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114 サタンの正体 

背後では、転移の歪みが完全に閉じる。

もう戻れない。

「分身だと……?」

サタンは息を荒げながら、なお立ち上がろうとする。

剣を持つ腕は重い。

傷は深い。

酒宴獄夢の呪の酔いも、まだ頭の奥に残っていた。

「これは酔った後に見る悪夢か?」

それでも瞳だけは折れていない。

ヤマタノオロチの首のひとつが、ゆっくりと鎌首をもたげる。

裂けた口から、熱とも毒ともつかぬ白い息が漏れた。

灼熱獄の鬼神から逃れた先で。

今度は古き災厄が、サタンを見下ろしていた。

オロチの首の一つが、さらに近づく。

その顔は巨大で、サタンなど一呑みにできる大きさだ。

裂けた口の奥には、幾重にも並ぶ牙。

「待っておったぞ。我が分身よ……」

「……誰に言ってやがる?」

サタンはオロチの言葉が理解できない。

傷も深く、血を出しすぎている。

酔いも冷めぬ頭では物事を深く考える余裕がない。

その隙間から漏れる息が、血と酒と毒の混じった匂いを運んでくる。

「気づいておらぬか」

別の首が笑う。

「いや、気づいていても認めたくなかったか」

「おまえは、われの欠片よ」

静寂。

その一言だけで、空洞の温度がさらに下がった気がした。

サタンは無言のまま睨み返す。

だがオロチは構わず続けた。

「昔、ひとりの勇者が来た」

声が低く響くたび、岩壁の骨がかすかに鳴る。

まるでこの空洞そのものが、遠い記憶を聞いているようだった。

「地獄へ堕ちたのか、踏み入ったのか。そこはどうでもよい」

「重要なのは、そやつが瀕死でありながら、それでもわれに刃を届かせたことだ」

オロチの左端の首が、失った首の古傷でもなぞるように自らの根元を揺らした。

「この首のひとつを、切り落とした」

サタンの瞳が細くなる。

脳裏に何かが引っかかった。

知らないはずの記憶。

だが、妙に生々しい残滓。

赤黒い空。

裂けた鱗。

血飛沫。

白刃。

一瞬だけ、視界の裏に懐かしい誰かの姿がちらついた。

剣を握る人影。

満身創痍のまま、なお前へ出る影。

しかし掴む前に、像は霧散する。

オロチはその反応を見逃さなかった。

「そうだ。おまえの奥底に、微かに残っているだろう」

中央の首がにぃ、と嗤う。

「勇者は首を斬り落とし、その首ごと転移した」

「逃げたのだ。われを討ち切るには至らず、首だけを奪って」

「通常であれば、切り落とされた首もまた再生する」

「八つ首の竜とはそういうものだ。失おうと、また生える。裂かれようと、またつながる」

その声音に、わずかな苛立ちが混ざった。

「だが――あの首は戻らなかった」

八つの瞳が、いっせいにサタンへ注がれる。

「再生せず、復帰せず、魔界へ落ちた」

「そして“別個の存在”として生まれた」

「サタンとしてな」

空気が止まる。

サタンは何も言わなかった。

いや、言えなかった。

否定しようとする理性の奥で、何かが軋んでいる。

納得ではない。

だが、理解してしまう部分がある。

異様なまでの食性。

魔物を喰らい、その力を取り込む性質。

ただの捕食ではない。

適応。

摂取したものを、自分の強さへ組み替える変質。

オロチが低く喉を鳴らした。

「おまえが魔物を喰って強くなるのも、偶然ではない」

「竜の生態だ」

「竜は適応食材によって力を変える」

「喰らったものが強ければ、その性質を咀嚼し、己の血へ混ぜ、より強い器へ進化する」

「おまえはそれを、魔人としての在り方だと思っていたか?」

「違う」

言葉が、重く落ちる。

「それは生まれつき染みついた、竜の本性だ」

サタンの喉が、ひくりと震えた。

脳裏にこれまで喰らってきた魔獣、魔物、異形たちの感触が一瞬でよみがえる。

そして、そのたびに確かに起きてきた変化。

本能。

魔人として獲得した力ではない。

もっと古い、もっと根源の性質。

「……どうでもいい」

ようやくサタンは吐き捨てた。

だが声はわずかに掠れていた。

「仮にそうだとして、それが何だ!?」

血を拭い、サタンは無理やり立ち上がる。

足元が揺れる。

それでも、正面からオロチを睨む。

「生まれが何であれ、俺は俺だ!」

その言葉に、オロチの首たちが一斉に嗤った。

「そう言うと思ったぞ。失った首は自我が強かったからな」

「だからこそ喰う価値がある」

「戻すだけではない」

「取り戻し、なおかつ増す」

中央の首が鎌首をもたげる。

「失った首が、魔界で独自に育ち、魔と神と自然の力までその血肉に混ぜ込んだ」

「これほど上等な餌が他にあるか?」

「おまえを喰えば、われは失った首を取り戻す」

「そしておまえが積み上げた力までも、われのものとなる」

「勇者に奪われたぶんを、利息つきで返してもらおう」

次の瞬間。

一つの首が噛みついてきた。

速い。

酒吞童子の剣とはまた違う、生物特有の爆発的な加速。

サタンは横へ跳ぶ。

裂けた脇腹に激痛。

遅い動作。

それでも紙一重でかわす。

牙が地面へ突き刺さる。

岩盤が砕け、黒い水が噴き上がった。

二つ目。

三つ目。

左右から挟み込むように首が襲う。

サタンは黒縛りを放つ。

地から伸びた漆黒の拘束帯が蛇首へ巻きつく。

一瞬だけ動きが鈍る。

その隙に、サタンの足元へ魔法陣。

転移。

「ここで付き合う気はない」

黒い光が弾ける。

だが転移陣が、歪んだ。

座標が定まらない。

上へ抜けるはずの術式が、何か巨大な力に掴まれたように引きずり落とされる。

サタンの目が見開かれる。

「……なに?」

「一度、転移に失敗しておかしいと思わなかったか?」

オロチが、嗤った。

その嗤いは、ずっとこの瞬間を待っていた者のものだった。

「われはお前と違う」 

「同じ失敗を、二度するか」

「勇者は首を奪い、転移でわれの前から消えた」

「あのときは、それを許した」

首の根元から、赤黒い紋様が空洞全体へ広がっていく。

それは地面だけではない。

壁にも、天井にも、骨にも、水たまりにも。

この巣全体が巨大な術式の内側だったのだ。

「ゆえに備えた」

「この鬼の地獄で発動した転移は、我の前に転送され、もう一度唱えれば、逃げ場のない最下層へ落ちる」

サタンの展開した転移陣が、完全にねじ曲がる。

上へ開くはずの門が、下へ裂けた。

黒い穴。

底なしの奈落のような亀裂。

「……っ!」

サタンは術を切ろうとする。

だが遅い。

発動しかけた転移は、もはや逆流している。

空間が反転する。

足元が消える。

オロチの首たちが一斉に迫った。

「堕ちろ、サタン」

「われの腹へ届く、最後の檻へ」

「地獄の最下層――逃げ場のない底へ」

サタンの身体が、制御を失った転移の渦へ呑まれる。


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