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108 猫と悪魔と馬と牛

サタン

サタンはひとり、隆起した岩の塔の上に降り立った。

マントが熱風になびく。

見下ろせば、無数の通路が絡み合い、赤黒い迷路がどこまでも広がっている。

叫び声は絶えない。

罪人の悲鳴、鬼の嗤い、岩の泣き声、炎の爆ぜる音。

視界の端で火が地面をチョロチョロと動くのが見える。

火ネズミだ。

地獄を駆けまわる火ネズミは、狐火を小さく丸めて獣の形にしたような姿をしている。

全身の毛並みは赤銅色に燃え、毛先だけが橙から青白い火へとゆらめいていた。

細長い尾は鞭のようにしなり、その軌跡に火の粉を散らして暗闇へ朱い線を描く。

この地獄では、罪人の身に火ネズミを入れた穴の開いた箱を押し当て、火ネズミが罪人の体内を食い破りながら、同時にその火で焼き、突き破って出てくるという拷問が行われているようだ。

第五階層そのものが、一つの巨大な絶叫の塊だった。

「……面倒なことをしてくれる」

低く呟く。

地獄が意志を持って一行を分けた。

偶然ではない。

酒呑童子の命令か、それとも叫喚地獄そのものの性質か。

どちらにせよ、狙いは明白だった。

削るつもりだ。

サタンは目を細めた。

仲間たちの気配を探る。

遠い。

しかも壁や熱流が邪魔をして、位置が定まらない。

「ゾイルは問題ない。タマも、アスカントを抱えてもどうにかするだろう」

だが、それで安心するほど甘くはない。

この階層は、力で押し切るだけでは危うい。

叫びが意識を乱し、迷路が距離感を狂わせ、通路が生き物のように動く。

強者を分断し、孤立させ、徐々に削るための階層。

その時だった。

ごぽり、と。

サタンの足元の岩から、黒い泡のようなものがいくつも湧き上がった。

それはやがて人の形を取り、苦悶に歪んだ罪人たちの影となる。

腕を伸ばし、喉を掻きむしりながら、這い寄ってくる。

(たすけて)

(ころして)

(おまえもこっちきて叫べ)

サタンは無表情でそれを見下ろした。

「雑魚の歓迎にしては趣味が悪いな」

影が一斉に飛びかかる。

瞬間。

サタンは手を払うような仕草をする。

「この程度で、俺が削れるとでも?」

蒼白い冷気が爆ぜた。

バキィィィッ!!

周囲一帯ごと、影の群れが氷塊へ変わる。

そのままサタンが片手を振るうと、氷像はまとめて砕け散った。

サタンはただひとり、王へ向かって進み始めた。




タマ&アスカント

馬頭が駆ける。

牛頭が棍棒を振り上げる。

十メートルを超える二体の将が、同時に潰しに来る。

その圧だけで、空気が軋んだ。

だが。

タマの金色の瞳が、闇の中で鋭く光った。

「――見るニャ」

にゃぁん。

長く、細く、耳の奥へまとわりつく鳴き声。

その瞬間、世界がぐるりとねじれた。

まず、タマの姿がぶれた。

一匹だった黒猫が、二匹に。

二匹が四匹に。

四匹が八匹に。

そして次の瞬間には、数十匹もの黒猫のタマが広場いっぱいへ散っていた。

岩の上にいるタマ。

裂け目の縁にいるタマ。

天井の石柱の影に張りつくタマ。

牛頭の足元をかすめるタマ。

馬頭の視界の端で尾を振るタマ。

黒いシルエットに金色の眼が怪しく光る。

すべて本物に見えた。

魔力感知にもすべて反応する。

すべてが別々に魔力を帯び、別々の気配を持っているようにすら感じられる。

もはや、幻覚の域を超え、分裂・分身に近いほどの精度だ。

「なッ……!?」

「どれが本体だ!」

馬頭と牛頭の視線が激しく揺れる。

だが、幻術はそれだけでは終わらなかった。

広場の上下が、反転する。

馬頭の視界では、地面が天へ持ち上がり、天井が奈落の底へひっくり返る。

牛頭の感覚では、自分が“落ちている”のか、“立っている”のか、その境が消える。

重心が狂う。

三半規管が悲鳴を上げる。

足裏にあるはずの地面の感触が、突然、頭上からの圧迫感に変わる。

「ぐ、お、おお……!?」

「地が、空が――!」

二体の巨体が、大きくよろめいた。

馬頭は踏み出した前脚を空へ突っ込むように感じ、咄嗟に槍を横へ振る。

牛頭は“上から落ちてくる無数の猫”を払いのけようと、棍棒を力任せに振り回した。

「そうだニャ……そのまま暴れるニャ!」

タマの数十の分身が、一斉に異なる方向から飛びかかる。

そのたびに馬頭と牛頭の認識はずれ、本来の敵の位置も、自分たちの立っている向きすら判別できなくなる。

ついに牛頭が咆哮した。

「鬱陶しいィィィィッ!!広範囲攻撃で滅するぞ!!」

棍棒が唸る。

横薙ぎの一撃が広場を薙ぎ払った。

ほぼ同時に、馬頭も錯乱したまま二又槍を大きく振り回す。

金砕牙きんさいが!!

