95 地獄へ
さっきまで湿った土と葉の匂いがしていた森は、今や別の世界のようだった。
枝という枝は白く凍りつき、葉は氷の膜をまとっている。
地面には薄く雪が積もり、温暖だったはずの森に静かに雪片が舞っていた。
吐く息が白くなる。
サタンは呆然と周囲を見回し、そしてインドラを睨んだ。
「……ホント何やってくれんだ!?」
正気に戻ったらしいインドラは、氷の森を見渡しながら豪快に笑う。
「フハハハ。何をうろたえているのだ。あんなものはドラゴン同士のあいさつだ」
サタンは眉をひそめる。
やっぱり、まだ正気じゃないのかもしれない……。
いや、正気でこれならそれはそれで問題だ。
インドラの疫病神っぷりには、ある意味感服するしかない。
進化するたびに自身の能力を開放するのは、ドラゴンあるあるなのだろうか。
サタンは凍りついた森を顎で示した。
「……お前らにはあいさつかもしれないが、周囲見てみな」
インドラは空を見上げた。
ゆっくりと雪が降り続いている。
「……雪か。きれいだな」
「暢気か!」
サタンが即座に突っ込む。
インドラは肩を揺らして笑った。
「冗談だ。わかっている。気候が変わったことを言っておるのだろう?」
「ああ」
サタンは凍った枝を指で弾いた。
カン、と硬い音が鳴る。
「食糧事情に問題が起こる」
インドラは凍りついた森を眺めながら言った。
「シャナトリアの氷は特別製でな。あやつの氷は長く続く」
軽く地面を踏む。
凍った土が鈍く軋んだ。
「北の大地が永久凍土になったのも、そのせいだ」
さらりと言うが、内容は全く笑えない。
サタンの顔が引きつる。
「やばいじゃないか。どうすんだこれ!?」
インドラはまるで問題でもないかのように答えた。
「案ずるな。こういう時のために食糧庫に大量の備蓄を備えているのだ」
そしてちらりとサタンを見る。
「それにこれからお前は地獄に行くのだろう?」
「ああ」
「そこの煉獄スピネルを拾ってくれれば、あとは我がやろう」
雪が静かに降り続ける。
白く染まった森を見渡しながら、サタンは小さく息を吐いた。
食料は……まあ大丈夫だろう。
だが、このままではこの周囲の環境そのものが死ぬ。
ヨルカとイルカ魂にアスタロトの手がかかる前に早くした方がいい
サタンは空を見上げる。
「……急いだほうがいいな」
白い息が、冷えた空気の中に消えた。
サタンは空間に裂け目を開き、空へと出た。
冷たい風が頬を撫でる。
砦の上空。雲の下、白く凍りついた森が広がっている。
サタンは周囲を見渡した。
そして、空に向かって声を張る。
「アスカント!!」
声は乾いた空気の中を遠くまで響いていく。
一拍。
何もない空間が、わずかに歪んだ。
「呼びましたか?」
影が滲むように現れ、細身の悪魔が姿を取る。
翼を畳み、礼儀正しく一礼する。
アスカントだった。
サタンは鼻で笑う。
「やはりいたか」
そして肩をすくめる。
「……お前、ほんと勇者が苦手なんだな」
アスカントは苦笑した。
「やはりあなたは鋭いですね」
サタンには分かっていた。
こいつが、ずっと遠くから監視していたことを。
だがアスカントは、勇者の近くには絶対に寄ろうとしなかった。
一定の距離を、必ず保っていた。
アスカントは静かに答える。
「正確に言えば、光の精霊が我らの天敵なのです」
サタンが眉をひそめる。
「天敵……?」
アスカントは一瞬、しまったという顔をした。
すぐに微笑みを取り戻す。
「おっと、口が滑ってしまいました。今のは忘れてください」
わざとらしく話題を変える。
「ところで、どうされました?」
黒い瞳が細められる。
「ようやく地獄に行く気になりましたか?」
サタンは空を見上げる。
遠くの雲の切れ間から、薄い光が差していた。
「行く気は元々あったさ」
サタンは淡々と続ける。
「雷虎も当初の目的の一つだったから、先に済ませただけだ」
