105 パーティー分断
薄闇に沈んだ地獄の深層。
赤黒い岩盤を削って築かれた玉座の間は、まるで巨大な獣の腹の中のように熱く、重く、血と硫黄の臭いに満ちていた。
奥。
無数の髑髏を積み上げて作られた王座に、地獄の王――酒呑童子が座している。
その巨体は山のようだった。
乱れた赤髪は炎のたてがみのように揺れ、額から突き出た二本の角は、黒鉄を思わせる禍々しい光を帯びている。
半ば閉じられた双眸の奥には、底なしの暴威と飢えが沈んでいた。
盃のように太い指が肘掛けを叩くたび、空気そのものがびり、と震える。
その前に、獄卒長と獄卒将――馬頭と牛頭。
さらに副将たる風鬼、雷鬼が、膝を折って頭を垂れていた。
「報告を」
低く。
腹の底を這うような声だった。
その一言だけで、広間の熱気がさらに重く沈む。
誰もが息を潜める。
王の機嫌ひとつで、この場にいる鬼どもですら肉塊に変わると知っているからだ。
最初に口を開いたのは牛頭だった。
巨躯をさらに小さく見せるように身を屈め、地に額が触れんばかりに頭を下げる。
「は……っ。等活、黒縄、衆合の各層にて異常が発生しております」
「異常だと?」
酒呑童子の片眉がわずかに動く。
それだけで牛頭の背に冷たい汗が走った。
「侵入者です」
馬頭が続けた。
声音は抑えていたが、その奥には隠しきれぬ苛立ちが混じっている。
「新たに落ちた罪人ではありません。獄卒どもの巡回を避け、魔獣を屠り、魂を喰らいながら下層へ進んでおります」
「数は」
「少数にございます。確認できているだけで三……いや、一匹を含めれば四」
「ほう」
酒呑童子の目が、わずかに開いた。
それだけで玉座の間に満ちていた圧が膨れあがる。
「二層の防人獄卒隊は?」
雷鬼が唇を噛み、拳を強く握った。
全身を走る黄電が怒りに応じて弾ける。
「壊滅。生き残りはおりませぬ」
「幻術を使う獣が一匹。風の太刀を扱う魔人が一人。重力を操る影の術者が一人。そして……」
風鬼がそこで言葉を切った。
酒呑童子の視線が突き刺さる。
「そして?」
風鬼の喉が鳴る。
「炎、氷、竜巻、雷を同時に扱う者が一人」
「そやつが主力と思われます。魔獣の魂を喰らうたび、力を増している様子」
牛頭の声は低かった。
だが、その内容に広間の空気がざわめく。
魂喰らい。
それは鬼の領分を荒らすだけでなく、地獄そのものを食らうに等しい冒涜だ。
酒呑童子はしばし黙した。
やがて、口の端がゆっくりと吊り上がる。
「面白い」
その笑みを見た瞬間、馬頭も牛頭も背筋を凍らせた。
機嫌が良いのではない。
獲物を見つけた獣の顔だった。
「名は割れたか」
一瞬の沈黙。
そして牛頭が答える。
「……サタン、と」
その名が落ちた途端。
酒呑童子の盃が、ぴしり、と音を立ててひび割れた。
空気が変わる。
玉座の間の鬼たちが一斉に顔を伏せた。
酒呑童子の瞳に、先ほどまでの愉悦とは違う色が宿ったからだ。
それは、古い記憶を掘り返された獣の色。
怒りとも、興奮ともつかぬ濁った炎だった。
「……サタン」
その名を、酒呑童子はゆっくり噛みしめるように繰り返した。
「わざわざ鬼の地獄まで首を突っ込んできたか……遊び半分ではあるまい」
雷鬼が顔を上げる。
「ご命令を。すぐに我ら副将が出ます。首を刎ね、この玉座の前へ」
だが、酒呑童子は手を上げて制した。
「慌てるな」
その一言で、雷鬼は再び沈黙した。
酒呑童子は王座に深く腰掛け直し、ぎらつく牙を覗かせる。
「下の者では止められぬ。サタンは……あえて進ませよ」
「……進ませる、ので?」
馬頭が思わず顔を上げる。
「奴は、最後に余が喰う」
酒呑童子の笑いが、喉の奥でごろりと鳴った。
それは雷鳴よりも不吉で、地の底から響く火山の唸りのようだった。
「風鬼、雷鬼」
「はっ」
「通路を閉ざせ。逃げ道を潰せ」
