118 ルシファーの覚悟
黒い氷片と瘴液が、無間の闇へ飛び散る。
だが、オロチはまだ嗤っていた。
のこり6つ。
七つ首の神代竜は、それでもなお災厄として立っている。
「良い。実に良い」
中央首の眼が、獲物を見る色へ変わる。
「それでこそ喰いでがある」
その瞬間だった。
サタンの胸の奥。
ずっと沈黙していたものが、ついに動いた。
今までとは違う。
気配ではない。
曖昧な沈黙でもない。
明確な、意思を持った声。
「……サタン」
低く。
深く。
闇よりもなお古い響き。
サタンの目がわずかに見開かれる。
「ルシファー」
インドラも、背中越しにその変化を察したらしい。
巨大な首が一瞬だけ傾く。
「ようやく喋るか」
ルシファーの声は、静かだった。
だがそこには、長い時間押し殺してきたものの重さがあった。
「黙っていたのは、事情があった」
サタンはオロチを見据えたまま問い返す。
「それは何だ?」
「地獄の魔力と瘴気だ。魔界より圧倒的に濃い」
一言で、空気が変わる。
「魔界よりも濃い瘴気の中で、私が前面へ出れば、受肉の結びつきが固定される危険があった。つまり、私は完全に天使ではなくなり、おまえと私の境界が溶け、二度と分離できなくなる可能性が高かった」
サタンは短く息を呑む。
それは初耳だった。
「だから黙っていた」
「下手に力を貸せば、そなたを助ける代わりに、そなたの人生ごと奪うことになるかもしれなかったからだ」
無間地獄の闇の中で、その告白は妙にまっすぐだった。
インドラが低く唸る。
「慎重すぎる奴だ」
「そうかもしれん」
ルシファーは否定しなかった。
むしろ、どこか苦く笑っているような気配すらあった。
「だが、先ほど聞いた」
サタンが低く問う。
「何を」
ルシファーの答えは、迷いがなかった。
「“俺は俺だ”という言葉だ」
その一言で、サタンの脳裏に先ほどの自分の声が蘇る。
オロチの前で。
竜の本能を前にして。
出生の真実を叩きつけられてなお、吐き捨てた言葉。
俺は俺だ。
「あれを聞いて、ようやく踏ん切りがついた」
ルシファーの声が、少しだけ柔らかくなる。
「われはルシファーとして……神の忠実……いや、神の使いに戻ることに拘りすぎていたのかもしれん。だが、そなたは違った」
ルシファーは続ける。
「オロチの欠片でも、竜でも、われの受肉の器でもなく……それでも自分をサタンだと言い切った」
オロチの首が再び迫る。
だがサタンの意識はぶれない。
ルシファーの言葉を聞きながら、なお黒縛と断線で牙を逸らし、インドラが急旋回してかわす。
「もういい」
ルシファーは言った。
「私はサタンとして生きていく」
サタンの胸の奥で、何かが静かに定まる。
「受肉が解けぬなら、それでいい。そなたの中で、そなたと共に在る」
「ルシファーであることに縛られず、サタンとして先へ行く」
インドラが低く笑った。
「ようやく腹を括ったか、堕天の王」
「遅いと言うな。繊細な問題だったのだ」
その返しに、サタンは思わず口元を吊り上げる。
「こんな最中に、ずいぶん勝手な告白だな」
「そなたは我と一緒にいるのはいやか?」
「そんなことは無いさ。……相棒」
サタンはオロチの六つ首を見上げる。
黒雷が指先で弾ける。
胸の奥にはルシファー。
背にはインドラ。
三つの意志。
三つの覚悟。
「……ちょうどいい」
その瞬間。
サタンの黒が変わった。
自然力、魔力、神力。
そこへインドラからの魔力提供。
さらに今、ルシファーが腹を括ったことで、内側に沈んでいたもうひとつの核が完全に噛み合う。
黒はなお黒い。
以前よりも深い。
ただ呑み込む色ではなく、意志を持った王の色へと近づいていた。
オロチもそれを察したらしい。
中央首の眼が、初めてわずかに揺れた。
「……変わったか」
サタンはインドラの背で立ち上がる。
不安定なはずの竜の背なのに、妙に足元がぶれなかった。
インドラの飛行に、サタンの感覚が完全に馴染んでいる。
まるで最初から、こう戦うためにいたかのように。
「インドラ」
「何だ」
「正面から行く。おまえのブレスを軸に、俺が道を作る」
「乗った」
サタンは胸の奥へ言う。