棘付きこん棒を回転させながら叩きつけ、刺突と粉砕を同時に行う。

血河払けっかばらい!!

二又槍を大きく横薙ぎに振るい、広範囲を刈り取る。

暴風が炸裂した。

広範囲を無差別に刈り払う一撃。

それはタマの分身を吹き散らすだけでは終わらない。

二体の武器の軌道は、そのまま頭上へ届いた。

叫喚地獄の天井に、牙のようにびっしりと垂れ下がっていた無数の石柱群。

その石の牙へ、棍棒と二又槍が叩き込まれる。

バギィィィィン!!

メギャアアアアアッ!!

天井が悲鳴を上げた。

巨大な石柱が何本も根元から砕け、裂け、折れ、雨のように落ち始める。

鋭く尖った先端を下に向けたまま、巨岩の槍が一斉に降り注ぐ。

その瞬間。

アスカントの瞳に、勝ち筋が閃いた。

「――今ですともッ!!最大出力!」

両手を突き出す。

足元に、黒い魔法陣が幾重にも開いた。

闇の重力魔法が、落下する石柱群へ噛みつき、地面へと強い力で引き寄せる。

「落ちろ、貫け……!」

ずん――ッ!!

見えない重みが、石柱一本一本へ付加される。

落下の速度が変わる。

ただ落ちるのではない。

下へ、下へと、凶悪な質量を与えられた石の牙が、地獄そのものの意志に引かれるように加速する。

一本が二倍。

二本が二倍。

十本、二十本、すべての重量が膨れ上がる。

空気が悲鳴を上げる。

「なに――!?」

「しまっ――」

気づいた時には遅い。

上下感覚を狂わされ、足場も視界も乱されたままの馬頭と牛頭は、回避が間に合わなかった。

最初の一本が、牛頭の肩口へ突き刺さる。

ドゴォッ!!

鋭利な石柱の先端が、分厚い甲冑ごと肉を貫き、巨体を地面へ縫い止めた。

血飛沫が噴き上がる。

黒赤い鮮血が蒸気の中へ散った。

「グオオオオオオッ!?」

つづけざまに、二本、三本。

脇腹へ。

腿へ。

棍棒を持つ腕へ。

重力で倍加された尖った石柱は、もはやただの岩ではない。

落下する城壁の杭だ。

牛頭の筋肉も骨も、さすがに受け切れない。

一方、馬頭も二又槍を掲げて防ごうとしたが、幻術はかかったまま。

認識のずれた一瞬が命取りになった。

石柱の一本が、馬頭の左脇腹を深々と貫く。

ぐしゃり、と湿った音。

さらにもう一本が肩口へ突き刺さり、別の一本が腿をえぐる。

最後に、もっとも太い一本が馬頭の背を打ち据え、そのまま地面へ叩き伏せた。

ズガァァァァンッ!!

