99 悪魔の交換条件
タマは肉を抱え込み、満足そうにかじっている。
「にゃ」
サタンは腕を組み、その様子を眺めていた。
その少し後ろでアスカントは静かに目を閉じた。
(……この騒ぎ……報告しておいた方がよいでしょうね)
悪魔は声を出さず、思念だけを遠くへ飛ばす。
地獄の深層。
黒い城の奥。
そこに座す存在へ。
――アスタロト様。
ネフィリムが宴を開いております。
原因は……例の魔人です。
しばしの沈黙。
そして。
空の雲が裂けた。
ゴォォォォ――――
強烈な風が吹き抜ける。
溶岩の炎が揺れ、灰が空へ舞い上がる。
ゾイルが顔を上げる。
「……なんだ?」
ネフィリムたちも空を見る。
次の瞬間。
雲の中から、青い影が降りてきた。
巨大な翼。
しなやかな長い体。
風と雷雲をまとった青緑龍。
「地獄に……ドラゴンが!?」
「インドラ様より長いニャ」
「美しい」
サタンはその姿に見とれていた。
その鱗は空の色を映すように輝き、姿は風に溶けるように揺らいでいる。
翼が羽ばたくたび、淡い風花が舞った。
まるで夢の欠片が降ってくるようだった。
地獄に花とは……。
アスカントが静かに呟く。
「……お早いご到着で」
龍が空を旋回する。
雷雲が巻き、風が唸る。
その背に一人の悪魔が立っていた。
長い外套。
貴族のような優雅な装い。
銀の装飾がついた黒衣。
そして、落ち着いた気品ある顔立ち。
悪魔の侯爵。
アスタロト。
龍がゆっくりと溶岩の大地へ降り立つ。
ズゥン……
地面が揺れた。
ネフィリムたちは騒がない。
むしろ興味深そうに見ている。
ゾイルが低く言う。
「……ドラゴンライダー?」
アスカントが頷く。
「ええ、伝説の……ですね」
青龍がゆっくりと首を上げる。
その瞳は嵐のように深い。
夢風竜 フェルナティア
風と幻を操る龍。
夢のように姿を変え、現実すら揺らがせる存在。
強き者には甘美な夢を。
弱き者には恐ろしい悪夢を。
その翼が動くたび、風花が舞う。
アスタロトは龍の背から軽やかに降りた。
まるで宮廷の舞踏会に現れた貴族のような所作。
そして周囲を見渡す
ネフィリムの巨人たち。
溶岩。
そして断熱の甲殻がはがされ焼かれている巨大マグマルマジロウ。
アスタロトは静かに瞬きをした。
「……」
それから、アスカントを見る。
「アスカント、説明を」
アスカントは丁寧に一礼した。
「はい、アスタロト様」
そしてサタンの方を見る。
「こちらの魔人が地獄に料理文化を持ち込みました」
ネフィリムがまた歓声を上げる
肉を掲げている。
アスタロトはもう一度、宴を見渡した。
ネフィリムたちは楽しそうに肉を食べている。
そして、その中心にはサタン。
悪魔侯爵は小さく息をついた。
「……なるほど」
フェルナティアが背後で風を巻く。
夢の風が、溶岩の熱をかき混ぜていた。
地獄の宴は、まだ終わそうにない。
溶岩の炎が揺れている。
ネフィリムたちは肉を食べながら、サタンとアスタロトを見ていた。
宴の熱気の中で、空気だけがわずかに変わる。
サタンが口を開いた。
「アスタロト」
侯爵悪魔は視線を向ける。
「なんだ?魔人」
サタンは淡々と言った。
「イルカの魂を開放してもらおう」
そして続ける。
「それと、ヨルカの肉体……死後の肉体の拘束を解放しろ」
一瞬。
空気が凍った。
アスタロトの表情がわずかに動く。
静かな声だった。
だがその奥には、冷たい怒りが滲んでいる。
「すでに結ばれた契約だ」
風が強くなる。
フェルナティアの翼がわずかに動いた。
アスタロトはゆっくり続ける。
「契約とは絶対。それを一方的に破棄しろと?」
サタンは動じない。
「そうだ」
ゾイルが小さく息を吐く。
アスカントも黙ったままだ。
アスタロトの声が低くなる。
「傲慢だぞ魔人」
空気が震えた。
フェルナティアの周囲に雲が渦を巻く。
夢の風が、わずかに悪夢の気配を帯びる。
アスタロトの怒りだった。
その瞬間。
ズシン。
ズシン。
大地が揺れる。
ネフィリムが立ち上がった。
一体。
二体。
三体。
巨人たちがゆっくりとサタンの後ろに集まる。
アスタロトは目を細めた。
ネフィリムは普段、誰の言うことも聞かない。
悪魔の命令など当然無視する。
力は認めるが、支配は受けない。
だからこそ。
アスタロトも距離を取ってきた。
だが今。
巨人たちは明らかにサタン側に立っている。
ゾイルが小さく笑う。
「料理外交、効いてるな」
アスカントは内心で呟いた。
(やはり……危険度、さらに上方修正)
アスタロトはゆっくりと息を吐いた。
怒りを抑える。この場の最適解を探すべきだ。
そして周囲を見る。
ネフィリム。
報告を受けた魔人の力。
溶岩の宴。
状況を計算する。
やがて、口元に薄い笑みが浮かんだ。
「……よろしい」
サタンを見る。
「交換条件を出そう」
ゾイルが眉を上げる。
「交換?」
アスタロトはゆっくり歩く。
溶岩の光が、侯爵の衣を赤く染めていた。
「地獄は現在、二王制だ」
指を二本立てる。
「一人は我が王、ベリアル様」
そして反対側へ視線を向ける。
「もう一人東の王、酒吞童子」
ゾイルが呟く。
「酒吞童子……?」
アスカントが補足する。
「東の魔界の王ですね。奴らは鬼という種族。魔界にいるオーガの上位種のような存在です」
アスタロトは続ける。
「奴は強い。しかし……実際の力を持つ者は別にいる」
溶岩の奥を見つめる。
「酒吞童子の父……ヤマタノオロチ」
その名前が出た瞬間。
ネフィリムたちがざわめいた。
ゾイルが低く言う。
「……やばい奴か」
アスタロトは頷く。
「ええ、地獄の深層を縄張りにする、古き怪物。八つの首を持つ災厄」
そしてサタンを見る。
「交換条件だ」
静かな声。
「ヤマタノオロチを討伐しろ、そうすれば……イルカの魂、ヨルカの肉体、両方の契約を解放しよう」




