122 脱出経路
ルシファーの声が、珍しくわずかに硬い。
「われの知る神では断じて無い。しかし……これほどの神力……」
サタンは封じられた存在を見上げ、低く言った。
「誰だ、そなた」
返事はない。
だが、サタンが近づいた瞬間、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。
その目は、太陽をそのまま瞳に宿したかのような金だった。
岩の中に封じられているというのに、その光は今にも漏れ出てきそうであった。
視線が合う。
たったそれだけで、無間地獄の闇がざわめいた。
まるで、この存在が目覚めること自体を恐れるように、周囲の暗黒が波立ち、鎖がきしみを上げる。
「……なるほど」
ルシファーが低く呟く。
「こいつが闇の核か。いや、正確には逆だな。こいつを封じるために、無間の闇が形成されている」
「封印を解けば、闇は保てなくなるってことか」
サタンは断じた。
「なら、さっさとやるだけだ。俺はもうクタクタで帰りたい」
インドラが牙を見せる。
「鎖を砕けばいいのだな。食い破ってやろう」
「待て」
ルシファーが制する。
「力ずくでは反発が来る。封印はこいつ自身にも絡んでいる。雑に壊せば、中の神性ごと暴発しかねん」
「面倒だな。じゃあそうするんだ?」
「だからわれがいる」
ルシファーの声に、わずかな自負が混じった。
「神性の封印なら、まずは魔力で剥がし、神力で呪い自体を払う」
次の瞬間、サタンの全身に白い光が走った。
内に宿るルシファーの神性が、一時的に肉体を通して表へ滲み出したのだ。
黒の身に、異質な白光が混ざる。
神と魔。
相反する力が無理やり一つの器に収まるたび、筋肉と骨が軋むような痛みが走った。
傷口から漏れ出ている。
それでもサタンは手を伸ばす。
鎖へ触れた瞬間、白い火花が散った。
黒鎖が激しく明滅し、拒絶するように唸りを上げる。
だがルシファーの力はそれを上回った。
封印の綻びを見つけ、そこへ神性をねじ込み、術式の噛み合いを一つずつ外していく。
「左の三本目だ。そこが基点になっている」
「分かった」
サタンはそこへ神力と魔力を集中させ、一気に握り潰した。
黒鎖が弾ける。
続けて二本。三本。
ルシファーの導きに従い、封印の要所を正確に砕いていくたび、闇が悲鳴を上げるように震えた。
インドラもまた、黒金の雷を一点に絞り、外側の拘束を焼き切る。
おおざっぱな力技はインドラに任せた方が効率的だ。
雷鳴が闇を裂き、鎖の一部が融け落ちる。
最後の一本が砕けた、その瞬間だった。
封じられていた女神の身体から、光が溢れた。
爆発ではない。
夜明けだった。
一条の光が走り、次の瞬間には無数の金光が無間地獄の闇を内側から貫いていく。
暗黒が焼ける。
逃げ場を失った影が崩れ落ちる。
今まで無限に続くと思われた闇の奥行きが、一枚の幕のように剥がれ始めた。
インドラが思わず目を細める。
「これは……!」
サタンも腕で顔をかばいながら、その光景を睨んだ。
圧倒的だった。
無間を満たしていた闇が、ただ一柱の解放によって次々と退いていく。
距離感を狂わせていた幻惑も、空間を曖昧にしていた歪みも、光の前では保てない。
世界の輪郭が、ようやく戻ってくる。
闇の中から現れたのは、無間地獄の本来の姿だった。
果てがないのではない。
果てを見せぬようにされていただけ。
頭上遥か上方には岩盤の層があり、地獄の上階へ続く境界が、薄闇の向こうにうっすらと浮かび上がっていた。
解放された女神は、空中で静かに目を開いていた。
全身からこぼれる光だけで、この地獄そのものを否定しているかのようだった。
誰も、その名を知らない。
だが、その場にいる三者すべてが理解していた。
自分たちが今、常識の外にいる神格を解き放ったのだと。
女神はゆっくりとサタンたちへ視線を向けた。
その目に敵意はない。
ただ、永い封印から解き放たれた者の静かな熱があった。
「……礼を言う」
声は静かだった。
だが、響きは巨大だった。
それだけで無間の空気がわずかに震える。
「長く閉ざされていた。お前たちがいなければ、なおしばし闇の底に留め置かれていただろう」
サタンは女神を見上げ、短く返した。
「気にするな。こちらも都合があっただけだ」
ルシファーが内側から小さく笑う。
「相変わらず愛想がないな」
「今さら礼の応酬をしている暇はない」
サタンはそう言って、頭上を見上げた。
闇は消えつつある。
