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116 なぜおまえがここ(地獄)にいる?

闇の奥で、雷が脈打つ。

それは巨大な竜の輪郭を、断片的に浮かび上がらせた。

長大な胴。

大楯のような鱗。

角。

雷を孕んだ喉。

だが、その眼だけは、サタンの知る味方のものだった。

サタンは血をぬぐい、低く言った。

「……ひとつ聞く」

インドラの喉で、微かな雷鳴が鳴る。

「何だ」

「なぜおまえがここにいるんだ?」

短い問い。

だがその中には、疑問も、呆れも、そしてわずかな安堵も混じっていた。

「無間地獄だぞ、ここは。散歩で来る場所じゃない」

インドラはしばらく黙っていた。

やがて、闇の中で大きく息を吐く。

吐息に混じった電光が、地を這って散った。

「……説明すると少し長い」

「長くていい」

サタンは肩の傷を押さえながら、口元だけで笑う。

「どうせ今から、もっと長い戦いになる」

インドラの眼が細くなる。

ほんの少し、呆れたような気配。

だがすぐに、その声は静かに落ちた。

「まず、雷虎の心臓だ」

サタンの眉がぴくりと動く。

「ああ」

「あれを食ったあと、私は進化した」

闇の中で、インドラの鱗の隙間を走る雷が一段と強くなる。

以前よりも密度が濃い。

雷光というより、雷そのものを血液にしたような輝き。

「ただ力が増しただけじゃない」

「雷虎の心臓には、雷獣としての核だけじゃなく、地獄の環境に適応した性質も混ざっていた」

サタンは雷虎が地獄の雷脈にて生まれた存在であることを思い出す。

「それを喰ったことで、私の竜の能力が加わった」

サタンは薄く目を細める。

「適応食材、か」

「そうだ。おまえも今なら分かるだろう」

インドラの言葉は淡々としていた。

だがその奥に、竜である者特有の理解があった。

「雷虎の心臓を喰ったあと、俺の感覚はこの地獄の深部まで届くようになった」

「そういえば、アバドンが雷虎は地獄の雷脈から発生すると言っていた。地獄由来の生き物だそうだな」

「雷の流れ、呪いの歪み、空間の裂け目……そういうものが、前よりはっきり分かるようになった」

サタンは小さく鼻を鳴らす。

「それで、俺の危機でも感じ取ったか?」

「正確には、おまえだけじゃない」

インドラはそう言うと、少し間を置いた。

「フェルナティアだ」

その名に、サタンの視線がわずかに鋭くなる。

「悪魔側の地獄にいる竜か」

「ああ」

闇の奥で、インドラの尾がわずかに動く。

雷が一筋、闇の底を走った。

「あいつは地獄の風竜だ。深層の空間の揺れや、空気の流れ、強大な魔力同士の衝突に敏い」

「酒吞童子が動いた時点で、灼熱獄の熱の流れが乱れた」

「そこへおまえの黒い力がぶつかった。普通の戦いじゃないと、すぐに分かったらしい」

サタンは黙って聞いている。

インドラは続けた。

「俺はその時、まだ魔界にいた」

「雷虎の心臓を喰った反動もあって、力の馴染みを確かめていたところだ」

「そこでフェルナティアが来た?」

「来たというより、向こうから繋いできた。思念だ」

インドラの口元から、低い笑いにも似た吐息が漏れる。

「“おまえの友人が死にかけているぞ”とな」

サタンは眉をひそめる。

「……ずいぶん喧嘩の売り方がうまい奴だな」

「あいつらしい」

ほんの少しだけ、インドラの声音が柔らかくなる。

だがすぐに真面目な調子へ戻った。

「フェルナティアは言った。灼熱獄で、とんでもないぶつかり合いが起きている。酒吞童子が本気で動き、サタンの気配も急激に弱まっている、と」

「最初はまだ間に合うと思った」

「おまえの座標を拾って、直接そこへ飛べばいいだけだとな」

サタンは苦く笑う。

「そんな素直な話なら、今ごろ灼熱獄でおまえが酒吞童子にブレスをお見舞いしていたはずだ」

「その通りだ」

インドラの声が低く沈んだ。

「俺は空間転移を使った」

「おまえの魔力を辿って、灼熱獄へ降りるつもりだった」

そこで、闇が一段重くなる。

上から降りてくるオロチの気配が、さらに近づいたせいでもあった。

だがそれ以上に、インドラの言葉そのものが空気を張らせた。

「だが途中で、空間がねじれた」

サタンの眼が細まる。

「転移路に、別の術式が噛んでいた。罠と気づき、目的地に着く前に、もう一度別の場所へ転移した」

