106 黒猫と悪魔
タマ&アスカント
「うわっ、うわっ、うわああっ!」
転がるように斜面を滑り落ち、アスカントはどうにか岩陰へ身体を打ちつけて止まった。
肩にしがみついていたタマが、ふわりと飛び降りる。
「……生きてるかニャ?」
「い、生きておりますとも!たぶん!ええ、悪魔なのでたぶんですが!」
「お前、翼あるのになぜ飛ばないんだニャ?」
「なんだが、この階層は感覚が狂わされてて、うまく飛べないのです」
そう答えながら顔を上げた瞬間、アスカントの表情はさっと青ざめた。
彼らが落ちた先は、狭い裂け目の底だった。
頭上では幾重もの岩橋が絡み合い、迷路のように重なり合っている。
遠くからは、泣き叫ぶような声と、岩盤の軋む不快な音が絶えず響いていた。
叫喚地獄。
その名を思い出しただけで、喉の奥がひやりと冷える。
アスカントはもともと悪魔側の地獄の住人だ。
鬼どもの領域に踏み込むなど、本来なら正気の沙汰ではない。
だが先ほどまでは、サタンがいた。
あの規格外の魔人が前を歩いているだけで、どれほど凶悪な鬼の地獄であろうと、どこか現実感が薄れていた。
さらにその隣には魔界でも実力者であるゾイルもいた。
あの剣士がいれば、たとえ道が血で塞がろうと斬り開く光景しか想像できない。
だが今は違う。
久しく感じたことが無かった恐怖が悪魔の心に芽生えていた。
今ここにいる味方は――黒猫一匹。
敵地のパートナーとしては……正直、心もとない。
「これはまた、とんでもなく歓迎されてしまいましたね……!最悪です!」
「きっとさっきの亀を倒した時の連携を見られたから、分断しようって目論見だニャ。」
タマは尻尾をゆらりと揺らした。
金色の瞳は、この状況でも不気味なほど冷静だった。
その落ち着きが、少し癪で、少し頼もしい。
「ここ、音と恐怖で判断を狂わせる術が仕込まれているニャ。慌てた方から死ぬニャ」
「そんな平然と言われましても!私は前衛ではないのですよ!? どちらかといえば案内役寄りの文化系なんですが!?」
「知ってるニャ」
タマは短く答え、周囲へ視線を巡らせた。
ただの迷宮ではない。
壁の配置がゆっくりと変わっている。
しかも、ときおり通路の奥に仲間の姿に似た影がちらつく。
罠だ。
アスカントもそれは感じていた。
空気が妙に粘つく。
耳に入る悲鳴が、ただの音ではなく、神経へ直接指を差し込んでかき回してくるような感覚だった。
「……幻覚も混ざってるニャ」
「地形が動くだけでも十分ひどいのに」
「たぶん、この階層そのものが精神を揺さぶってるニャ。タマの幻術に少し似てるけど、もっと雑で、ずっと悪意が強いニャ」
アスカントは、ちらりとタマを見た。
この猫の幻術は、景色そのものへ干渉する。
視界を歪め、相手に“そこにある”と信じ込ませる力だ。
虚像を見せ、位置を誤認させ、敵の判断を狂わせる。
戦場を丸ごと塗り替えるような術。
それに対し、自分の幻術は違う。
催眠。
意識の綻びに指を差し込み、思考を鈍らせ、判断を遅らせ、命令や暗示を滑り込ませる類の術だ。
単体相手には有効だが、即座に襲い来る鬼どもの群れや、この歪んだ地形そのものを相手にするには、どうにも分が悪い。
重力魔法と拘束魔法もある。
足止めや逃走には使える。
だが、サタンやゾイルのように真正面から鬼を薙ぎ払う火力はない。
つまり……生き残るには、この猫の幻術をどう使うかにかかっている。