道は見えた。
なら、次にやることは一つだ。
女神は一瞬だけサタンを見つめ、それから小さく頷いた。
「ならば、せめて一つ返そう」
その言葉と共に、彼女の周囲から光が広がった。
それは攻撃ではなく、浄化に近い何かだった。
無間地獄になおへばりついていた残滓の闇が、その光に触れた場所から静かに溶けていく。
空間にまとわりついていた最後の幻惑が消え、上層への道筋が完全に露わになった。
インドラが喉を鳴らす。
「……十分すぎる礼だな」
サタンも、ようやくその先を見据える。
岩盤。
層。
突破すべき境界。
もう迷いはない。
「礼は受け取った」
サタンは女神へ言う。
「名は知らんが、これで借り借りなしだ」
女神は何か言いかけたが、サタンはすでにインドラの背へ飛び乗っていた。
ルシファーが内側で呆れたように息を吐く。
「本当に礼もそこそこだな」
「脱出の方が先だ」
インドラが大きく翼を広げる。
黒金の雷が再び全身を覆い、巨竜の喉奥に莫大な力が集まり始めた。
今度は飛ぶだけではない。
見えた道を、インドラが通れるほどの大きさにこじ開ける。
サタンは上方の岩盤を指さした。
上方遥か、闇のさらに向こうに、岩盤めいた層が見える。
インドラが牙を剥く。
「見えたぞ!」
「インドラ、あそこだ。階層ごと穿て」
巨竜の喉奥に、金色の雷と黒雷が収束した。
圧縮された破壊が唸りを上げ、次の瞬間、極大のブレスとなって放たれる。
光が奔る。
闇を裂き、空間を穿ち、上部の岩盤へ直撃する。
無間地獄全体を揺るがすような轟音。
遅れて、砕けた岩と灼熱の破片が雨のように降り注いだ。
そして、ぽっかりと穴が開く。
上層へ繋がる、強引極まりない突破口だった。
「そのまま突っ切れ、インドラ!」
サタンが声を張る。
「今さら地獄に遠慮する必要はない!」
「言われるまでもない!」
インドラは翼を打ち、爆風と共に上昇する。
穴を貫き、地獄の第四階層へ飛び出した瞬間、淀んだ空気の質が変わった。
無間の底に比べれば、まだ世界としての輪郭がある。
荒れた岩場の上で、ゾイル、タマ、アスカントが顔を上げた。
無事合流していたのだ。
突如として天井を突き破って現れた黒雷の竜に、一瞬身構える。
だが次の瞬間、その巨体を見たゾイルの目が見開かれた。
「なっ……!?」
ゾイルは思わず一歩退く。
「りゅ、竜……いえ、まさか……インドラ様……!?」
その背に立つサタンを見上げ、さらに驚愕が深まる。
地獄の天井を突き破って現れたのは、王として座していたインドラ。
しかも、その背に当然のように乗っているのが自分の主だ。
「サ、サタン様……ご無事で……!」
驚きと安堵が入り混じった声で、ゾイルは叫ぶ。
「いったい下で何をしてこられたのですか……!」
サタンは軽く鼻で笑った。
「少し獲物を解体していただけだ」
背の剣を叩き、脇に抱えた心臓を示す。
「ついでに土産も拾った。説明は後だ。お前たち、乗れ」
ゾイルは一瞬ぽかんとした後、すぐに我に返った。
「は、はい!」
そしてインドラへ向き直り、姿勢を正す。
「し、失礼いたします、インドラ様。お背中をお借りします」
インドラは黄金の双眸で彼を見下ろし、低く笑った。
「よい。落ちぬように掴まっていろ、人の身ではないにせよ、我の飛翔は少々荒いぞ」
「も、もったいないお言葉です!」
タマは尻尾を揺らし、アスカントは苦笑しながら素早く飛び乗る。
まず目につくのは強大な肉塊。
「な、なんですか!?これ?凄まじい魔力が宿ってますよ!?」
「でっかい心臓だニャ。もしかして、ヤマタノオロチの?」
「ああ、そうだ。帰ったら食おうと思ってな」
「やったー!!」
タマは嬉しそうにインドラの背ではしゃいでいる。
ゾイルも緊張した面持ちのまま、慎重にインドラの背へ移った。
その最中、彼の目がサタンの背の剣に止まる。
「……サタン様、その剣は?」
「オロチの腹の中にあった」
サタンは端的に答えた。
「心臓の近くに刺さっていた。まともな代物ではないだろうな」
「腹の中……」
ゾイルは目を丸くしたまま、小さく呟く。
「何かの呪いがかけられた剣なのでは?とんでもないものを持ち帰られましたね……」
「よくわからん。ジュウベイに見てもらう」
サタンは口元を歪めた。
「だが……未知は危険だが、使えるならためらわないさ。料理と同じだな」
「喰えるなら何でも喰うみたいな感じですか」
第四階層の天蓋には、魔界へと続く亀裂穴が口を開けていた。