十メートル超の巨体が、石柱ごと地へ縫い留められる。

「ガァァァァアアアアアッ!!」

馬頭の絶叫。

牛頭の咆哮。

二つの悲鳴が、叫喚地獄の無数の叫びに混ざり合って反響した。

広場全体が揺れる。

砕けた天井からなおも小石がぱらぱらと降り注ぎ、赤い蒸気の中で血と岩粉が入り交じる。

アスカントは荒い息を吐いた。

「はっ……は、は……どうです……っ、少しは余興になったでしょうかね……!」

膝が震える。

魔力もごっそり持っていかれた。

だが、効いた。

確実に効いた。

牛頭は肩と腕を石柱に貫かれ、棍棒をまともに振れない。

馬頭も胴と脚を穿たれ、起き上がるだけで致命的な負荷がかかるはずだ。

着地したタマの分身たちが、次々と煙のように溶けて消えていく。

最後に残った本体のタマが、軽やかに岩の上へ降り立った。

脇腹からはまだ血が滲んでいたが、その金の瞳には勝ち気な光が戻っている。

「やるじゃないかニャ」

「そちらこそ……っ。正直、三秒でここまで盤面をひっくり返すとは思っていませんでしたよ」

「タマを誰だと思ってるニャ」

「頼りになるサタンの右腕ですよ。ええ。」

「そう!サタンの右腕なのはゾイルではなく、このタマなのニャ」

アスカントは肩で息をしながら笑う。

心臓はまだ早鐘のように鳴っていた。

もしタマが上下感覚まで狂わせていなければ、あの広範囲攻撃は誘えなかった。

もし自分が石柱の重量を倍化させなければ、将級の肉体を貫くには足りなかった。

どちらが欠けても成立しない一手。

だが。

牛頭の身体が、石柱に貫かれたまま、びくりと震えた。

馬頭もまた、地に伏したまま赤い瞳をぎらりと光らせる。

「……まだ死んでないニャ」

「でしょうねえ……見れば分かりますとも……!」

石柱に串刺しにされながらも、その殺気はまるで衰えていない。

むしろ怒りで膨れ上がっている。

叫喚地獄の蒸気の中、二体の将はなおも立ち上がろうとしていた。

アスカントは冷や汗を流しながら、もう一度魔法陣を足元に滲ませる。

タマも低く身を沈め、次の幻術の構えを取った。

逆転の一撃は叩き込んだ。

だが、仕留めきれてはいない。

地獄の将たちは、まだ終わっていなかった。

石柱に貫かれてなお、牛頭は倒れなかった。

肩口を穿たれ、腕を縫い止められ、脇腹から黒赤い血を滝のように流しながらも、その巨体はなお痙攣するように力を込めている。

めき、めきめき、と石柱の根元が軋んだ。

「ぐ、おおおおおお……!!」

牛頭が首をもたげる。

血走った眼が、なお獲物を捉えて離さない。

馬頭もまた同じだった。

脇腹を貫かれ、脚を砕かれ、背を打ち据えられてなお、二又槍を手放さない。

地に伏したまま、前脚のように腕をつき、無理やり身を起こそうとしている。

「まだ、だ……」

「まだ終わっては……ならん……!」

その声は怒りに満ちていた。

だが、それだけではない。

アスカントは気づいた。

あれは、意地だけで立っているのではない。

もっと粘ついた、もっと深い何かに突き動かされている。

「……おや」

血に濡れた石柱のあいだから、牛頭が低く唸る。

「ここで敗れたと知れれば……」

「王に……酒呑童子様に、我らは……」

馬頭の歯が、ぎり、と鳴った。

「殺される」

「無様を晒した将に……王は情けなどかけぬ……!」

その一言で、場の空気が変わった。

怒りではない。

憎悪でもない。

恐怖だ。

地獄の将ですら震え上がる、王への恐れ。

敗北そのものよりも、敗北を知られることの方が恐ろしい。

だから倒れられない。

だからここで死ぬまで暴れるしかない。

石柱がさらに軋む。

傷口から血が噴き出す。

牛頭が、肩を貫く岩を筋力だけで押し広げようとする。

馬頭もまた、脇腹を裂きながら体を起こし、槍を引き抜こうとしていた。

「まだ来るニャ……!」

タマが唸るように言う。

金色の瞳が細まり、次の幻術の機を測る。

だが、アスカントはそこで片手を上げた。

「……待ってください」

「何だニャ?」

「少々、こちらの土俵に乗っていただきましょう」

アスカントは荒い息を整えながら、二体の将を見た。

酒呑童子が怖い。

失敗を知られるのが怖い。

褒められたい。

認められたい。

失望されたくない。

ならば、差し込む隙はそこだ。

自分の幻術は、タマのように景色を丸ごと塗り替える術ではない。

意識の綻びへ、静かに入り込むもの。

思考の流れを鈍らせ、感情へ甘い毒を垂らし、心が望む答えを見せる術。

そして今、この二体の心は、恐怖で大きく裂けている。

――入る。

アスカントはゆっくりと前へ出た。

足元に黒い魔法陣が、音もなく滲む。

「おやおや……そんなに怯えなくてもよろしいでしょうに」

馬頭がぎろりと睨む。

「何を……言う、小悪魔が……!」

「簡単なことですよ」

