107 馬頭と牛頭
アスカントは息を吸った。
怖い。
逃げたい。
喉の奥では本能が、今すぐ背を向けろと叫んでいる。
だが逃げ道はない。
なら、盤面を崩す。
タマが一歩、前へ出た。
小さな黒猫の姿。
それだけなら、巨鬼の前ではあまりにも矮小だ。
だが。
にゃあ――ん。
低く、奇妙に伸びた鳴き声が響いた瞬間、
空気がぐにゃりと歪んだ。
地面の輪郭が融ける。
岩盤のひび割れが何倍にも増え、赤い蒸気は濃く膨らみ、通路の奥行きがねじ曲がる。
右にあるはずの岩柱が左に現れ、足場だった場所が奈落の口へと変わる。
さらに、蒸気の向こうからは、サタンとゾイルの姿によく似た“偽の敵”が現れた。
一体は炎をまとうサタンの虚像。
一体は刀を抜いたゾイルの虚像。
しかもそれらはただ立っているだけではない。
本物そっくりの殺気を纏い、獄卒将たちの死角へ回り込むように駆ける。
牛頭がぎょろりと目を剥いた。
「何だ!?」
馬頭が槍を振るう。
だが、その穂先は虚像を貫いた瞬間、空を切った。
「幻か!」
その一瞬の混乱。
アスカントはそれを待っていた。
「――沈め」
闇が足元から染み出す。
牛頭と馬頭の脚下に、黒い魔法陣が走った。
重力魔法。
ずしん、と見えない質量がのしかかる。
まず牛頭の片膝が沈んだ。
続けて馬頭の巨体がぐらりと傾ぐ。
ただでさえタマの幻術で地形感覚を狂わされているところへ、足元だけ何倍にも重くなる。
効いた。
アスカントの目が見開かれる。
「そのまま伏せていただけると助かるのですがねッ!」
重力をさらに増す。
肩に、首に、膝に。
巨体を支えるための各点へ、見えない岩塊を積み上げるように圧をかける。
馬頭が一歩を踏み誤った。
岩盤が砕け、十メートル超の巨体が大きく前へ傾ぐ。
牛頭も、棍棒を支えにしようとして逆に重心を崩した。
幻の地面の裂け目を本物と誤認し、足を無理に持ち上げたせいだ。
「今だニャ!」
タマの瞳が閃く。
さらに景色が歪んだ。
馬頭の前に“壁”が現れ、牛頭の背後には“サタン”が炎をまとって迫る。
二体の巨鬼は反射的にそちらへ意識を向ける。
その隙に、アスカントは追加の術式を重ねた。
「縛れ――!」
黒い鎖のような拘束魔法が地面から這い上がり、牛頭の足首へ、馬頭の槍を持つ腕へ絡みつく。
ずるり、と巨体が滑った。
まず馬頭が転倒した。
地鳴りをあげて前のめりに倒れ込み、二又槍が岩盤に突き刺さる。
続いて牛頭も片足を取られ、横倒しに近い形でよろめいた。
「やった……!」
思わず声が漏れる。
格上を崩した。
真正面からではなくとも、確かに倒した。
いける。
このまま視界と足を奪い続ければ――
そう思った、次の瞬間だった。
「舐めるなァァァァッ!!」
牛頭が咆哮した。
音の圧だけで、空間が震える。
びり、とアスカントの耳の奥が裂けたように痛んだ。
叫喚地獄じゅうの悲鳴が、その一声に共鳴する。
地形を歪めていたタマの幻術が、音の衝撃に乱れた。
しまった、とアスカントが思った時には遅い。
牛頭は倒れきらなかった。
片膝で地面を砕く勢いで岩盤へめり込ませながらも、棍棒を無理やり地面へ突き立て、その反動で巨体を起こしたのだ。
筋肉が膨れ上がる。
拘束の黒鎖が、みしみしと音を立てる。
「うそでしょう!?」
「馬鹿力だニャ!」
次の瞬間、牛頭は棍棒を横薙ぎに振り抜いた。
ドゴォン!!
ただの一振りで、空気の壁が飛んだ。
衝撃波。
岩片と火花を巻き込みながら、広場の半分を薙ぎ払うような暴風が襲いかかる。
「くっ――!」
アスカントはとっさに重力の向きをずらし、自分の身体を地面へ引き寄せた。
だが踏ん張り切れない。
衝撃に吹き飛ばされ、背中から岩壁へ叩きつけられる。
「が、ぁッ……!」
肺の空気が全部抜けた。
視界が白く弾ける。
その横で、タマも身をひねって直撃を避けたが、小さな身体ごと吹き飛ばされ、岩の上を転がった。
「タマ!」
「平気だニャ……っ」
だが、平気ではない。
黒毛の脇腹が裂け、赤い血がにじんでいる。
その間に、馬頭が起き上がった。
顔面から倒れたはずなのに、その馬面にはむしろ怒りしか増していない。
岩盤に突き刺さっていた二又槍を引き抜き、幻の残滓を振り払うように大きく一閃する。
「小細工は終わりか」
槍の穂先が、まっすぐアスカントへ向けられた。
まずい。
本気でまずい。
喉の奥が冷える。
最大出力の重力魔法を使った。
拘束も使った。
だが、将級の怪物二体を完全に押さえ込むには足りない。
タマの幻術も、一度派手に乱されたせいで立て直しにわずかな間がいる。
その“わずか”が、命取りになる。
牛頭が棍棒を担ぎ直す。
馬頭が槍を低く構える。
前方から槍。
横から棍棒。
挟まれる。
アスカントの頭が高速で回る。
重力でどちらか一方を逸らす?
いや、片方を防いでも、もう片方で終わる。
催眠?
こんな怒りきった将級に、この間合いで通すのは無理だ。
拘束の再展開も間に合わない。
足がすくみそうになるのを、歯を食いしばって押さえつける。
ここで怯めば死ぬ。
だが、打つ手が――
「アスカント!」
タマの声が飛んだ。
見ると、黒猫は血を流しながらも、低く身を伏せ、金色の瞳をぎらりと光らせていた。
その瞳の奥には、まだ術が死んでいない光がある。
「三十秒だけ作るニャ! その間に、どっちか止めるニャ!」
三十秒。
短い。
短すぎる。あの巨体二体をそんな時間でどうにかできると思えない。
だが、諦める選択肢はない。
アスカントは唇の端を引き上げた。
恐怖で震える膝を、無理やり前へ出す。
「無茶をおっしゃる……っ。ですが、嫌いではありませんよ!」
馬頭が駆けた。
十メートルの巨体が突進するだけで地面が跳ねる。
牛頭も棍棒を振り上げる。
そして。
タマの幻術が、再び世界を歪めていた。




