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121 無間地獄の奥にいた神?

やがて静寂。

無間地獄の底に残ったのは、砕けた大地と、首を失った胴体、まだ微かに弾ける雷だけだった。

サタンは膝をついた。

肩で息をしている。

全身が限界だった。

だが、生きている。

その隣へ、インドラがゆっくりと降り立つ。

巨体を揺らしながらも、雷竜はまだ倒れない。

「……終わったな」

サタンは荒い息のまま笑う。

「ようやく、な」

胸の奥から、ルシファーの声。

今度はとても静かだった。

「見事だった、サタン」

サタンは少しだけ空を見上げる。

空などない。

ただ無間の闇があるだけ。

それでも、その闇はさっきまでとは違って見えた。

オロチの欠片として生まれたかもしれない。

竜の本能を抱えているのかもしれない。ルシファーと一つになり、もう元へ戻れないのかもしれない。

それでも。

ここで七つ首の災厄を斬り、喰われる側ではなく、倒す側として立っているのは自分だ。

サタンはゆっくり立ち上がった。

「行くぞ」

インドラが首を傾げる。

「どこへだ」

サタンは血のついた口元を親指で拭い、いつものように笑った。

「決まってる。まだ地獄は終わってない」

ルシファーも、今度ははっきりと答える。

「ああ。サタンとして、進もう」

無間地獄の底で。

竜と魔人と堕天の王は、ついに一つの決着を越えた。

ヤマタノオロチ討伐。

それは単なる勝利ではない。

サタンが、自分の出生も、本能も、共に在る魂も呑み込んだうえで、それでも“自分”として立った証だった。



ヤマタノオロチが、ついに沈黙した。

七つの首は力なく垂れ、巨山のごとき胴は無間地獄の闇の底に横たわっている。

傷口からは黒い血が滝のように溢れ、その熱すら、底の見えぬ奈落の寒々しさに呑まれていた。

サタンは巨大な死骸の上に降り立つと、迷いなく刀を振り下ろした。

硬質な鱗と肉を断ち割り、胸郭の奥へと踏み込む。

腐臭、血臭、焼け焦げた内臓の臭いが混ざり合い、吐き気を催すほど濃密な瘴気となって渦巻いた。

だが、サタンの目は揺るがない。

狙うのは、この化け物が呑み込み、取り込んできた無数の魂だった。

裂けた肉の奥で、どろりと濁った光が脈打っていた。

それは魂だった。

喰らわれ、消化されきれず、なお怨嗟と執念を抱えたまま、オロチの内に澱のように沈殿していた。

サタンは片手を突き込み、その光を強引に引きずり出す。

ぶちぶちと見えない糸が千切れるような音がして、濁流のように絡みついていた魂の塊が外へ引き剥がされた。

「……この化け物、よほど喰ってきたらしいな」

サタンは低く呟き、手の中で蠢く魂の塊を見下ろした。

「死んでもなお腹の中で泣き続けるとはな」

怨念に満ちた魂は獣のように唸り、形を失いながら蠢いていた。

ルシファーが白光を指先に宿し、静かに言う。

「長く取り込まれすぎている。放置すれば、再びこの地の瘴気に溶けるだろう」

「なら、ここで捨てる理由はないな」

サタンはそう言って、魂の塊ごと呑み込んだ。

喉の奥を焼くような熱と、氷の針を流し込まれたような悪寒が同時に走る。

だが、それすら力へと変えてしまうのが、竜魔人たるサタンの在り方だった。

次にサタンが狙ったのは心臓だった。

オロチの中心。

七つ首を動かし、膨大な呪力を巡らせていた核。

内臓をかき分け、骨を砕き、なお奥へ。

やがて、闇の中で鈍く脈打つ巨大な心臓が姿を現した。

もはや主を失っているにもかかわらず、それはなお惰性で鼓動を続けていた。

一打一打ごとに、周囲の肉壁が震え、黒い血がぬめりを引いて流れ落ちる。

「心臓だけは、まだ死にきっていないか」

サタンは薄く目を細めた。

「しぶとさだけは伝説級だな」

サタンがその心臓に刀を突き立てようとした、その時だった。

「……何だ?」

心臓のさらに奥。

肉と骨の隙間に、異物の光が見えた。

生物の体内には決してあるはずのない、冷たく鋭い金属の気配。

サタンは眉をひそめ、腕ごと深く突っ込む。

肉を裂き、骨を押しのけ、瘴気にまみれた何かを掴む。

引き抜かれたそれは、長大な剣だった。

刀身は半ば黒く変色し、半ばは鈍い銀光を放っている。

ただ埋もれていただけではない。

まるでかつて、この剣でオロチの内側を貫こうとした者がいたかのように、体内に収まっていた。

「剣、か」

サタンは血と臓物を振り払いながら、その長大な刀身を見た。

「呑み込んだ獲物の骨では済まんな。これは明らかに武器だ」

ルシファーが近づき、剣を一瞥する。

「神代か、それに近い代物かもしれないな。オロチを討とうとして、逆に呑まれた者の遺物か……あるいは」

「考えるのは後だ」