アスカントの声が、ふっと柔らかくなる。

戦場の声ではない。

まるで深夜に語りかけるような、低く、穏やかな響き。

耳に入るというより、意識の奥へ落ちていく声。

「あなた方はよく戦いました」

「ここまで侵入者を削り、追い詰め、なお立っている」

「その忠義を、酒呑童子様が見ていないわけがない」

牛頭の動きが、ぴくりと止まる。

「……何」

アスカントは微笑んだ。

その瞳の奥で、闇の幻術が静かに揺れる。

「むしろ、お喜びでしょう」

「ここまで傷を負いながらなお、王のために立ち上がろうとする……なんと健気で、なんと忠義深い将か、と」

言葉が落ちるたび、黒い魔力が薄い霧のように広がる。

それは視界を歪める幻ではない。

耳から入り、思考へ染みていく催眠の毒だ。

馬頭の赤い瞳が、わずかに揺れた。

「王が……」

「ええ」

アスカントは穏やかにうなずいた。

「よくやった、と」

「馬頭、牛頭。さすが余の将だ、と」

「お前たちは敗者ではない。ここまで戦い抜いた、誇るべき鬼だ――と」

牛頭の呼吸が乱れる。

その脳裏に、浮かんでいるのだろう。

王座の間。

髑髏の玉座。

酒呑童子の巨大な影。

そしてそこから降ってくる、“恐怖”ではなく“賞賛”の声を。

本来ならありえない。

だが、心がそれを欲している。

欲しているからこそ、幻術は根を張る。

アスカントはさらに一歩、声を近づけた。

「もう十分でしょう」

「ここで倒れることは、無様ではありません。役目を果たした証です。酒呑童子様も、そう仰っている」

タマが、横目でアスカントを見た。

何かを言いかけ、だが黙る。

今の声色がただの軽口ではないと分かったからだ。

深く、ゆっくりと、優しく。

肯定し、撫で、許しを与える。

それは戦場の言葉ではなく、眠りへ誘う言葉だった。

馬頭の腕から力が抜ける。

槍の穂先が、かすかに下がった。

牛頭もまた、石柱を押しのけようとしていた筋肉の膨張がゆるむ。

「酒呑童子……様が……」

「我らを……」

「褒めておられますよ」

アスカントは囁いた。

「“よくやった。もう眠れ”と」

その瞬間、黒い魔法陣が淡く明滅した。

催眠の術式が、最後の一押しとして二体の意識へ沈み込む。

現実味を与えるべく、さらに深く幻視を与える。

馬頭の視界では、叫喚地獄の赤黒い広場が、いつの間にか王座の間へ変わっていた。

玉座の上の酒呑童子が、ゆっくりとうなずいている。

牛頭の耳には、轟くような恐ろしい声ではなく、重く低い、しかし確かな承認の響きが届いていた。

「よく……やった」

その幻を聞いた瞬間。

二体の獄卒将から、張り詰めていたものが切れた。

馬頭の膝が崩れる。

牛頭の首ががくりと落ちる。

巨体が石柱にもたれかかるように沈み、二又槍が、鉄の棍棒が、鈍い音を立てて岩盤へ落ちた。

ズゥン……。

静かではない。

十メートルの怪物が力を失う音は、地鳴りのようだった。

だが、その顔からは先ほどまでの狂気じみた怒りが消えている。

代わりに浮かんでいたのは、どこか安堵に近い緩みだった。

眠ったのだ。

酒呑童子に赦され、褒められたと信じたまま。

アスカントはそこで、ふう、と長く息を吐いた。

膝が笑いそうになるのを、どうにか堪える。

「……っ、危ないところでした」

タマが目を丸くする。

「眠らせたのかニャ……」

「ええ。ぼくの幻術は、タマさんほど派手ではありませんが」

アスカントは額の汗をぬぐい、かすかに笑った。

「心の欲しいものを見せるのは、わりと得意でしてね」

タマは倒れ伏した馬頭と牛頭を見た。

石柱に貫かれたまま、二体は完全に意識を落としている。

「さすが悪魔……えげつないニャ」

悪魔のささやき。

アスカントはこうして魂の契約を成約してきたのだろう。

「褒め言葉として受け取っておきますよ」

そう軽口を返しながらも、アスカントの胸の内は重かった。

分かってしまったからだ。

この二体の将を最後に支えていたものが、誇りより先に“恐怖”だったことを。

酒呑童子の名は、それほどまでに鬼たちの心へ食い込んでいる。

敵でありながら、少しだけ哀れに思う。

だが同時に、その王がどれほどの化け物なのかも、改めて思い知らされた。

「急ぐニャ」

タマが低く言う。

「こんなのを将にしてる王が、この奥にいるニャ」

「ええ……まったく、あまり会いたくない種類の上司ですね」

「鬼上司ニャ」

アスカントは苦笑し、しかし視線を奥へ向けた。

叫喚地獄の迷宮は、なお悲鳴を上げ続けている。

そのさらに先、深層の奥底で待つ王――酒呑童子。

今の一戦は切り抜けた。

だが、本番はまだ遠い。

二人と一匹は、眠りに落ちた獄卒将を後にして、再び迷宮の奥へと歩き出した。




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