「馬頭、牛頭。各層の亡者どもを動かせ。殺すな。削れ。分散させろ。疲れさせろ。サタンアは余の獲物だ。他の従者はばらけさせ、貴様らが対応しろ」
酒吞童子はサタンのこと以外の者には眼中にないようだ。
「余の前に辿り着く頃には、魂まで焼け焦げておるようにな」
四鬼は一斉に頭を垂れる。
「御意」
「御意にございます」
「承知」
「仰せのままに」
酒呑童子は、念を押した。
「サタンには手を出すな……サタンだけは余が直々に相手をする。あれは他の鬼の餌ではない。」
瞬間。
王座の背後で業火が噴き上がった。
天井を舐める炎が鬼の影を壁一面に巨大に映し出し、その姿をまるで地獄そのものの化身のように見せる。
酒呑童子はゆっくりと立ち上がる。
その威圧だけで、床に亀裂が走った。
「来るがよい、サタン」
酒吞童子はまだ見ぬ敵をにらむ。
「この鬼の地獄の最奥で――貴様を喰らってやる」
その宣言は呪いのように広間へ満ち、深層全域へと響いていく。
そして鬼たちは、一斉に散った。
王の命を受け、侵入者を最奥へ追い込むために。
地獄の底で、罠が静かに口を開け始めていた。
地獄の王の号令で鬼たちが散ったのと、ほぼ同時だった。
深層へ続く大地が、突如として脈打った。
ご、ごごごご……。
足元の岩盤が低く唸り、地獄そのものが生き物のように身をよじる。
赤黒い壁が軋み、裂け、組み替わる。
一直線に続いていたはずの通路はねじれ、折れ、盛り上がり、沈み込み、まるで巨大な迷宮が地中から生え出すように形を変えていった。
「……来るぞ」
サタンが低く言った、その直後。
轟音。
視界の先で岩壁がせり上がる。
横の通路が閉じ、背後の道が砕け、前方に新たな裂け目が開く。
熱風と紅い蒸気が唸りをあげて吹き抜け、地獄の悲鳴のような声が四方八方から響いた。
一気に視界が悪くなる。
「これは……っ、第五階層への移行だ!」
アスカントが叫ぶ。
足元が割れた。
一行の立っていた岩場が、四つに裂ける。
「にゃっ――!」
黒猫の小さな体が跳び、一番近くにいたアスカントの肩へと飛び移る。
だがその間にも、岩の壁が幾重にもせり上がり、仲間の姿を遮っていく。
「サタン様!」
ゾイルが手を伸ばす。
その指先の向こうで、サタンの姿が赤い蒸気の向こうへ遠ざかった。
裂け目がどんどん大きくなり、サタンたちの足元が崩れ、一行は奈落へと突き落とされる。
サタンは収納していた翼を広げ宙に浮かぶも、他の者を拾うに間に合わない。
「やられたな……だがあいつらなら大丈夫だろ」
各々の力を信頼している証拠でもあった。
崩れ落ちる岩。
噴き上がる蒸気と炎。
閉じる壁。
次の瞬間。
一行は完全に分断された。
重い着地音とともに、ゾイルはひとり、黒く焼けた岩棚の上へ降り立った。
「……ちっ」
周囲を見渡す。
どこまでも続く赤黒い通路。
壁面には無数の顔のような模様が浮かび、それらが苦痛に歪んだ表情で口を開いていた。
否。
模様ではない。
岩そのものに、罪人たちの顔が埋まっているのだ。
(アアアアアア……)
(熱い……熱い……)
(出してくれ……)
壁が叫んでいる。
叫喚地獄。
名の通り、ここでは地面も壁も天井も、尽きることのない苦悶を響かせていた。
その声は耳からではなく、頭蓋の内側へ直接流れ込んでくるようで、不快というより神経そのものを削る。
環境そのものが幻術となっているのだろう。
ゾイルは眉ひとつ動かさず、刀の柄に手を置いた。
「鬱陶しい場所だな」
風が吹く。
だがそれは自然の風ではない。
細い通路の奥から吹きつける熱風に、血と灰と焦げた肉の臭いが混じっていた。
「サタン様と合流するのが先だ」
独り言のように呟き、ゾイルは歩き出す。
足音は静かだった。
だがその静けさの奥に、獲物を狩る剣士の緊張が張り詰めている。
「迷路だろうが何だろうが、斬って進めばいいだけだ」
その目は、すでに獄卒の気配を探していた。




