91 ワイン ブレックファースト
焚き火の香ばしい匂い。
湯気の立つ鍋。
焼けるパンの香り。
「できましたよー!」
エリスが元気よく声を上げた。
長いテーブルの上には、村人たちが総出で用意した朝食が並んでいる。
焼きたてのパン。
温かい野菜スープ。
炒めた根菜。
干し肉のソテー。
そして中央には――
巨大な皿。
そこに乗っているのは、昨日仕留めた雷虎の肉だった。
ただし。
かなり……ワイルドな見た目である。
勇者の少女が皿を覗き込み、顔をしかめた。
「……これ、食べ物?」
エリスが少し困った顔をする。
「えっと……頑張って調理はしました」
「でも元が肉食の魔獣なので……」
ゾイルが鼻をひくつかせる。
「くっさ」
「めちゃくちゃ獣臭いぞ」
タマが尻尾を膨らませた。
「ニャッ!? 毛繕いしない仲間みたいな匂いするニャ!!」
その隣で、巨大な影が静かに座っている。
蟲の王アバドン。
彼は皿をじっと見ていた。
初対面の面々は少し緊張している。
だが。
一人だけ普通だった。
サタンである。
「アバドン、たくさん食べてくれ」
サタンは椅子に座りながら、普通の声で言った。
ゾイルが小声で言う。
「いやいやいや。なんで普通に食事の席にいるんですか!?」
「こらこら、失礼なこと言わない。客人だよ」
「少しだけだが、世話になる」
アバドンは律義に挨拶をする。
「お、肉か。いいじゃん」
「サタン様、これ絶対まずいやつですよ。見た目からして硬そうですし」
サタンはもうナイフを持っていた。
「いただきまーす」
ザクッ。
ナイフが肉の表面で止まる。
……入るまでに少し時間がかかった。
ギギギギ。
ゾイルが顔をしかめる。
「ほらぁ!硬い!」
「俺の刀持ってきていい?」
「汚いですよ。サタン」
勇者はたしなめる。
サタンはどうにか切り分け、口に入れた。
モグモグ……モグモグモグモグモグ。グニィィ。
一同が見守る。
沈黙。
勇者が恐る恐る聞いた。
「……どう?」
サタンは少し考えた。
「うん……まずいな」
エリスがショックを受けた。
「ええ!?」
ゾイルが爆笑した。
「ですよね!!」
サタンは続けた。
「臭みすごいし……硬いし、普通に料理としては大失敗だな」
エリスが落ち込みかける。
「す、すみません……虎の料理初めてでして……」
だが。
その直後。
サタンの身体から、バチバチッと雷が走った。
空気が震える。
ゾイルが目を丸くする。
「……え?」
サタンが軽く手を握る。
魔力が膨れ上がる。
まるで堰を切ったように。
勇者が驚いた。
「ちょっと!?」
「今、魔力――」
アバドンが低い声で言う。
「……上限突破」
サタンが笑う。
「おお、これすごいな」
ゾイルが叫ぶ。
「まずいのに!?……まずいのに強化されてる!?」
サタンはさらに一口食べた。
モグ。
「うん、やっぱまずい」
だが魔力はさらに膨れる。
勇者が頭を抱える。
ゾイルが皿を見る。
「いやでもこれ食うの勇気いるぞ」
タマが匂いを嗅いで、
「ニャ……タマは遠慮するニャ」
アバドンが皿をじっと見ている。
サタンが言った。
「アバドン食う?」
アバドンは首を振る。
「雷虎の肉など食えぬ」
ゾイルが笑う。
「ですよね!」
勇者は普通のパンをかじっていた。
「私はこっちでいい……」
エリスが安心したようにスープをよそう。
「パンとスープは自信あります!」
勇者が飲んで目を輝かせた。
「おいしい!」
ゾイルも頷く。
「これは普通にうまい」
村人の魔人たちも笑顔で食べている。
つい昨日まで飢えていた人々だ。
今は、腹いっぱい食べている。
笑い声が広がる。
「これでこそ、食事だな」
その小さな村で。
サタンは雷虎の肉をもぐもぐ噛み続けながら言った
飢餓から解放された村人の魔人たちも、久しぶりの満腹を味わいながら食卓を囲んでいる。
その中で、アバドンは静かに食事を終えていた。
皿には、ほとんど手を付けられていない料理。
蟲の王は、食べ物を必要としない。ある時を除いては。
サタンが雷虎の肉を噛みながら言った。
「もう行くのか?」
アバドンはゆっくり立ち上がる。
巨大な外骨格が、わずかに軋んだ。
「……うむ」
低い声。
「ベルゼブブ」
その名が出た瞬間、ゾイルが眉をひそめた。
「……あー、そりゃ来ますよね」
アバドンが続ける。
「奴の配下を何人か潰した。報復があるだろう」
勇者がパンを持ったまま固まる。
「やっぱりそうなるの?」
アバドンは頷いた。
「可能性高い故に帰る」
サタンは普通の口調で言った。
「まあ、そうだな。国ほったらかしはまずいか」
アバドンは少しだけサタンを見る。
「また会おう」
サタンが軽く手を振る。
「おう、そのうちな」
アバドンは空間転移を使い、自国に帰った。
その数瞬後、村人の魔人たちが扉を開いた。
一人の年配の魔人が顔をのぞかせる。
「……失礼します。アバドン様は……お帰りになってしまいましたか……」
