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111 地獄の鬼王

灼熱獄は、叫喚地獄とは熱の質が違っていた。

あちらが焼けた魂の悲鳴で煮え立つ炎なら、ここはもっと深い。

大地そのものが炉であり、空気そのものが溶鉱の息だった。

赤黒い岩盤は脈打つように光を明滅させ、地割れの奥では溶岩が生き物のようにのたうっている。

立っているだけで肉が炙られ、呼吸ひとつで肺が焼ける。

その煮えたぎる溶岩の中にいた。

酒吞童子。

十五メートルを超える巨体。

岩山のごとき筋骨。

肩からは炎が噴き、揺らめく火は衣のようにその身を包む。

手にした大剣は七メートル。刃というより、焼けただれた城門をそのまま引き抜いて鍛えたような凶器だった。

その角は獄の天井を突くかと思うほど長く、眼光は煮えた鉄のように赤い。

サタンは一歩、足を止めた。

肌が告げる。

相手の格。

魔力の濃度。

圧。

アバドン級――いや、あるいはそれ以上。

ただ立っているだけで、周囲の熱が酒吞童子へ従っていた。

灼熱獄そのものが、主の帰還を歓喜しているかのようだった。

「……」

サタンは無言のまま、わずかに目を細める。

胸の奥で、もう一つの違和感が棘のように刺さっていた。

ルシファー。

地獄へ降りてからというもの、あの堕天使は急に口数を失った。

皮肉も、嘲りも、余裕めいた助言もない。

呼びかけても、沈黙。

まるで、この地獄そのものに何か因縁でもあるかのように。

「……反応なしか」

サタンは胸中で吐き捨てる。

助言もない。

策も授けない。

一人で越えろということだろうか?