役に立つのか微妙、などと思っていた数秒前の自分を、アスカントは心の中で殴りたくなった。
少なくとも、この場においては、自分よりよほど頼りになる。
タマはぴくりと耳を立てた
「いいかニャ。余計な声に返事しちゃ駄目だニャ」
「余計な声、ですか?」
「仲間の声がしても、すぐ信じるニャよ」
「信じるニャよ?」
アスカントはタマの言い回しが理解できなかった。
その言葉が終わるより早く。
「アスカント!こっちだ!」
通路の奥から、サタンの声が響いた。
反射的に、アスカントの胸が跳ねた。
サタンだ。
助かった。
そう思って、一歩踏み出しかける。
「サタン!」
だが、その足を、タマの尾がぴしゃりと叩いた。
「止まるニャ」
「いったぁ!?」
アスカントは片足を押さえて飛び上がる。
「な、何をなさるのです」
「さっき注意したばかりだニャ。今の声、温度が違ったニャ」
タマの瞳が細くなる。
次の瞬間、通路の奥に立っていた“サタン”の影が、ぐにゃりと歪んだ。
輪郭が崩れ、顔のない鬼じみたものへと変わり、そのまま闇に溶けるように消えた。
アスカントの背を、冷たい汗が伝う。
「ひっ……い、いや今のは本気で騙されかけましたよ……!」
「だから言ったニャ」
タマは淡々と言った。
アスカントは喉を鳴らした。
危なかった。
ほんの一瞬、完全に信じた。
この階層は、焦りや安堵の隙間を狙ってくる。
そこへ自分の催眠系の幻術は使いにくい。
術をかける前に、こちらが精神を乱されかねない。
ならどうする。
頭の中で素早く組み立てる。
タマが外界を歪める。
敵の視覚、位置感覚、導線を狂わせる。
その隙に自分が重力で足を止める。
あるいは拘束で動きを封じる。
もし単独の鬼や意志の弱い相手が出たなら、催眠を重ねてさらに判断を鈍らせる。
正面から戦うのではなく、嵌める。
見失わせ、止め、絡め取り、逃げるか仕留めるかを選ぶ。
それが生き残るための形だ。
この黒猫を盾にするのではない。
この黒猫の術を起点に、自分の魔法を噛み合わせる。
そう考えた瞬間、ようやく恐怖の中に、ひと筋だけ道筋が見えた。
「道案内もできない、あんたは足手まといニャ」
「うぐっ……も、もう少しこう、紳士の尊厳に配慮した言い回しはありませんか!?」
「でも守ってあげるニャ」
「……」
「何だニャ、その顔は」
「いえ……少々複雑ですが、今の一件で異論を差し挟む余地がなくなりましてね」
アスカントは苦笑した。
軽口を叩かなければ、喉までせり上がった恐怖に呑まれそうだった。
だが、その裏で頭は回っている。
この猫は、景色を騙せる。
自分は、心を鈍らせられる。
なら、やりようはある。
鬼どものど真ん中。
本来なら一秒でも長居したくない敵地。
だが泣き言を言っても、サタンは助けに来ない。
来たとしても、その前に死ねば終わりだ。
なら、生きるために頭を使うしかない。
タマはふん、と鼻を鳴らし、裂け目の奥へ歩き出した。
小さな黒い影。
けれど、その周囲だけ空気が薄く歪み、幻を見抜く魔力が静かに満ちている。
「サタンとゾイルは放っておいても死なないニャ。問題は、こっちが無事に進めるかどうかだニャ」
「ものすごい信頼ですねえ……」
「実力に関してだけはニャ」
アスカントは服の埃を払いながら立ち上がる。
そして、わざとらしく咳払いをひとつした。
「では、こうしましょう」
「何だニャ?」
「幻で敵の目をずらしていただければ、ぼくが重力で足を止めます。単独なら催眠も重ねられる。正面突破は無理でも、嵌めて進むことはできるはずです」
