113 ヤマタノオロチ
拘束し身を焼く黒い断線。
魔力を消し飛ばす黒風。
何もかも焼き尽くす黒炎の斬撃。
身の内側から焼き尽くす黒雷の槍の直撃。
どれも上級魔族相手なら、ひとつで十分な致命。
だが相手は酒吞童子だ。
サタンは追撃に入ろうとしたが……。
そのとき酒吞童子が、笑った。
血を吐きながら。
内臓を焼かれながら。
なお、笑った。
「そうか……それか……」
ゆらり、と巨体が起き上がる。
胸の傷から黒煙を上げながら、それでも鬼神は倒れない。
「ならばこちらも、宴を始めよう」
酒吞童子の足元に、赤黒い紋様が広がった。
溶岩の色とも、血の色とも違う。
まるで古びた盃の底にこびりついた酒滓のような、不快な色。
空気が変わる。
熱ではない。
臭い。
甘く、濃く、脳をゆるませるような匂い。
血酒。
腐熟。
酩酊。
サタンの眉がわずかに動く。目の前の景色が揺らぎ、変形し、不定となる。
「……術か」
酒吞童子が大剣をゆっくり持ち上げる。
「酒宴獄夢の呪」
その言葉が響いた瞬間。
景色が、大きく揺れた。
灼熱獄の岩盤が、急に柔らかく見える。
溶岩の赤が、妙に鮮やかに、やさしく、美しく見えた。
熱が苦痛ではなく、ぬるい湯のように感じる。
足元が軽い。
頭の芯が、ふわりと浮く。
酩酊。
酒など飲んでいない。
だが脳が、平衡感覚が、判断が、夢の底へ沈んでいく。
(まずい――)
理解はできる。
だが、身体が遅れる。
視界の端に、誰かが立っていた。
ルシファー。
いや、違う。
本物かどうかも分からない。
だがそこに、沈黙していたはずの男が、どこか遠い顔で立っているように見えた。
何かを言っている。
聞き取れない。
いや、聞き取りたくなる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、サタンの意識がそちらへ引かれた。
その一瞬で十分だった。
酒吞童子の姿が、ぶれる。
一体が二体。
巨大な影が酔いに揺れ、上下左右も定まらぬまま迫ってくる。
断線の位置がずれる。
黒風の渦が空を切る。
サタンは反射で黒縛りを放った。
地面から伸びた黒い拘束帯が、複数の酒吞童子の影へ絡みつく。
だが、手応えがない。
幻。
本体ではない。
「くっ……!」
遅れた。
本物は、横。
酒吞童子の大剣が、酩酊で鈍った感覚の死角から振り抜かれる。
サタンはとっさに結界を唱える。
“天雷障壁”
サタンの周囲に雷の障壁が展開されるが。
バリバリ……バリィィン!
酒吞童子の強烈な一撃は結界を打ち破りサタンを襲う。
致命の芯は外した。
だが、斬撃は肩口から腹部までを深く抉り、さらに吹き飛ばした。
骨が砕ける。
肉が裂ける。
黒い血が熱に散る。
サタンの身体が何度も岩盤へ叩きつけられ、地面を抉りながら転がった。
呼吸が止まる。
視界が白く弾ける。
それでもまだ終わらない。
酒宴獄夢の呪は続いていた。
立ち上がろうとするたび、地面が傾く。
目の前の酒吞童子が近いのか遠いのか分からない。
心臓の鼓動だけが、やけに大きい。
(このままでは……次で終わる)
サタンは膝をつき、血を吐いた。
片目に血が入り、視界が赤く滲む。
傷が深すぎる。
今の一撃で、かなり持っていかれた。
酒吞童子がゆっくり近づいてくる。
巨剣を引きずる音が、やけに遠く、そして近い。
「逃げるか?」
嘲る声。
だが、酒吞童子の胸の傷も、内臓の焼損も消えてはいない。
サタンの攻撃は確かに届いていた。
だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない。
サタンは唇の端を吊り上げた。
「……逃げる?」
血まみれのまま、笑う。
「戦場を変えるだけだ」
足元に魔法陣。
いや、それはいつの間にか仕込んでいた転移の座標。
断線を展開した時点で、わずかに後方空間へ刻んでいた退避路だった。
酒吞童子が眉をひそめる。
気づいた時には遅い。
サタンの身体が、黒い歪みに包まれる。
「次はその首をもらう」
吐き捨てるように言い残し、転移が発動した。
灼熱獄の景色がねじ曲がる。
赤い空。
割れた岩盤。
鬼神の巨影。
それらが一気に引き伸ばされ、潰れ、暗転する。
叫喚地獄へ移動し、ゾイル達と合流し、撤退するつもりだった。
悲鳴と炎の層なら、まだ地形も把握している。
立て直すにはそこが最善。
しかし……。
「……なんだここは?」
だが転移した先で、サタンは膝から崩れ落ちた。
熱が違う。
空気が違う。
悲鳴がない。
代わりにあったのは、重い湿気と、粘つくような殺気。
サタンは血に濡れた顔を上げる。
そこは果てが見えない巨大な空洞だった。
天井は遥か高く、闇に沈み、岩壁には無数の爪痕が刻まれている。
地面には黒い水がたまり、ところどころに空洞の奥で、何かが脈打っていた。
それは心臓の鼓動にも似ていたが、もっと古く、もっと重い。
大地そのものが眠りながら呼吸しているような、原始の振動。
山のようにうずくまる、何本もの首。
七つの頭。
七つの巨大な蛇。
いや、蛇などという言葉では軽すぎる。
災厄の古龍じみた巨体が、とぐろを巻き、この獄の主であるかのように眠っていた。
ヤマタノオロチ。
そのひとつの瞳が、ゆっくりと開く。
地獄の赤より赤い、怪しく光り輝く眼。
その視線が、傷だらけのサタンを捉える。
ぞくり、と空気が震えた。
逃げ場を求めた転移は、より厄介な怪物の巣へとサタンを放り込んでいた。
「サタンといったか……待っていたぞ。……我が分身よ」