サタンは短く言った。

「持ち帰る。今後は武器の需要も重要となる。」

そう言って剣を背へ収める。

そして今度こそ、ヤマタノオロチの心臓を抉り出した。

ずるり、と濡れた巨塊が引きずり出され、外気に晒された瞬間、心臓はびくりと大きく痙攣した。

サタンの背丈の数倍はある心臓。

そこから漏れ出た禍々しい呪力に、周囲の闇すら粘つくように揺らぐ。

「よし」

サタンはその重量を支え、口元にうっすら笑みを浮かべた。

「土産としては十分すぎる。インドラ、お前もそう思うだろう?」

黄金と黒雷を帯びた巨竜が、闇の中で低く喉を鳴らした。

インドラの翼が、無間地獄の底でゆっくりと広がる。

「無論だ。これほどの獲物、持ち帰らねば損というものだな」

「インドラ。悪いが、背にのせておいてくれ。では、さっさと出るぞ」

サタンはインドラの背へ飛び乗る。

「いつまでもこんな底にいれば、地獄そのものに足を掴まれる」

ルシファーもまた静かに後へ乗った。

オロチの心臓と、謎の剣。

地獄の底から奪い取った戦利品を携え、一行は飛翔する。

轟音。

黒金の雷をまとい、インドラの巨体が無間地獄の闇を駆け上がる。

だが飛んでも、飛んでも、景色が変わらない。

闇。

ただ闇。

果てのない、底のない、距離感さえ狂わせる漆黒。

風を裂いて進んでいるはずなのに、どこにも辿り着く気配がなかった。

無間地獄といわれるゆえんなのだろう。

インドラが低く唸る。

「妙だな。これだけ飛んで、何ひとつ輪郭が見えぬとは」

サタンは前方を睨んだまま答える。

「進んでいる感覚はある。だが、空間が噛み合っていない」

わずかに眉を寄せ、続けた。

まるで、ただ暗いのではなく、闇そのものが意志をもって視界と認識を狂わせているようだった。

「……ただ広いだけではないな」

サタンが低く言う。

「無間地獄は空間そのものが異常なのではない。闇に認識を乱す術が混ざっている。見渡す限り何もないのではなく、“何も見えぬようにされている”のだ」

インドラが首だけわずかに巡らせる。

「では、破れるのか。その闇は」

「闇そのものは払える」

ルシファーの声は静かだった。

「だが、これはただの地獄の瘴気ではない。もっと古い。もっと質の違う神性が奥に沈んでいる」

サタンの眉がぴくりと動く。

「神性?」

「ああ。極めて強大な、しかも封じられた光だ。無間の底で抑え込まれている。だからこの闇はただの暗黒ではなく、光を封じるための檻になっている」

「なら」

サタンは口元をわずかに歪めた。

「その封印を壊せば、闇は自壊するか」

「可能性は高い」

ルシファーは短く答えた。

「少なくとも、このまま飛び続けるよりは賢い」

インドラが喉を鳴らす。

「面白い。では、飛びながら探るぞ。どこにある」

サタンは目を閉じた。

周囲の闇へ意識を沈める。

瘴気。

怨嗟。

地獄そのものの澱。

その奥、さらに深く。

確かにあった。

熱。

だが炎ではない。

焼くというより、世界の輪郭そのものを照らし出すような光の核。

押し潰され、覆われ、幾重にも封じられてなお、なお消えずに在り続ける莫大な神力。

サタンが目を開く。

「……あった」

「どこだ」

「上ではない。横でもない」

サタンは闇の一点を見据えた。

「この無限に見える空間の、さらに奥。中心だ。闇に溶け込んで見えないだけで、何かがある」

インドラにもわかるように雷撃の進路を示す。

インドラは翼を打ち、進路を変える。

黒金の雷が尾を引き、巨体が闇を切り裂く。

何も見えないはずの空間を、サタンの感覚だけを頼りに突っ切っていく。

やがて、漆黒の中にわずかな違和感が浮かび上がった。

最初は、ただ闇が濃いようにしか見えなかった。

だが近づくにつれ、それが“塊”だと分かる。

巨大な黒い岩のようなもの。

その岩に幾重にも絡み合った黒い鎖。

その中心に、誰かが封じられていた。

ルシファーの七色の眼でその岩を透視する。

闇の中に、輪郭が浮かぶ。

目を閉じ、微動だにしない。

両腕も胴も、長い髪すら指一本動かせないように拘束されている。

だが、閉ざされてなお、その身の奥から漏れ出す神力は圧倒的だった。

闇の封印で隠され、押し殺されている。

それでもなお、闇の海そのものを焼き尽くしかねないほどの神力が、静かに脈打っていた。

インドラが息を呑む。

「……何だ、あれは」

サタンも答えない。

いや、答えられなかった。

名を知らない。

姿も見覚えがない。

そもそもインドラが知らないものを知るわけない。

だが、分かることが一つだけある。

「とんでもないものが封じられているな」

「……神?」


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