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112 激戦 黒き奔流

鮮血。

肉の焦げる臭い。

衝撃で身体が宙を舞う。

地面を何度も跳ね、岩塊を砕きながら転がったサタンは、ようやく片膝をついた。

左肩が重い。

腕が上がりきらない。

呼吸のたびに胸が焼ける。

それでも、目だけは死んでいなかった。

酒吞童子はゆっくりと剣を担ぐ。

その姿は、絶対強者の余裕に満ちていた。

「どうした」

獄炎の衣がごうごうと揺れる。

「貴様の底はその程度か」

サタンは立ち上がる。

流れる血が、熱で煙を上げる。

だが口元には、逆に薄い笑みが浮かんでいた。

「底、か」

かすれた声。

それでも妙に静かだった。

「まだだ。俺は……こんなところで終われない」

その一言とともに、サタンの周囲の空気が変わる。

熱に支配されたはずの灼熱獄で、別種の圧が膨らんだ。

重い。

深い。

底なしの夜をそのまま引きずり出したような闇。

足元の影が、溶岩の光を喰って広がる。

岩壁が軋み、地面が沈み、酒吞童子の炎でさえ一瞬だけ揺らいだ。

沈黙していたルシファーがそのとき初めて、胸の奥でかすかに息をした気がした。

だが声はまだない。

サタンは視線を上げる。

真正面から酒吞童子を見据える。

「火が通じないなら、別のもので叩き潰すだけだ」

指先から、黒い雷の亀裂が走る。

風が逆巻く。

灼熱獄の赤い世界に、異物のごとき黒が滲み広がっていく。

酒吞童子の眼が、初めてわずかに細められた。

「……面白い」

巨剣を構える。

大地が沈む。

サタンもまた、一歩踏み出した。

足元から黒い魔力がサタンの周囲を渦巻いていた。

サタンのまとった“黒”はあまりにも異質だった。

それは単なる闇ではない。

魔力でもない。

神力だけでもない。

自然そのものの奔流、魔力の根源、神々の理。

本来なら決して交わらぬ三つが、サタンの内で無理やり噛み合い、圧縮され、ひとつの色へと沈殿したもの。

黒。

あらゆる力を呑み込み、なお濁りきらずに凝り固まった、深淵の色だった。

酒吞童子がそれを見て、獰猛な笑みの奥でわずかに目を細める。

「まだ何か隠していたか」

「隠していたわけじゃない」

サタンは低く答える。

左肩から流れる血はまだ止まらない。

斬り裂かれた脇腹も、熱のたびに痛みを増していた。

それでも瞳だけは冷えている。

「最初から、使いどころを見ていただけだ。消費が激しいからな」

言葉と同時。

サタンの指先が、わずかに動いた。

細く、鋭い線。

目では捉えにくいほど細く、しかし確かにそこに在る黒い糸が、四方へ走る。

空間に張り巡らされたそれらは、灼熱獄の赤い大気の中で、初めて輪郭を持った。

“黒断線”

地獄の蜘蛛と蛇から得た能力に、黒の権能を乗せる。

固定・切断そのものを糸の形で顕現した、異質の能力。

酒吞童子の周囲を、檻のように囲む。

上下。

左右。

前後。

退路を殺し、踏み込みの軌道を制限するための、殺意を持った結界だった。

「ふん。こんな地獄の蜘蛛の糸でこの俺を止められると思ったか!?」

酒吞童子は即座に踏み込もうとして、その足をわずかに止めた。

巨体の脛に、黒い線が一筋触れる。

次の瞬間、皮膚が裂けた。ありえない。

浅い。

だが、確かに斬れた。地獄の蜘蛛の糸は知っている。

魔力で強化した程度で、酒吞童子の金属よりも固い皮膚を切れるような強度は出ないはず。

「なに?」

酒吞童子の眉間にしわが寄る。

警戒を知った鬼の表情。

サタンは間を与えない。

「今まで通りに動けるかな?」

低く呟く。

“黒氷”