「ルシファー」
「聞いている」
「力を貸せ」
短い沈黙。
そして、はっきりと。
「出会った時からそのつもりだ――相棒」
次の瞬間。
インドラが咆哮した。
金黒雷ブレスが喉奥で膨れ上がる。
同時に、サタンの全身を黒雷、黒風、黒炎、黒氷、断線、黒縛りが包み込む。
そのさらに奥で、ルシファーの意志が核として定まり、全てをひとつに束ねた。
三人で一体。
ドラゴンライダーたるサタン。
雷竜インドラ。
そして、サタンとして生きると決めたルシファー。
ヤマタノオロチが、無間地獄の闇を埋め尽くすように咆哮する。
六つの口腔に呪いと瘴炎が集まり、世界そのものを喰らうような一斉砲撃の構え。
それを前にして、サタンは笑った。
「来いよ、化け物」
黒い雷が、顔を照らす。
「首が七つあろうが、こっちは三人だ」
インドラが翼を打ち下ろす。
雷光が闇を裂く。
無間地獄の闇が、三色に裂けた。
黒。
金。
そして、白。
ヤマタノオロチが咆哮し、六つの喉奥に呪いと瘴炎を吐き出した。
“終獄天墜”(しゅうごくてんつい)――。
その圧は、もはや津波などという生易しいものではない。
空間そのものを腐らせ、無間地獄の闇ごと押し潰しながら迫る、災厄そのものの奔流だった。
だが、今のサタンは一人ではない。
インドラの背に立つサタン。
その胸の奥で、ついに沈黙を破ったルシファー。
三つの意志が、ひとつの戦意へと噛み合っていた。
「来るぞ、サタン!!」
インドラが吼えた。
黄金と黒が入り混じる異形の雷が、その巨躯の鱗の隙間から噴き上がる。
背に立つサタンは足を開き、天叢雲を正面へ構えた。
そして胸の奥から、低く、澄んだ声が響く。
(案ずるな。防ぐのではない――捻じ曲げるのだ)
次の瞬間、サタンの全身から白い神力が噴き出した。
ルシファーの力だった。
眩いはずのその光は、無間地獄の闇の中ではむしろ冷たく鋭く、薄刃のように空間へ走る。
「インドラ、正面からぶつけろ!」
「応とも!!」
インドラが口を開く。
喉奥で黄金の神雷が唸り、そこへ黒き竜雷が螺旋を描いて絡みつく。
金黒の雷光は一つの奔流となって迸り、迫り来る“終獄天墜”へ真正面から激突した。
轟音。
いや、それは音ですらなかった。
世界そのものが悲鳴を上げたような、耳ではなく魂を震わせる衝撃だった。
呪いと瘴炎の濁流は、金黒雷を呑み砕かんと牙を剥く。
だがその瞬間、サタンが剣を振るう。
白き神力が刃から放たれ、濁流の表層を走った。
ただ斬ったのではない。
ルシファーの神力が、呪いの構造そのものを乱し、瘴炎の流れを歪めたのだ。
本来なら一塊の滅びとして落ちてくるはずの“終獄天墜”が、そこでわずかに軋む。
ほんの一瞬。
されど、神域の戦いでは致命的な一瞬だった。
「今だァッ!!」
サタンの咆哮と同時に、インドラの雷がさらに膨れ上がる。
黄金が呪いを穿ち、黒雷が瘴炎の核へ食い込み、内側から食い破る。
押し寄せていた災厄の奔流は、まるで大河を真横から断たれたかのように裂け、左右へ弾け飛んだ。
流れきれなかった呪いの火が、なおも牙を剥いて襲いかかる。
だがサタンの前に、半透明の白い紋様が幾重にも展開した。
それはルシファーが幾重にも編んだ神力の障壁。
ただ受け止めるのではなく、触れた呪いを浄化し、瘴気を削り取りながら霧散させる聖なる壁。
黒紫の炎が障壁にぶつかるたび、じゅう、と腐肉を焼くような不快な音が響く。
それでも白は崩れない。
むしろ侵食してくる闇を喰らい、光へと変えていく。
サタンはその中心で歯を食いしばった。
足場はインドラの背。
身体の内にはルシファー。
竜の咆哮と、堕天の神力と、自身の魔が、完全に一つへと重なっていくのを感じる。
無間地獄を覆っていた滅びの濁流は、ついに押し返された。
裂けた闇の向こうで、ヤマタノオロチの巨眼が初めてわずかに揺れる。
その怪物の災厄を、真正面から止めてみせたのだ。
サタンは剣を構え直し、口の端をつり上げた。
「どうした、オロチ」
インドラの背で、雷を纏ったまま立つ。
胸の奥では、ルシファーが静かに嗤っていた。
「その程度で、俺たちを地獄に沈めたつもりか?」




