90 蟲の王 アバドン
歓喜の声が村を満たしたあと、夜は思っていたより静かに訪れた。
雷虎の骸は村の外れへ運ばれ、毛皮をはぎ取られている。
サタンへの献上品として送るためだ。
焼け焦げた広場には大きな焚き火がいくつも灯された。
飢えに苦しんでいた村人たちは、ようやく分け合える食事を前に、泣きながら椀を抱えていた。
笑う者もいた。
何度も「生きてる」と口にする者もいた。
だが、その輪の外には、どうしても明るくなりきれない静けさがあった。
亡くなった者たちのための場所だ。
剣士の亡骸の一部。
飢えの果てに子を喪い、自らも果てた父親。
そして、この村で名もなく倒れていった者たち。
粗末でも、今できる限り丁寧に整えられた亡骸の前に、村人たちは一人ずつ膝をついた。
さっきまで歓声を上げていた者たちも、今は皆、頭を垂れている。
勇者も槍を傍らに置き、静かに手を組んだ。
ゾイルは剣を地に突き立て、その前で目を閉じる。
エリスは火の番をしながら、いつになく無言だった。
タマでさえ、しっぽを丸めて黙っている。
サタンは少し離れた場所に立ち、黙祷の輪を見つめていた。
夜風が吹く。
焚き火の火が揺れ、橙の光が死者たちの顔を照らす。
誰かのすすり泣きが聞こえた。
それでも、もうあの絶望の泣き声ではない。
死を悼み、生を抱きしめるための涙だった。
やがて村長格の老人が、震える声で言った。
「……皆、頭を上げてくれ」
ゆっくりと顔が上がる。
その目は赤く腫れ、けれど確かに前を向いていた。
「失ったものは、戻らん。だが、忘れもせん」
「この者たちが繋いだ命で、わしらは明日を生きる」
誰かがまた泣いた。
その涙を責める者はいなかった。
勇者は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
守れた命がある。
守れなかった命もある。
その両方を抱えたまま進まねばならないのだと、焚き火の向こうの夜が教えている気がした。
サタンがふと空を見上げる。
もう雷雲はない。
だが、胸の奥に残る引っかかりは消えていなかった。
雷虎は倒した。
それでも、終わった気がしない。
その予感は、翌朝に形を持って現れた。
朝の空は、拍子抜けするほど穏やかだった。
焼け跡の残る村に、薄い光が差し込んでいる。
村人たちは壊れた柵を直し、水を運び、炊き出しの準備をし、ようやく“明日”のために動き始めていた。
傷ついた者たちの顔にも、昨日よりは血の気が戻っている。
勇者が井戸のそばで手を洗っていたときだった。
村の外れに張られた結界が、低く震えた。
昨日雷虎を倒した後に、全種族対象を拒絶するように新たに張りなおした結界。
びり、と空気が裂けるような音。
魔法で破ったわけではない。
歩いていたら破けたような気軽さで結界を破壊した。
村人たちの動きが止まる。
ゾイルが即座に剣へ手をかけ、サタンも顔を上げた。
黒い影が立っていた。
最初は人影に見えた。
だが近づくにつれ、それが“人”の枠から大きく外れていることが分かる。
3mを超す巨体。
全身を覆うのは、黒曜石めいた艶を持つ甲殻の鎧。
そこへ古い王権を思わせる金の装飾が、棘のように絡みついている。
頭には枝分かれした冠のような角。
眼窩の奥では、灼けた炉心のような赤が静かに灯る。
胸の中央には、核のような赤金の輝きが脈打っていた。
片手には長槍。
背からは裂けた闇そのもののような外套が垂れ、腰の下からは節くれた長い尾が、甲高い音もなく地を擦っている。
蟲を王にまで押し上げたものだけが持つ、異形の威厳。
醜悪ではない。
むしろ不気味なほど荘厳だった。
村人たちがざわめく。
「あの方は……」
「上級魔族……いや……」
サタンは目を細めた。
見覚えがある。
