117 神代の邪竜と ドラゴンライダー
上空――と呼んでいいのかも分からない闇の彼方で、巨大な赤黒い紋様が開き、その奥から14つの眼光が灯る。
世界の天井に、14つの星が生まれたようだった。
だがそれは光ではない。
捕食者の目だ。
「来たか」
インドラの声が低く沈む。
サタンは立ち上がる。
足はふらつく。
傷も深い。
それでも先ほどまでとは違った。
腹の奥で暴れていた竜の本能が、今はただの飢えではなく、輪郭を得ている。
使うべき牙。
使うべき衝動。
制御下に置いた暴威。
オロチの声が闇を満たした。
「逃げ場なき底で、ようやく喰える」
七つの首が、ゆっくりと現れる。
無間の闇に、その巨大な輪郭が次々と浮かび上がった。
前の空洞で見たときよりもなお巨大に感じる。
この底そのものが、オロチの影を増幅していた。
「雷竜までいるか……よい。まとめて喰らえば、より上等だ」
インドラの喉で雷鳴が鳴る。
「相変わらず、食い意地だけは神代級だな」
オロチの一つの首が、ゆっくりと歪む。
「知っているぞ、雷の竜の成り損ない……わが友、ヴリドラを殺して竜になった半端者よ」
インドラの眼が細くなる。
だが怒りではない。
認める静けさだった。
「半端で結構」
雷が、闇を裂く。
「私は“竜でしかないもの”にはならなかった。魔人だった頃の意思も、竜となった今の牙も、どちらも捨てていない」
サタンはその言葉を横で聞き、口元をわずかに吊り上げた。
「似たようなことを言うじゃないか」
「そうでもない。おまえは今から本番だ」
インドラの巨大な首が、サタンの横に並ぶ。
味方として。
だが同時に、先を行った“竜になる者”として。
「サタン」
雷竜の声が、無間の底でまっすぐ響いた。
「竜の本能を拒むな。呑まれるな。使え」
「飢えを牙にしろ。適応を武器にしろ。だが、おまえの核だけは手放すな」
「それができるなら、おまえはオロチの欠片で終わらない」
オロチの首たちが、一斉に開く。
喉奥に火でも毒でもない、赤黒い呪力が集まっていく。
無間地獄の闇がさらに沈む。
それを見たサタンは、深く息を吸った。
肺が痛む。
傷が軋む。
だが、もう迷いはない。
黒雷が右腕に奔る。
黒風が背後で渦を巻く。
黒炎が左手に灯る。
断線が闇の中へ幾重にも走り、黒い渦が足元から這い出る。
その黒は、以前よりも濃かった。
自然力、魔力、神力。
そしてそこへ、竜としての本能と適応の理が混ざり、さらに深く沈んだ色。
サタンはオロチを見上げる。
七つの首を。
自分の“元”であったものを。
「喰うつもりなら来い」
笑う。
血だらけのまま。
それでも、確かな意志をもって。
「首を取り戻したいんだろう」
黒い雷が、闇を照らす。
「だったら逆に、俺が喰ってやる」
その言葉と同時に、インドラが咆哮した。
雷が無間地獄を貫く。
オロチもまた七つの咆哮を重ねる。
闇の底で、三体の竜が、それぞれ異なる成り立ちと意志をぶつけ合おうとしていた。
ひとつは神代から続く純粋な災厄。
ひとつは竜殺しの果てに竜となった雷の魔人。
ひとつは切り落とされた首から生まれ、今まさに竜の本能を飼い慣らそうとする魔人。
無間地獄の決戦が、始まる。
赤黒い闇の奥で、七つ。
それぞれが別の怒り、別の飢え、別の悪意を宿したまま、ゆっくりと開く。
先ほどまで八つあったはずの首は、いまや七つ。
