100 地獄の構造
風が吹いた。
フェルナティアの翼がゆっくりと揺れる。
やわらかな夢の風が、地獄の空を流れる。
似つかわしくない。
サタンは少しだけ笑った。
ネフィリムたちは興味深そうに見ている。
宴は終わり、次の話が始まろうとしていた。
アスタロトの言葉のあと、しばらく風だけが吹いていた。
溶岩の炎が揺れる。
ネフィリムたちは静かに耳を傾けている。
サタンが口を開く。
「ヤマタノオロチ」
その名を反芻する。
「どういう怪物だ」
アスタロトはフェルナティアの首を軽く撫でた。
青龍は静かに風を巻き、空に淡い雷雲を広げる。
侯爵悪魔はゆっくりと語り始めた。
「遥か古の存在だ。地獄が今の形になる前からいる」
ゾイルが眉を上げる。
「そんな昔から?」
「ええ」
アスカントは静かにうなずく。
アスタロトは溶岩の向こうを見つめる。
「地獄の深層に棲む、巨大な竜。八つの首に八つの意思を持つ焼く厄災」
ネフィリムの一体が低く唸る。
どうやらその名は知っているらしい。
アスタロトは続ける。
「ヤマタノオロチは単なるドラゴンではない。災厄だ。地獄の魔力を吸い、巨大化し、配下を無限に生む」
ゾイルが腕を組む。
「酒吞童子の親父なんだろ」
「そう」
アスタロトは頷く。
「酒吞童子は王だが、実際に東の地獄を支配しているのはヤマタノオロチだ」
フェルナティアがゆっくりと空を見上げる。
まるでその存在を思い出すように。
アスタロトは少し声を落とした。
「首の一つ一つが山ほどの大きさ。体は谷を埋める。毒の息は溶岩を黒く変える」
ゾイルが呟く。
「……完全に災害だな」
アスカントが補足する。
「ええ、地獄で討伐されたことはない」
アスタロトは少しだけ視線を動かした。
「ただし」
一拍。
「だが不敗ではない」
サタンの目が細くなる。
「どういう意味だ」
アスタロトは答える。
「首が一本、無いのだ」
ゾイルが眉をひそめる。
「無い?」
「ええ」
アスタロトは淡々と言う。
「名前の通り、本来は首は八つ。ですが今は七つ」
ネフィリムたちがざわめいた。
どうやらそれは、地獄でも奇妙な話らしい。
ゾイルが言う。
「誰かが切ったのか?」
アスタロトは肩をすくめた。
「分からない。一説では勇者と戦ったとの噂はあった。だがどれだけ多くの鬼を捕まえ、拷問にかけようとこのことについて話さない……いや、話そうとすれば死ぬ呪いがかけられているのだ」
フェルナティアが静かに翼を広げる。
風花が舞う。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
遠くの地平の向こう。
地獄の深層。
そこにはまだ誰も見たことのない怪物が眠っている。
七つの首を持つヤマタノオロチ。
だが本来は八つ。
失われた一本の首の謎は、まだ誰も知らない。
「首を一本失うということは、単純な欠損ではない」
少し間を置く。
「一つの存在が消えたということだ」
溶岩の炎が揺れる。
侯爵は静かに言った。
「もし首が切り落とされたのであれば、通常は再生する。ヤマタノオロチほどの魔力を持つ怪物なら尚更容易だろう。」
サタンが口を開く。
「だが再生していない」
「そう。別の存在になったか、封印されたか……いずれにせよ、ヤマタノオロチは今でもその首を探している」
ネフィリムの宴の熱気が、まだ背後に残っている。
溶岩の大地を後にし、サタンたちは地獄のさらに奥へと進んでいた。
フェルナティアに乗ったアスタロトとはそこで別れ、アスカントが案内役として先導している。
やがて地面が傾き始めた。
巨大な裂け目のような坂を下りていく。
ゾイルが周囲を見回した。