かつて見たとき、この魔族はここまでのオーラは無かった。
覇気も、圧も、ここまで濃くはなかった。
その異形は、立ち止まると、ゆっくりと槍を下げた。
「警戒は当然だ」
声は低く、金属が擦れるような響きを含んでいた。
だが敵意はない。
「我が名は、蟲の王、アバドン」
村人たちの空気がさらに硬くなる。
勇者も槍を手にしたまま、だがすぐには構えなかった。
サタンは一歩前へ出る。
「ベルゼブブに力の半分を封じられていたらしいな」
アバドンの赤い眼が、わずかに細まる。
「……ああ。だが取り戻した」
「我はベルゼブブの拠点を襲い、地中深くの地獄に封ぜられていた力を奪還した」
さらりと言ったが、その内容は重い。
アバドンは隠し立てなく答えた。
「さて……雷虎を俺の代わりに打ち取ったのは、どいつだ?お前か?」
アバドンの槍先がサタンに向く。
ゾイルは剣を抜きはしなかったが、柄を握る手に力を込めた。
「それをわざわざ問に来たのか?」
「違う」
アバドンはそこで初めて、村人たちの方を向いた。
その視線を受けた村人たちは、思わず身を強張らせる。
ざわめきが止まる。
わずかに頭を下げた。
蟲の王が。
上級魔族が。
「……この村を救ったことへの感謝を、まず述べるべきかもしれぬ」
「だが、その前に謝罪せねばならぬ」
低い声が、朝の冷たい空気へ落ちる。
「我が張った結界は、雷虎を弱らせ、かつ他の地へ移らせぬためのものであった」
「本来ならば、つなぎとめるため、奴を狩るための檻となるはずだった」
勇者が息を呑む。
村人たちの顔が強張る。
アバドンは続けた。
「だが結果として、その結界はこの村をも閉じ込めた」
「飢えを招き、逃げ場を奪い、悲劇を深めた」
「我の思惑は、お前たちを守るどころか、苦しめる結果となった」
しん、と静まり返る。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
昨日、結界が檻だったと知った。
そのせいで多くが飢え、死んだ。
目の前にいるこの魔族は、それを認めたのだ。
「……すまなかった」
その一言に、村人たちは逆にどう反応していいか分からなくなる。
怒鳴る者もいない。
泣く者もいない。
ただ、あまりに重すぎる事実がそこに落ちただけだった。
その沈黙を破ったのは、サタンだった。
「二人で話がしたい」
アバドンが顔を上げる。
赤い眼がサタンを射抜く。
「構わぬ」
サタンは村人たちを振り返った。
「少し離れる」
勇者は一瞬ためらったが、やがて頷いた。
「……気をつけてください」
「ああ大丈夫だ」
サタンはそれだけ言うと、村外れの壊れた石塀の向こうまで歩いていった。
アバドンも無言でそれに従う。
十分に人目から離れたところで、サタンは立ち止まる。
「で?」
アバドンは槍を地に立て、静かに答えを待つようだった。
だがサタンは遠慮しなかった。
「思惑はそれだけじゃないだろ」
空気が止まる。
「雷虎を弱らせ、他所へ行かせないため? それだけなら、あんなふうに村を囮同然に放置する必要はない……お前は見ていた。じゃないと、事細かな詳細を知るはずもない。雷虎が負の感情に執着することを知ってて……村がどうなるか分かった上で、あえて結界を維持した」
アバドンの赤い眼がわずかに陰る。
「……鋭いな」
「当たり前だ」
サタンは吐き捨てた。
「お前は狩るつもりでいたんじゃない。探っていたんだ」
しばらくの沈黙のあと、アバドンは認めた。
「その通りだ」
朝の風が、焼け跡の灰をさらう。
「雷虎は一匹ではない」
その言葉に、サタンの視線が鋭くなる。
「奴らは個体でありながら、同時に現象でもある」
「深い地獄の雷脈から生まれ落ちる、雷の性質を持った擬似精霊……あるいは精霊に最も近い魔獣だ」