ひとつは失われた。
切り落とされ、戻らず、魔界に生まれ落ちた。
サタンとして。
その事実を嘲るように、残る七つの首が地獄の底を見下ろしていた。
巨体は闇に溶け込み、輪郭すら世界の一部に見える。
黒ずんだ鱗は岩盤にも似て、裂け目の奥では溶岩じみた赤が脈打っている。
喉の奥から漏れる息は黄緑の瘴気を帯び、地面に落ちた途端、無間の闇さえ腐らせるように泡立った。
「ようやく揃ったか」
中央の首が嗤う。
七つ首でありながら、その圧は先ほどよりもむしろ濃かった。
失われた一首を埋めるように、残る七つが飢えと呪いを凝縮している。
「欠けた首。雷の成り損ない。……そして、その中の堕ちた星」
その言葉に、サタンの胸の奥で何かがぴくりと動いた。
だが今は問い返さない。
インドラが巨躯を沈め、雷を唸らせる。
「乗れ」
短い一言。
サタンは頷く。
地を蹴る。
裂傷だらけの身体が悲鳴を上げる。
それでもサタンは迷わず跳び、インドラの背へ着地した。
鱗は熱かった。
だが灼熱ではない。
雷を内側に飼い慣らした、獣の体温。
体温とともに伝わる膨大な魔力。
踏みしめた瞬間、サタンの足裏へ紫電が走り、次いで黒雷と共鳴する。
「……悪くない。体が軽くなってきた」
「落ちるなよ」
「安全運転で」
「最大速度で飛翔する」
インドラの巨大な翼が開く。
闇を押しのけるように一度羽ばたき、次の瞬間、その巨体は無間地獄の底を滑空していた。
速い。
酒吞童子の剣も、オロチの噛みつきも重かった。
だがこれは違う。
圧倒的な機動力。
闇を裂いて走る、雷竜そのものの速度。
雷撃の道筋に沿って加速する。
オロチの首のひとつが噛みつく。
だがインドラは半身を捻るだけでかわした。
牙が空を噛み、遅れて瘴気の尾が走る。
サタンは背に低く身を伏せ、黒縛りを放つ。
闇から伸びた拘束帯が、噛みつき終わりで伸びきった首へ絡みつく。
「右から二つ目、止めた!」
「見えている!」
インドラが旋回。
直角に近い軌道変化。
そのままオロチの側面へ回り込み、喉奥に雷を溜める。
金と黒。
通常のブレスではなかった。
雷虎の心臓を喰って進化したインドラの雷は、黄金の神雷と、竜の黒い雷が混ざり合った異形の色をしていた。
「――喰らえ」
金黒雷腔砲。
咆哮とともに放たれた奔流が、拘束された首を正面から撃ち抜く。
黄金が骨を裂き、黒が肉の内側で暴れ、鱗の隙間という隙間から雷が噴き出した。
「グオォォォォッ!」
七つの首のひとつが大きくのけぞる。
だが致命には遠い。
オロチの再生はそれほど速い。
サタンはインドラの背で片手をかざす。
「なら、上乗せだ!」
黒風。
サタンの掌から放たれた黒い暴風が、雷ブレスへ絡みつく。
ただの追い風ではない。
雷の流れを散らさず束ね、瘴気を引き剥がし、鱗の隙間へ無理やり押し込む風。
雷ブレスと黒風。
雷の奔流が一気に収束し、槍のように細く鋭くなる。
拡散していた電撃が一点へ凝り、オロチの首の根元を深々と穿った。
血ではない。
赤黒い瘴液が噴き上がる。
インドラが喉を鳴らす。
「いい補助だ」
「風は得意だ」
次の瞬間、別の三首が同時に襲いかかってきた。
上の一の首。
“瘴炎蝕滅”(しょうえん しょくめつ)
口腔の奥から、黒紫に濁った業火を吐き出す。
ただ燃やす炎ではなく、触れたものを焼きながら瘴気で侵し、肉も魔力も同時に腐らせていく。