「……下に行くのか」
アスカントが頷く。
「ええ」
「地獄は、下に行くほど広がる構造です」
サタンが言う。
「ピラミッド構造か」
アスカントは少し感心したように微笑んだ。
「まさにそれです」
アスカントは杖の先で地面に簡単な図を描く。
「第一層は入口。溶岩地帯が広がるネフィリム達の支配領域。」
「そこから下へ行くほど領域が広がり、魔力も濃くなるというわけか」
二層に来て、サタンは周囲の魔力濃度が一層よりも濃くなったことを感じていた。
「そして……」
線を二つに分けた。
「ここから先は領域が分岐します」
ゾイルが覗き込む。
「二つ?」
アスカントは指で示した。
「こちらが悪魔の領域」
反対側。
「そして、こちらが鬼の領域」
ゾイルが鼻を鳴らす。
「酒吞童子の縄張りか」
「正確には、その父の影響下ですね」
アスカントは淡々と答えた。
「深部へ行くほど強き者が住む」
「それは悪魔も鬼も同じです」
サタンは歩みを止めなかった。
「鬼の方へ行く」
アスカントは肩をすくめる。
「当然ですね。ヤマタノオロチは東です。こちらの方に進みましょう。悪魔と鬼の支配領域はこの第二層しか行き来できませんから」
サタン一行はアスカントを先頭に歩みを進める。
「なんか雰囲気変わったぞ」
空気がまるで違う。
地面の色も変わっていた。
黒い岩盤から、血の赤に変わる。
ゾイルが言う。
「境界か?」
アスカントが頷いた。
杖で地面を示す。
「ここが鬼の領域と悪魔の領域の境界線です」
サタンは境目を見た。
はっきりした壁はない。
ただ、空気そのものが違う。
鬼側は血と鉄の匂い。
悪魔側は硫黄と魔力の匂い。
地面も変わる。
今立っているのは悪魔側の領域。
地面は黒い岩盤が広がっているが、目の前の境界は血がしみ込んだような暗い赤。
アスカントは境界線を指した。
「悪魔と鬼の領域を地続きで行き来できるのは第二階層だけ」
サタンの目が細くなる。
「他は違うのか」
アスカントは頷く。
「そうです。第三階層から下は、完全に独立した空間。違う領域に移動できません」
「悪魔の階層の一番下から、鬼の領域に侵入出来たらと思ったんだが……面倒な構造だな」
ゾイルの言う通りに移動ができれば、敵に出会わず最短でヤマタノオロチと対面できただろう。
ゾイルは下唇を突き出す。
「戦争を防ぐためです」
アスカントは淡々と答える。
「もしすべて地続きなら、鬼と悪魔は常に戦争になります」
サタンは小さく笑った。
「俺たちが敵地で暴れたら、戦争になっても不思議じゃない」
アスカントも否定しない。
「まあ……アスタロト様もいい加減、この地獄の二王状態を変えたいのでしょうか」
そして続ける。
「ちなみに例外があります」
ゾイルが振り向く。
「例外?」
アスカントは指を四本立てた。
「第一階層と第四階層」
少し声を落とす。
「そこだけは、地上世界と繋がっています」
「そういえば、勇者がいた町にネフィリムがいたな……」
サタンは人間の城で氷漬けにした巨人を思い出した。
「あの者は地獄の一階層から抜け出し、魔界の沼地に住み着いたものです。小型種で競争に負けたのでしょう。人間に恨みを抱いていたので、命令せずとも思い通りに動いてくれました」
「四階層はどこにつながっているんだ?」
「悪魔側の入り口の一つはベルゼの領域、鬼側の一つは“どこかの危険な場所”と言われてます」
「鬼側の情報はさすがに無いか……おッ?」
空気が変わった。
熱ではない。
鉄の匂い。
血の匂い。
足元の地面が赤黒く染まっている。
ゾイルが眉をひそめた。
「……血か」
アスカントが言う。
「等活地獄……鬼の領地の領域の入り口です」