すると断線が、ただ切るだけの糸ではなくなる。

糸に黒の氷がまとわりつき、まるで有刺鉄線のように棘が生える。

地獄の業火でも融けぬ、氷。

前後左右に張った線が歪み、酒吞童子の巨体の周囲の空間そのものへ干渉を始めた。

大きく動けば、そのぶん深く裂け、絡みつき、行動が不能となる。

巨剣を振れば、軌道そのものが制限される。

速度と行動の制限。

それがこの布陣の真意だった。

酒吞童子は即座に理解した。

巨剣を無理やり横薙ぎに払う。

轟音。

炎と剣圧が断線の一部をまとめて吹き飛ばす。

だが、全部ではない。

数十本を断ってもなお、黒い糸と氷は残る。

いや、切れた端からまた再構築され、さらに細く、さらに嫌らしく、動線を縫うように張り直されていく。

さらに振るうたびに、糸と氷で剣は重くなり、ついに固定される。

そのわずかな停滞。

その一瞬こそ、サタンが欲していたものだった。

「お前の相手はその覆う糸ではないぞ?」

「黒風」

サタンの周囲で、風が捻れた。

ただの暴風ではない。

黒い風。

光を吸うような圧の渦。

熱を散らすだけではなく、まとわりついた力そのものを剥離し、引きはがし、呑み込む風。

その暴風が、酒吞童子へ叩きつけられる。

ごう、と灼熱獄の炎が逆巻いた。

酒吞童子の纏う獄炎が、初めてその身から剥がれる。

炎の衣がちぎれ、ちぎれた火は黒い渦に巻き上げられ、空中で捻じ曲げられ、そのまま潰されるように消えていく。

赤が、黒に喰われる。

酒吞童子の眼が、そこで初めて大きく見開かれた。

「なに……?」

驚愕。

それは炎の王たる者の、本能的な動揺だった。

己の炎が、押し返されたのではない。

切り裂かれたのでもない。

奪われ、剥がされ、消された。

灼熱獄で。

この自分の獄で。

その一瞬の驚きに、サタンは迷いなく踏み込む。

「遅い」

黒風の尾を引きながら、サタンの身体が酒吞童子の懐へ滑り込む。

右手には、凝縮した黒炎。

それは赤く燃えず、熱を撒き散らさない。

「この俺に炎など効くものかぁ!!」

酒吞童子はサタン挑発とも思える行為に激高する。

「この炎だから効くんだよ」

むしろ逆だ。

燃えるほどに色は沈み、刃の形へと収束していく。

黒炎の斬撃。

サタンが腕を振り抜いた瞬間、黒い火は刀身のごとく細く鋭く伸び、酒吞童子の胴を斜めに走った。

ずん、と重い音。

遅れて、巨体に裂傷が走る。

胸から脇腹にかけて、深々と。

黒い炎を伴った一文字の傷。

酒吞童子がたたらを踏む。

「ぐ……ッ!あ、ありえん!」」

傷口から、炎ではなく煙が立った。

黒炎が表面だけを焼いたのではない。

切断と燃焼を同時に刻み込み、傷口の再生を鈍らせている。

纏っていた獄炎の衣がはぎ取られたせいで、防御力も回復も大幅に落ちている。

そして、そこへ。

「まだだ」

サタンの掌が傷へ向く。

指の間で、黒い雷が唸る。

バチバチと弾けるその音は、通常の雷鳴と違った。

光というより、裂け目が鳴いているような、不吉な振動。

「黒雷“インドラの槍”」

黒い雷槍が、傷口へねじ込まれる。

裂かれた肉から体内へ侵入し、そのまま血管を這い、臓腑を焼く。

酒吞童子の巨体が大きくのけぞった。

内側から。

血液が沸騰し、筋肉の奥で雷が暴れ、臓腑のいくつかが焼け潰れる。

表面を斬るだけでは届かぬ場所へ、黒雷は直接食い込んだ。

「ッ、が……あァァァァッ!!」

咆哮。

灼熱獄全体が震える。

周囲の岩盤が砕け、溶岩が吹き上がった。

酒吞童子が膝を折りかける。

その口から初めて、苦悶の息が漏れた。

サタンもまた肩で息をしていた。


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