二の首。
“冥雷哭牙”(めいらいこくが)
漆黒の雷を爪や牙にまとわせ、薙ぎ払うたびに雷鳴ではなく亡者の泣き声のような轟音を響かせる。喰らった者は傷口より先に、身体の奥から崩れていく。
死角の下方、三の首。
“獄断虚牙”(ごくだんきょが)
牙を振るうと同時に、空間そのものを裂く斬撃を飛ばす。
「正面、瘴炎!」
「分かっている!」
インドラの背は、ただ速いだけではない。
紫電の膜が、機体のように全身を覆っている。
サタンが背にいることで、さらに黒雷の膜も上乗せされる。
魔法防御。
オロチの吐いた瘴炎、雷牙、斬撃が直撃する。
だが金紫の雷膜と黒い電殻が、瘴気や斬撃を弾き、呪いの浸透を鈍らせた。
完全ではない。
それでも致命の汚染を防げるだけで大きい。
インドラがブレスの余熱を引きずったまま、急上昇。
オロチの首同士を交差させて回避する。
そのままサタンが左手を振る。
黒炎。
それは燃え広がる火ではない。
闇の炎を刃に変えたような、凝縮された炎の斬撃。
「切り開け!」
サタンの黒炎が、インドラの放つ雷ブレスの前端へ吸い込まれる。
雷ブレスと黒炎の合体技。
雷の奔流の先端に、黒い火刃が形成される。
ただ焼くだけのブレスではない。
貫き、裂き、なお内側で燃え続ける処刑の一撃。
酒吞童子戦でサタンが放った連撃に似ているが、威力はケタ違いだ。
インドラが真正面から吐き出す。
金と黒の奔流が、中央首の頬から顎へと斜めに走った。
ずん、と重い感触。
遅れて、裂ける。
巨顔に一文字の傷。
その奥から黒い炎が内部へ潜り込み、雷が神経と瘴気の流れを焼いていく。
中央首が、初めて明確な怒りの咆哮を上げた。
「調子に乗るな、なり損ない共が!」
七つの首が一斉にうねる。
空間が埋まる。
もはや多頭ではない。
巨大な樹海が牙と瘴気を持って襲いかかってくるような圧迫感だった。
インドラが歯を剥く。
「しつこいな!」
サタンは背で体勢を低くしながら、右手にさらに別の魔力を集める。
黒雷、黒風、黒炎。
そこへもうひとつ。
無間地獄の闇を逆利用して練り上げた、凍てつく黒。
黒氷。
本来なら熱と瘴気に満ちた地獄では扱いにくい。
だが無間の底は、温度ではなく“停止”の性質を持つ。
それを氷の術式へ組み込む。
「インドラ、次は貫くだけじゃない。止めるぞ」
「面白い。やれ」
オロチの左端の首が、大口を開いて迫る。
その喉奥では、毒炎と呪いが渦巻いていた。
直撃すれば、雷膜ごと腐らせられる。
だがその直前。
インドラが敢えて真正面へ突っ込んだ。
「今!」
“金黒雷腔砲”(こんこくらいこうほう)
ブレス。
そこへ、サタンの黒氷魔法が重なる。
雷の中に氷。
相反するはずの二つが、黒によって無理やり結び合わされる。
奔流は、冷たい。
だが熱もある。
神雷の破壊力と、黒氷の停止性が同時に走る異常な合体技。
金黒雷ブレスと黒氷魔法。
放たれた瞬間、空間に霜のような黒い亀裂が走った。
オロチの首へ直撃した雷は、肉を焼きながら凍らせる。
鱗の内側で電撃が暴れ、同時に黒氷が瘴気の流れを止める。
首の半ばから先が、一瞬だけ完全に硬直した。
「止まった!」
「砕く!」
インドラが旋回し、その硬直した首へ尾を叩きつける。
雷をまとった竜尾が炸裂し、凍りついた首の先端が大きく砕け散った。