タマがちらりと振り返る。
金の瞳が、ほんのわずかに細まった。
「……ちゃんと考えてるニャ」
「失礼な。私は追い詰められた時ほど知恵が回るタイプですよ」
「普段からやるニャ」
「耳が痛いですね」
アスカントは肩をすくめ、それでも笑みを作った。
怖い。
正直、かなり怖い。
昔から鬼の地獄の恐ろしさは身に染みるほど聞いている。
けれど、ただ震えているよりはましだ。
使えるものを数え、組み合わせ、少しでも生きる目を拾う。
「では、エスコートはお任せしますよ、タマさん」
「足を引っ張るニャよ?」
「善処ではなく、全力を尽くしますとも」
そう言って、アスカントは黒猫の後を追った。
叫喚地獄の悲鳴が、なおも四方から降り注ぐ。
だが先ほどまでただの絶望に見えた迷宮の奥に、今はかすかに“攻略すべき盤面”の輪郭が見え始め裂け目を抜けた先は、ひらけた空間だった。
とはいえ、叫喚地獄におけるひらけている場所など信用に値しない。
頭上には無数の巨大な岩柱が牙のように垂れ下がり、地面はひび割れた赤黒い岩盤が波打つようにうねっている。
あちこちの裂け目からは炎とも瘴気ともつかぬ赤い蒸気が噴き出し、遠く近くで、罪人たちの断末魔じみた叫びがこだましていた。
アスカントは喉を鳴らした。
「……嫌な広場ですねえ。いかにも“何か出ます”と言わんばかりだ」
「実際、出るニャ」
タマが足を止めた。
黒い背の毛が、わずかに逆立つ。
次の瞬間。
ドン――ッ!!
地面が揺れた。
つづいて、ドン、ドン、と岩盤の奥から響く重い足音。
ひび割れの向こうの闇から、二つの巨大な影がゆっくりと姿を現した。
最初にぬっと現れたのは、馬の頭を持つ獄卒将だった。
全高は十メートルを優に超え、首から上は黒毛に覆われた巨大な馬面。
眼窩の奥では血のような赤い光がぎらつき、鼻息ひとつで白い蒸気が噴き上がる。
筋肉の鎧をまとったような巨体には、赤黒い甲冑が無理やり打ちつけられ、右手には人間など串刺しにしても余るほどの長大な二又槍を携えていた。
その隣に並ぶのは、牛の頭を持つ獄卒将。
こちらはさらに横幅があり、隆起した筋肉が甲冑の隙間から岩のように盛り上がっている。
歪んだ角は天井を突きそうなほど長く、手にした鉄の棍棒は、もはや柱だった。
漆黒の鉄塊に無数の棘が打ち込まれ、引きずるだけで岩盤を砕きながら火花を散らしている。
二体が並び立つだけで、空間そのものが狭く見えた。
「……っ」
アスカントの頬が引きつる。
軽口が出なかった。
でかい、などという言葉では足りない。
あれは“壁”だ。
しかも意思を持ち、武器を振るってくる壁。
鬼の領域、その深層における将級。
サタンやゾイルなら鼻で笑って切り抜けるかもしれない。
だが自分にとっては、まともに相手をしていい相手ではない。
牛頭が鼻から熱い息を噴き、低く唸る。
「悪魔の臭いがするな」
馬頭が二又槍の切っ先を持ち上げる。
「小物が二匹。ひとつは猫か」
「余興にもならん」
アスカントは背筋に氷を流し込まれたような感覚を覚えながらも、口元だけはどうにか笑わせた。
「こ、これはどうもご丁寧に。できれば余興にもせず、お帰りいただけると助かるのですが」
「黙るニャ」
タマの声は低かった。
金色の瞳が細く絞られる。
「正面からやったら死ぬニャ」
「ええ、それは痛いほど同感ですとも」
「なら、予定通りいくニャ」
「了解です、タマ……さん!」




