103 地形を狩り、喰う
鬼の地獄 第四層。
黒縄地獄を越えた先で、景色は大きく変わる。
罪人が獄卒に追い立てられる。そこは他の地獄と同じだ。
サタンは足を止めた。
「……妙だな」
「何がです?」
ゾイルが周囲を見回す。
ある一点で視線が止まった。
「山が……動いている」
山側へと追い立てられ、罪人が逃げた先の環境が異常であった。
「あれは山じゃない」
そこにあったのは山ではなかった。
それは、山を背負ったとてつもなく巨大な亀だった。
大地と見紛うほど巨大な亀が、黒い盆地をゆっくりと歩いている。
低く、地の底から唸るような音が響いた。
ゴゴゴ……と大地が揺れる。
遠くの山が、ゆっくりと動いた。
「この山すべて……地形じゃない。生き物だ」
甲羅は山脈のように隆起し、岩と鉄が層になって重なっていた。
その背には裂けた谷、鋭い尾根、崩れた断崖があり、まるで一つの世界を背負っているかのようだ。
罪人たちはその甲羅の上を彷徨う。
自分が巨大な生き物の背に立っていることなど、最初は誰も気づかない。
だが大地が、動く。
山がゆっくりと寄り合う。
尾根が軋み、岩壁が閉じる。
岩の尾根が寄り合い、谷が閉じる。
その隙間にいた罪人の群れが、一瞬で押し潰された。
逃げ場だと思って駆け込んだ谷が、次の瞬間には巨大な石壁に挟まれ、罪人の骨を砕く。骨が砕ける鈍い音。
血が霧のように吹き上がる。
それが衆合地獄。
山のような甲羅をもつ地獄の亀の背で行われる処刑場だった。
亀の名は、獄界では重岳亀と呼ばれている。
歩みは遅いが、その一歩で地形が変わる。
罪人が背に上りやすいように、足が短く、地面に届くほど、甲羅の縁は長く伸びている。
甲羅の山々は呼吸のように動き、谷を開き、そして閉じる。
罪人たちはその動きに翻弄され、群れ、逃げ惑い、やがて山に挟まれて潰される。
だが、この甲羅の世界に棲んでいるのは亀だけではない。
岩の裂け目から、黒い影が這い出した。
それは甲殻の狼だった。
全身が岩の破片のような硬い鱗で覆われ、
脚は六本。
爪は鉄のように曲がり、甲羅の斜面を自在に駆け回る。
彼らは亀の背に巣を作り、
圧死した罪人の肉を喰らって生きている。
狼が遠吠えすると、岩の影からさらに無数の気配が動いた。
地面がざわめく。
それは岩喰い虫だった。
手のひらほどの虫だが、数が異常だった。
黒い甲羅を持つその虫は、岩の隙間を埋め尽くすように群れ、
罪人の血が流れると一斉に湧き出す。
肉だけでなく骨まで削り、数分もしないうちに死体を白い粉へ変えてしまう。
さらに、亀の尾根の上には別の生き物がいた。
巨大な鎖鷲。
翼を広げれば十メートルはある。
羽は黒鉄の刃のように尖り、罪人が谷へ逃げ込むと、その上空を旋回する。
そして、鳴く。
その声は奇妙に甘く、まるで何か企んでいるように聞こえる。
罪人は無意識にその声の方から逃げ、追い立てられ、集められる。
群れができる。
密集する。
その瞬間、甲羅の山が、閉じた。
地面が左右から折りたたまれ、罪人は圧死する。
岩と岩がぶつかり、血が霧になって噴き上がる。
その血を、狼が舐め、虫が群がり、鎖鷲が骨を飲み込む。
そして地獄亀は、何事もなかったかのように
またゆっくりと歩き出す。
背に、山と罪人と魔獣の世界を乗せたまま。
「……おい」
ゾイルが振り返る。
「説明は?」
アスカントはしばらく亀を見上げたまま、
ようやく口を開いた。
「……いや」
「ん?」
「私も……ここは初めてなんですよ」
サタンが少し眉間をしかめた。
「案内人じゃなかったのか?」
アスカントは苦笑する。
「第四階層までは案内できるが……」
巨大な亀がゆっくりと歩く。
甲羅の山がまた軋む。
「この地獄は、私も来たことがない」
タマが笑った。
「ここからが本当の探索だニャ」
ゾイルが剣の柄に手を置く。
「つまり」
再び、山が閉じた。
骨が砕ける音。
ゾイルは静かに言った。
「ここから先は、全員初見というわけか」
サタンは巨大な地獄亀を見上げた。
巨大な亀が、ゆっくりと盆地を進んでいた。
甲羅の山々が軋み、谷が閉じるたびに罪人の悲鳴が潰れて消える。
サタンはその巨体を見上げたまま静かに言った。
「……狩るか」
ゾイルが口元を歪める。
「言うと思いました」
ゾイルは剣の柄を握ると力を溜め始める。
大技を放つようだ。
アスカントは目を丸くした。
また目の前の魔人はおかしなことを言いだす。
それにお付きの魔人も止めるどころか、ノリノリの様子。
「待て待て待て!あれは地形ですよ!?いや生き物ですが!狩るサイズじゃない!」
タマが肩の上で尻尾を揺らす。
「大丈夫だにゃ」
猫の金色の瞳が細くなる。
「サタンがいる」
「いや、そういうことじゃなくて……」
サタンは一歩前へ出た。
空気が変わる。
風が、集まり始めた。
最初は微風だった。
だが次の瞬間、地面の砂と血の霧を巻き込みながら空へ昇る。
唸るような風は、いつの間にか世界の終りを告げるかのような轟音へと変化する。
巨大な竜巻が立ち上がった。
黒い盆地の中央で、竜巻は柱のように天へ伸びる。
サタンは片手を上げた。
「テンペスタス・アネモルム(風神たちの嵐)」
巨大な竜巻が横へ薙ぐ。
地獄亀の背の山々を削り、岩を剥ぎ取る。
甲羅の上の狼や魔虫が一斉に吹き飛ばされた。
亀が唸る。
その巨大な脚が地面を踏みしめた。
ゴゴゴゴ……!