サタンが視線を向ける。
村人は、少し緊張した様子で一本の瓶を差し出した。
深い紫色のガラス。
古い封蝋。
「これは……私たちの村のワインです」
ラベルを見たエリスは声をあげる。
「えっそれって……」
村人は少し誇らしげに言った。
「この村の最高傑作です」
ゾイルが瓶を覗き込む。
「ほう、いい酒のようだな」
村人は頭を下げた。
「約200年前のワインでして。もう残るはこの一本のみ。あなた方のおかげで、私たちは生き延びました。どうか……受け取ってください」
「では、この酒が本当に最後なのか」
「村にあるものとしては、そうなります」
村長はそこで、少しだけ顔を上げた
「ただ、希望がないわけではありません」
「ほう?」
「村の外れ、断崖の葡萄棚には、魔鳥たちが世話をしているワインブドウが残っております。あれならば、苗木を分けてもらうことも、実を譲ってもらうこともできるやもしれません」
「魔鳥と取引するのか?」
「はい。もともと我らの村は、魔鳥たちと細々と取引をしておりました。こちらからは果物を渡し、向こうからはワインブドウを受け取る。そうして酒造りを続けていたのです」
なるほど。
村でブドウを育てていたとはいえ、それだけではなかったということか。
魔鳥たちの葡萄棚が、いわばこの土地の命綱だったわけだ。
「だが、今の村に取引できる果物はない、ということか」
俺がそう言うと、村長は苦笑した。
「お察しの通りです。腹を満たすものさえ足りなかった我らに、魔鳥と取引するだけの果物など残っておりませぬ」
そこで、俺は少し考える。
森には果物がある。
村人たちだけでは採り尽くせないほどに。
ならば、使い道はある。
「なら、こうしよう」
俺が口を開くと、村長だけでなく、周囲の村人たちまで顔を上げた。
「俺の森から果物を出す。それをお前たちが魔鳥へ渡せ」
「サタン様の森から……?」
「ああ。お前たちはその果物を使って魔鳥と取引し、ブドウと苗木を手に入れる。そして村でまたワインを造れ」
村長はしばらく呆然としていた。
やがて、震える声で尋ねてくる。
「そ、それでは……我らは、再び酒を造れるのですか?」
「造れるようにするんだ」
俺は、村長の前に置かれた酒瓶を見た。
「その代わり、完成したワインの一部は俺の砦へ送れ。もちろん、ただで寄越せとは言わない。こちらからは果物を出す。お前たちは魔鳥と取引し、酒を造る。完成品を砦へ納める。悪くない話だろう?」
村長は大きく目を見開いた。
次の瞬間、その場にいた村人たちの間から、ざわめきが広がる。
「また……ワインを造れるのか」
「ブドウ畑も戻せるのか?」
「魔鳥と取引が再開できれば……」
それは、酒の話だけではなかった。
村が、もう一度生きていけるという話だった。
村長は、深く、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ……。この村は、必ずや最高のワインを造り、サタン様の砦へお届けいたします」
「期待している」
「ならば、この一本はありがたく受け取る」
村人たちが息を呑む。
「そして次は、最後の一本ではなく、始まりの一本にしろ」
一瞬の沈黙。
その後、宴の場に大きな歓声が上がった。
「もちろんですとも!あなた様方は命の恩人。さらにインドラ様と取引できるなんて後ろ盾を得たようなものです」
だが、村人たちは嬉しそうに笑った。
この夜、一本の古びたワインは、村の終わりの象徴ではなくなった。
サタンの森と村、そして魔鳥たちを結ぶ、新たな交易の始まりとなったのだ。
「次のブドウが実るまであと数か月、ワインにするまで数年はかかりますが、我々の秘術でブドウをワインにする加工の過程は1か月に短縮できます。しばしお待ちくださいませ」
「よろしく頼む」
交渉もまとまったことで、サタンは上機嫌で封を開ける。
コルクが軽く鳴った。
香りが広がる。
エリスが目を輝かせる。
「すごい……」
「香りが全然違う」
香りをかいだ途端、まるで幻影魔法のように目の前に花畑や泉が広がったような情景が見える。
グラスに注がれる。色味は深い赤。
サタンはそのまま一口飲んだ。
ごくり。
一瞬。
静寂。
そして空気が揺れた。
ドォン。
目に見えない圧力が拠点に広がる。
勇者が目を見開く。
「ちょっと!?」
ゾイルが叫ぶ。
「またですか!?」
ゾイルには神力が見えなかったはず。
常人には見えないはずの神力。
それでも目に見えるほどの濃度がサタンの体からあふれている。
サタンの身体から、淡い光が溢れる。
神力。
だが、今までとは違う。溢れた力が、さらに外へ広がろうとする。
サタンが瓶を見た。
「うわ」
「これすごいな」
勇者が頭を抱える。
「まずい肉で魔力突破、ワインで神力突破。この朝ごはん何なんですか!?」
ゾイルが笑い出した。
「後世まで語り継がれる朝食だな」
サタンはワインをもう一口飲む。
「うまい」