「地獄の層をまたぐような、巨大な強制偏向の術だ。地獄全域に展開している。最初は酒吞童子の仕業かと思った。だが違った」

サタンが低く言う。

「オロチか」

「ああ」

インドラの喉で、雷が唸る。

「あの八つ首は、勇者に首を奪われて逃げられた“面白い”経験がある」

インドラはここだけは愉快そうに話す。

「だから転移に対して異様に神経質だ。この地獄の深層には、あいつの“転移を底へ落とす術”が張り巡らされている」

サタンは舌打ちした。

「俺と同じ目に遭ったわけか」

「そういうことだ」

インドラはあっさり認めた。

「おまえのもとへ飛ぶつもりが、座標を丸ごと引きずられた」

「気づいた時にはもう遅かった。二回の転移は灼熱獄へ開かず、無間地獄へねじ曲がった」

サタンは少しだけ肩を揺らして笑った。

痛みで顔は歪んでいたが、その笑いには皮肉が混じっている。

「なるほどな。……助けに来たつもりが、先に落とし穴に落ちていたと」

この竜ほんとに抜けている。

「否定はしない」

皮肉めいた言い方。

だがどこか苦い。

サタンは口元の血をぬぐい、睨み返す。

「おまえ……黙っていたな。俺の正体のこと」

インドラはしばらく沈黙した。

その沈黙自体が、答えだった。

やがて闇の奥で、雷竜はゆっくりと首をもたげる。

「黙っていたというより、言うタイミングがなかった」

「そして、おまえが知るには……納得するには、この底まで来る必要があった」

サタンは何も言わない。

インドラは続けた。

「竜には二つの生まれ方がある」

無間の闇に、雷の輪郭が走る。

「ひとつは、竜が死に、卵へ還り、転生する道」

「これは古き魂を抱えたまま、別の時代へ生まれ落ちる。これは純粋な竜の循環だ」

「そしてもうひとつ……」

雷が強く明滅した。

その光の中で、一瞬だけ、インドラの奥に“竜ではない姿”が重なる。

角なき頭。

二本の腕。

雷を纏った槍の魔人。

「竜を殺した者が、竜になる」

サタンの瞳がわずかに見開かれる。

「正確には、ただ殺せばいいわけではない」

「多量の返り血を浴び、竜の核に触れ、その死の呪いと力を受け切り、なお砕けずに残った者だけだ。大半は魂を喰われる。肉体を侵され、魂を焼かれ、竜にも魔人にもなれず崩れる」

「だが稀にいる……」

雷が鳴る。

低く、重く。

「竜殺しの果てに、竜へ成り変わる魔人が」

サタンはインドラを見上げた。

その答えは、もう半ば分かっている。

インドラは自嘲するように喉を鳴らす。

「俺は、もとは雷を扱う魔人だった」

「そして太古の厄災、ヴリドラを殺した」

その名が落ちた瞬間、闇がわずかに反響した。

ただの竜の名ではない。

神代に轟く災厄の名。

「殺した瞬間、怨みも、飢えも、竜としての構造も、全部が俺の中へ流れ込んだ」

「俺は勝ったはずだった。だが同時に、魔人としては終わった」

雷竜の瞳が細くなる。

「気づけば、今の姿だ」

サタンは低く問う。

「天使や勇者は?」

インドラは即答した。

「ならん。あいつらは瘴気や呪いに対して、加護や保護がある。竜を殺しても、その死の呪いに深く侵されにくい」

「だから竜化せず、“竜殺し”として終われる。だが魔人は違う。神の加護に守られていないぶん、竜を殺した時、その死の構造をまともに受ける」

「喰らうか、喰われるかだ」

サタンはそこで、オロチの言葉を思い出した。

勇者は首を斬った。

だが勇者自身は竜になっていない。

代わりに、首だけが転移し、別個の存在として魔界に落ちた。

そして……たぶん……その勇者は俺を育ててくれた“薬師”。

理屈はつながる。

勇者は加護に守られていた。

だから“竜化”はしなかった。

切り落とされた首には、別の行き場が生まれた。

それがサタン。

天魔大戦でインドラに致命傷を与えたルシファーも竜化はしなかった。

「……なるほどな」

サタンは乾いた笑みを浮かべた。

「どこまでも面倒な因果だ」

インドラはわずかに笑った気配を見せる。

「面倒なのは生まれじゃない……それを知ってなお、どう在るかだ」

その言葉の直後。

無間地獄の遥か上で、何かが裂けた。

闇が波打つ。

重い瘴気が沈み込み、逆に濃くなる。

七重の殺意。

呪い。

飢え。

ヤマタノオロチ。

オロチが、この無間地獄に降りてくる。


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