甲羅の山が動く。
岩の尾根が持ち上がり、巨岩が空へ浮いた。
タマが即座に叫ぶ。
「来るよ!」
亀の甲羅から、土の槍が無数に伸びる。
山そのものが崩れ、岩の津波のように降り注ぐ。
その瞬間。
タマの瞳が光った。
「幻界」
空間が揺らぐ。
岩の雨が、歪んだ。
落ちてくるはずの巨岩が、
まるで見えない壁に当たるように弾かれていく。
実際には何もない。
だが亀の感覚は完全に騙されていた。
自分の攻撃が、敵のいる場所に確実に落ちていると誤認している。
岩の雨は空しく盆地の外へ崩れ落ちた。
サタンの背後で、ゾイルが剣を抜く。
風が止む。
一瞬の静寂。
ゾイルの足元に風が集まる。
「……巨大な相手は久しぶりだ」
刀を静かに構える。大技の溜めが終わったのだ。
「疾風一刀流――」
踏み込み。
空気が裂ける。
「陸ノ型“月輪落砕”(げつりんらくさい)」
地面が爆ぜた。
ゾイルの姿が消える。
次の瞬間。
遥か上空に跳躍したゾイルが天から亀の甲羅の山脈に三日月型の斬撃を繰り出す。
白色の巨大な斬撃が天から落ちてくる。
巨大な天の刃が尾根を切り裂き、岩の山を真っ二つに割る。
遅れて、轟音。
甲羅の岩壁が崩壊した。
アスカントが絶句する。
「おいおい……山が斬れたぞ……」
だが、まだ終わらない。
亀は咆哮した。
盆地全体が揺れる。
その巨体が持ち上がり、
甲羅の山が一斉に隆起する。
サタンの目が細くなる
「……硬いな」
彼は右手を開いた。
空気が凍る。
温度が急落する。
空間に無数の光が走る。
「ギガフローズン・ブレイド(巨氷刃)」
空中に、数十メートルの巨大な氷の刃が幾十も生まれる。
それは剣というより、氷の断頭台だった。
サタンが腕を振る。
氷刃が一斉に落ちる。
ゾイルの切り開いた甲羅の割れ目に突き刺さり、山脈を貫通する。
亀が苦悶の咆哮を上げた。
そのとき。
地面の影が揺れた。
そこから、ゆっくりと人影が立ち上がる。
アスカント。
影の悪魔は静かに亀を見上げた。
「やれやれここまで見せられたら、私も少しお手伝いいたしましょう
「この術は……質量が大きいほど、よく沈む」
手をかざす。
「シャドウ・グラビティ(闇重力)」
空気が沈んだ。
見えない圧力が、亀の巨体を包む。
ズンッ――
亀の脚が沈む。
地面が陥没する。
その巨体が、ゆっくりと押し潰されるように沈み始めた。
重力が増している。
質量が巨大なほど、
その影響は凶悪になる。
ゾイルが目を見開いた。
「おいおいおい……亀が沈んでるぞ……!」
サタンはその様子を見て、小さく頷く。
「いい拘束だ」
そして、空を見上げた。
雲が渦を巻く。
サタンの頭上に火が生まれる。
「ヘルフレア・メテオ(地獄の火球)」
現れたのは、山ほどの火球だった。
上昇気流により竜巻が再び立ち上がる。
炎を巻き込む。
氷の刃の残骸が砕け、
無数の氷片が火の中へ吸い込まれる。
氷片が風の中でこすれ、電気が発生する。
炎、風、雷。
三つの力が混ざる。
サタンは静かに言った。
「終わりだ」
腕を振り下ろす。
「落ちろ」
雷・竜巻に包まれた巨大火球が、地獄亀へ落下した。
衝突。
世界が白く弾けた。
轟音が盆地を揺らす。
炎が噴き上がり、岩の山が吹き飛ぶ。
地獄亀の巨体が大きく痙攣し、ついに動きを止めた。
静寂。
砂煙の向こうで、甲羅の山が崩れている。
アスカントがぽつりと言った。
「……地形を狩る連中、この地獄でもきっと初めてですよ」




