろ……」
思わず零れた呟きのあと、彼ははっとして言い直す。
「……あ、あれは……まさか……!」
全身が見えているわけではない。
牙の隙間から見えているのは、ほんの一部だけだ。
それでもなお、外縁に覗く鱗の稜線だけで、数百メートルを超えていた。
おそらく全長は一キロを超える。
いや、見えていない部分を含めれば、それ以上ですらありうる。
どこまでも巨大になることを許された存在。
生物という枠のまま、世界の地形に届くことを許された怪物。
リバイアサン。
海そのものが竜の形を取ったかのような、途方もない巨竜だった。
インドラでさえ、低く息を呑む。
「……これはまた、とんでもない場所に出たものだな」
サタンは口元を歪めた。
「鬼の地獄門が、こいつの口と繋がっていたとはな。そりゃ入り口を破壊してでも行き来を制限するわけだ」
視線を上げ、巨大な肉壁の震えを睨む。
「無理やり鍵をこじ開けた。向こうにしてみれば、喉元に棘でも突っ込まれた気分だろう」
その答え合わせをするように、次の瞬間、リバイアサンが咆哮した。
音、ではなかった。
衝撃そのものだった。
口腔の空気が一斉に爆ぜ、暴風となって一行を襲う。
肉壁が震動し、牙の一本一本が塔のように唸る。
ただ吠えただけで、そこらの城塞なら粉砕されるであろう圧力。
「では、逃げるぞ!」
サタンが即断した。
迷いはなかった。
「勝てるかどうかではない。今は勝つべき時じゃない!インドラ!」
サタンが振り向く。
「よかろう!」
アスカントの重力が顎の一部を下へ引き、無理やり開口を維持した。
顎の閉鎖をわずかに鈍らせる。
「今です!」
アスカントの叫び。
インドラが全員を背に乗せたまま、一気に加速する。
唸る雷。
裂ける空気。
そのまま巨大な牙の隙間をすり抜け、リバイアサンの口外へと飛び出した。
外へ出てもなお、リバイアサンの全容は見えない。
見えている首筋と背の一部だけで、山脈のようだった。
暗い世界の中、途方もない鱗の列がどこまでも続いている。
巨体がわずかにうねるだけで、周囲の空間そのものが揺れた。
ゾイルが顔を強張らせたまま呟く。
「……あれと正面からやり合うのは、さすがに無茶です」
「当然だ」
サタンは荒い息を整えながら答えた。
「今の俺たちは、地獄帰りで消耗しきっている。あれだけの規格外に付き合う義理はない」
リバイアサンが再び咆哮する。
その喉奥で、さらなる破壊の気配が膨れ上がる。
サタンは即座に命じた。
「離脱する。全速だ、インドラ」
「承知した」
巨竜は短く応じ、翼を打つ。
黒金の雷を尾のように引きながら、一行は怪物の射程から一気に離脱していく。
背後ではなお、リバイアサンが怒り狂ったように身をよじっていた。