そしてアスカントを見る。
「地獄の案内だが」
サタンの周囲で、空間がわずかに歪む。
「これから空間転移でゾイルを迎え、行こうと思う……お前のほうは準備はいいか?」
アスカントは軽く翼を広げた。
「ええ」
その口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「あなたのおかげで、アスタロト様にも大量の魂の契約の手土産が出来ました。営業成績は歴代でぶっちぎりでトップ。きっとお喜びになるでしょう」
サタンが眉をひそめる。
「……俺のおかげ?」
アスカントは肩をすくめた。
「ええ」
風が二人の間を吹き抜ける。
下では、凍った森に雪が降り続いている。
「あなたが暴れてくれたおかげで」
アスカントは静かに言った。
「人間が、助けてくれない神より……悪魔のささやきに耳を貸してくれるようになったのですよ」
サタンの目が細くなる。
「お前が結界をいじって、魔物や元地獄の住人を唆すからだ」
アスカントは否定しない。
むしろ楽しそうに笑う。
「あなたがその気なら、あんな魔物、一瞬で倒せたでしょう?」
サタンは即答する。
「人間の問題は、人間が解決すべきと判断したまでだ」
アスカントは少しだけ目を細めた。
その答えが、面白いと言わんばかりに。
「……なるほど」
悪魔は静かに翼を広げる。
アスカントが翼を広げる。
「では行きましょうか。地獄へ」
サタンは首を横に振った。
「その前に二人回収する」
そして砦を指さす。
「まずはタマだ」
サタンは指を鳴らした。
空間が、わずかに歪む。
砦の中庭。
雪の降り始めた石畳の上で、黒猫が尻尾を揺らしていた。
次の瞬間。
「にゃ?」
タマの姿がふっと消え、空の上に現れる。
ふわり、とサタンの腕の中に落ちた。
「にゃあ」
タマは当然のように丸く収まる。
アスカントが感心したように言う。
「相変わらず雑な回収ですね」
「文句あるか」
「いえ、猫が平然としているのが驚きなだけです」
タマは欠伸をした。
次の瞬間、サタンの周囲の空間が再び歪む。
景色が変わる。
雷虎に襲われた村の上空。
焼け焦げた屋根。
崩れた柵。
まだ修復途中の建物。
その中心で、腕を組んで立っている魔人が一人。
ゾイルだった。
サタンは手をかざす。
空間が裂ける。
「おい、ゾイル」
ゾイルが顔を上げる。
「……サタン様?」
言葉の途中で、サタンの手がゾイルをつかみ引き寄せた。
景色が歪む。
「うおっ」
次の瞬間、ゾイルは空中に立っていた。
下には白く凍った大地。
地獄の入り口があるクシャナ山脈の麓。
雷子の襲撃した村から少し離れた場所だ。
横にはサタンとその肩に乗ったタマキン、アスカント。
ゾイルは一瞬黙り、状況を理解すると小さく頷いた。
「なるほど。次の仕事ですね」
アスカントが軽く一礼する。
アスカントはサタンを見る。
「では開門を」
サタンが頷く。
「俺の魔力を使え」
アスカントの目がわずかに光る。
「助かります。実は転移魔法を使ったせいで魔力が足りなかったのです」
悪魔は翼を広げ、両手を空へ掲げた。
低く、滑らかな呪文が紡がれる。
言葉は、魔人でも人間でもない言語係体。
空間そのものを撫でるような響き。
サタンの周囲の魔力が、渦のように吸い上げられていく。
凍った大地の一部が歪む。
世界が、裂ける。
黒い亀裂がゆっくりと広がった。
その奥は光がない。
「開きました」
アスカントが静かに言う。
「地獄への門です」
サタンは躊躇なく踏み出した。
ゾイルが続く。
タマはサタンの肩に乗ったままだ。
境界を越えた瞬間。
空気が変わる。
温度が跳ね上がった。
「熱い」
焦げた岩の匂い。
鉄のような重い空気。
遠くから響く、地鳴りのような低い音。
空は赤黒く、雲の代わりに煙が流れている。
大地は黒い岩で覆われ、ところどころに溶岩の光が走っていた。