「土地の電気、怒り、恐怖、喪失。そうした“強い感情”を核にして発生し、やがて獣の形を取り、地表に沸き上がる」
サタンは黙って聞いている。
「一体を殺しても、終わりではない」
アバドンの声は低い。
「雷脈が残り、条件が揃えば、いずれまた別の個体、もしくは複数体生まれる」
「だから村を囮にしたのか」
「囮、という言葉は正しい」
アバドンは否定しなかった。
「奴が何を喰い、どのように増幅し、何を核として再生するのかを見極める必要があった。十年前、俺も雷虎を倒したことがある。相当深手を負ったがな……しかし奴は数年と経たず復活した。誰も別の個体だと思わなかっただろうな」
アバドンは甲殻の鎧の下の古傷を見せる。
「雷虎の発生源を断たねば、いずれ群れとなり、被害はこの村だけでは済まなくなる。それどころかこの大陸の危機となるだろう」
サタンの眉間に皺が寄る。
「それで、村ひとつを実験台にした」
「……ああ」
その返答は、言い訳を含まないぶん余計に重かった。
アバドンは遠く、村の方を見た。
まだ壊れた柵を直す音が聞こえる。
生き延びた者たちの声が、かすかに朝の風へ混じっていた。
「我は王だ」
「ゆえに、一つを切り捨てて千を救う判断もする……だが、その判断が正しかったとしても、苦しんだ者の痛みが消えるわけではない」
サタンは鼻で笑った。
「ずいぶん殊勝なことを言うじゃないか、蟲の王」
「殊勝である必要がある」
アバドンは静かに言った。
「我の結界が悲劇を生んだのは事実だ。そこから目を逸らせば、王ですらなくなる」
サタンはしばらく何も言わなかった。
やがて、短く問う。
「まだ隠してることは?」
「雷脈の位置は絞れている」
アバドンの眼が赤く灯る。
「そして、その根にベルゼブブも関わっている可能性が高い。俺の力の半身を見つけた際に雷脈の一部も見かけた」
「奴は雷虎そのものを使役はできぬ。だが、発生を誘導し、被害を他者へ押しつける程度のことはする」
サタンの表情が、冷たく締まる。
「なるほど。ようやく全部つながった」
「全部ではない」
アバドンは首を振る。
「ゆえに、話しに来た。謝罪のためでもあり、共闘を提案するためでもある」
サタンは片眉を上げた。
「共闘?」
「雷虎は今後も現れる」
「雷脈を絶たぬ限りな」
「そしてベルゼブブがその裏で糸を引いているなら、我一人でも、お前たちだけでも足りぬ」
風が吹く。
「現に俺は力を取り戻したが、今の俺でもベルゼブブの力には及ばない」
「お前でも届かない……か……」
サタンはアバドンの力量を見定める。
技術や魔法は分からないが、魔力量だけで言えば、サタンの二倍はある。
神力の有無を差し引いてもアバドンが強いだろう。
ルシファーの存在は考慮に入れていない。
「……おまえ。賢者の石集めていたよな?」
「ああ、賢者の石は門を開くカギとなるからな」
「門?」
「異界へと繋ぐ門だよ。賢者の石があれば天界・地獄・魔界を行き来する門のカギを作ることが出来る」
「お前はそれを集め、どうするつもりだ?」
「もう必要な量は集まったさ。ベルゼの居城の地下の地獄門を通り、封印された力を取り戻した。これからはベルゼブブとの因縁を終わらせた後、天界に喧嘩を売る」
「そういうことであれば、我と同盟を結ぶか?」
ルシファーは勝手に口を開き、思い切ったことを提案する。
(いいのか?こんなやつ信用して?)
(いずれ、天界とは喧嘩する運命だ。味方は多い方がいい)
「それでこそ、お前と話した価値がある」
二人はしばし、朝の村を見た。
生き残った者たちが、壊れたものを直し始めている。
悲劇の上に、それでも今日を積もうとしている。
サタンは踵を返す。
「行くぞ、蟲の王」
アバドンは槍を引き抜き、静かに立ち上がった。
その黒金の巨体、異形の王はなお禍々しい。
「……朝食の時間だ」