対する酒吞童子は、獰猛な笑みをゆっくりと吊り上げた。

「来たか、異邦の魔人」

声だけで空気が震えた。

足元の岩盤に亀裂が走る。

「貴様からは、喰う価値のある匂いがする」

言葉の終わりと同時だった。

酒吞童子の巨腕が動く。

予備動作はほとんどない。

ただ、巨剣が持ち上がったと思った次の瞬間には、灼熱の地平そのものが横薙ぎに割れていた。

斬撃。

だがそれは単なる剣圧ではない。

剣身にまとわりついた獄炎が圧縮され、三日月状の火焔となって空間を灼き裂きながら襲い来る。

岩盤が消し飛び、溶岩が蒸発し、真っ赤な爆風が一直線にサタンへ奔る。

サタンはその瞬間にはもう消えていた。

踏み込み。

地が弾ける。

熱波の中心から半身をずらし、火焔の縁を紙一重でかわす。

頬の皮膚が焼ける。

黒髪の先が一瞬で焦げた。

「……っ」

避けた先へ、二撃目。

速い。

巨体に似合わぬ速度。

酒吞童子は大剣を反転させ、今度は叩き潰すように振り下ろした。

頭上から落ちてきたのは剣ではなく、燃える処刑台の刃だった。

サタンは右手をかざす。

黒い魔法陣が幾重にも展開。

圧縮した障壁を盾のように重ねる。

激突。

凄まじい轟音。

一枚目が砕け、二枚目が裂け、三枚目が融解する。

四枚目でようやく勢いが鈍るが、それでも衝撃は殺しきれない。

サタンの身体が後方へ弾き飛ばされた。

岩壁に激突。

背後の赤黒い断崖が大きく陥没する。

だが埋まる寸前、サタンは壁を蹴って飛び出した。

次の瞬間、先ほどまでいた場所に酒吞童子の剣が突き刺さる。

断崖が丸ごと爆散し、溶岩が雨のように降り注いだ。

「ほう」

酒吞童子の目が細くなる。

サタンは血のにじんだ口元を親指でぬぐう。

焼けた血がすぐ蒸発した。

「今のはなかなか重かったが、俺を倒すには不十分だ」

軽口。

だがその内心は冷徹だった。

火は使わない。

使えないのではない。

意味がない。

この獄の王に等しい存在へ、炎をぶつけるなど、カエルの面に水というレベルではなく、水を海へ投げるようなものだ。

吸われるか、食われるか、あるいは笑われて終わる。

ならば使うのは別の力。

サタンの足元に、漆黒の紋様が走った。

闇。

重圧。

そして――空を裂く暴威。

ごうっ、と風が巻く。

灼熱獄には本来ありえぬ冷たい流れが、サタンを中心に渦を巻いた。

「火が利かぬと見たか」

酒吞童子が牙を見せる。

「賢いな。だが賢さでこの勝敗が変わるほど甘くはないわ!」

踏み込んだのは酒吞童子の方だった。

巨体が消える。

否、速すぎて視界が追いつかない。

次の瞬間には目前。

大剣が横から薙ぎ払われる。

この速度からの巨鬼の一撃はいくらサタンでも受け止めきれない。

サタンは身を沈め、地を滑るように潜る。

受けるのではなく、避ける。

頭上を灼熱の刃が通過し、空気そのものが赤熱して爆ぜた。

その懐へ潜り込んだサタンは、左手を酒吞童子の脇腹へ向けた。

「――爆ぜろ」

氷と炎魔法を組み合わせ生み出した爆発魔法が一点に凝縮。

衝撃波が、巨体の横腹を叩き潰すように炸裂する。

鈍い衝撃音。

酒吞童子の巨体がわずかに傾ぐ。

だが――それだけ。

「軽い」

酒吞童子は笑った。

脇腹から炎が噴き出し、傷跡だったものは消えうせていた。

そのまま肘が落ちる。

サタンは両腕を掲げ、肘の一撃を風魔法で相殺したが、受けた瞬間、骨がきしんだ。

凄絶な重量。

身体ごと地面へ叩き込まれる。

岩盤が陥没し、サタンを中心に大穴が穿たれた。

酒吞童子の追撃は止まらない。

大剣が振り下ろされる。

二撃、三撃、四撃。

一撃ごとに地が裂け、溶岩の柱が噴き上がる。

もはや戦闘ではない。

獄そのものを打ち下ろしているような猛攻だった。

サタンは穴の中を高速で跳び回る。

紙一重でかわし、間に合わぬ斬撃は風の障壁で逸らし、爆風に乗って位置を変える。

それでも避け切れない熱と衝撃が皮膚を裂き、肩を焼き、脇腹をえぐった。

(重いし速い!しかも雑に見えて、隙がない)

見た目に反して、酒吞童子の剣は粗暴ではなかった。

大振りに見える一撃一撃の合間に、次の軌道が既に仕込まれている。

ただ叩き潰しているのではない。

逃げ道を潰し、熱と圧で包囲し、獲物をじわじわと焼き詰めている。

計算されつくした攻撃。

サタンは一度、大きく後退した。

背後の岩壁を蹴り、上空へ。

その掌に、黒と白の魔力が収束する。

暴風と氷刃。

火ではない破壊。

「ほう……」

酒吞童子が見上げた瞬間、サタンは腕を振り下ろした。

数百の氷刃が、竜巻に乗って降り注ぐ。

灼熱獄の空間に無理やり生み出された極低温の回転する刃。

熱で溶ける前に切り裂くため、風で加速し、回転し、貫通力を上乗せする。

それはまるで、吹雪を閉じ込めた処刑嵐だった。

シャナトリアのブレスを参考にして生み出した溶けにくい氷。

だが酒吞童子は退かない。

咆哮。

全身の炎が爆発的に膨張する。

火柱が天へ伸び、氷刃の群れを正面から迎え撃つ。

無数の氷が蒸発し、白煙が灼熱の霧となって視界を覆った。

だが、その中をなお何本もの刃が突き抜ける。

数本が酒吞童子の肩、胸、頬に突き立った。

初めて、赤い血が散る。

酒吞童子の笑みが深まった。

「いいぞ」

肩に刺さった氷刃を、自らの筋肉の動きだけで砕く。

蒸気が上がる。

傷は焼け、即座に塞がっていく。

「その程度で終わらぬだろう、魔人サタン」

直後、白煙の幕を真っ二つに裂いて酒吞童子が踏み込んできた。

速い。

先ほどよりさらに。

傷を負って本気になったのか、さらに勢いを増している。

サタンは舌打ちし、右腕に魔力を集中。

迎え撃つように、魔力を纏わせた拳を放つ。

拳と拳ではない。

片や雷の圧縮。

片や鬼神の怪力と魔力。

激突。

空間がひしゃげた。

衝撃波が円形に走り、周囲の溶岩を押しのける。

サタンの足元が深く沈み、酒吞童子の拳の皮膚が裂ける。

しかし、押し負けたのはサタンだった。

自分以上の魔力と体格の者に正面からぶつかって無事なわけがない。

骨ごと軋む右腕。

そのまま体勢が崩れる。

酒吞童子の大剣が下から跳ね上がった。

避けきれない。

サタンは咄嗟に身を捻り、致命の軌道だけを外す。

それでも刃は左肩から脇腹までを深く斬り裂いた。


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