89 厄災の安堵
勇者がふらつきながら立ち上がる。
ゾイルも剣を支えに呼吸を整える。
タマは毛を逆立てたまま、低く唸った。
エリスはその場に座り込みながらも、薄く笑う。
「……やった」
怪物は、もう立ち上がらなかった。
しばし、誰も動けなかった。
さっきまで、空を引き裂くように吠えていた雷はもうない。
耳の奥にこびりついていた轟音も、嘘のように遠ざかっている。
残っているのは、焼けた土の臭いと、荒い息遣いだけだった。
誰かが呟いた。
村の魔人のひとりだった。
痩せ細った顔を煤で汚し、それでも雷虎の倒れた先を見つめている。
返事はなかった。
誰もまだ、信じきれなかったのだ。
あれほどの怪物が。
村を縛り、飢えさせ、奪い続けてきた災厄が。
本当に終わったのかと。
その沈黙を破ったのは、タマだった。
「……終わったにゃ」
いつもの気の抜けた調子に近い、けれど震えの混じった声。
そのひと言が、張り詰めていた空気を断ち切った
サタンは雷虎に近づき、死んだことを確認する。
「倒したぞ!!」
村人の一人が膝から崩れ落ちた。
次いで、別の誰かが泣いた。
それは悲鳴ではなく、堪えきれず漏れた嗚咽だった。
「死んだ……」
「雷虎が……」
「終わった……終わったぞ……!」
声が重なる。
信じるように、確かめるように、何度も何度も。
やがてひとりの老人が、震える足で立ち上がり、空へ拳を突き上げた。
「終わったぞおおおおっ!」
その叫びは、長い長い絶望の底から噴き上がったものだった。
たちまち村人たちのあいだから歓声が上がる。
「やった!」
「勝った!」
「助かった……!」
「生き残った……!」
「もう、もうおびえなくていいんだ……!」
泣きながら叫ぶ者。
地面を叩いて笑う者。
隣の者と抱き合い、肩を震わせる者。
立っていられず、その場に座り込んだまま天を仰ぐ者。
歓喜の声は、最初はばらばらだった。
けれどすぐにひとつの波になって、村じゅうへ広がっていく。
勇者はその声を聞いて、ようやく全身の力が抜けた。
槍を取り落としかけ、慌てて抱え込む。
膝が笑う。
胸の奥に詰まっていたものが溢れそうになり、唇を噛んだ。
「……勝てた」
小さく漏れたその声は、自分に言い聞かせるようだった。
サタンが肩越しに振り返る。
その口元には、疲労と煤にまみれながらも、確かな笑みが浮かんでいた。
「お前はまだ弱いが……確かに勇者だった」
勇者は思わず笑いかけ、けれど次の瞬間、目尻が熱くなる。
嬉しいのに、苦しい。
救えた命があるのに、救えなかった命もある。
その両方が胸の中でぶつかり合って、言葉にならない。
エリスがその場に座ったまま、ふっと息を吐く。
「ほんと……無茶ばっかり……」
だがその声も、どこか明るかった。
ゾイルは剣を地面に突き立て、目を閉じる。
短く、深く息を吐くと、ようやく肩の力を抜いた。
「……討ったか」
それだけの言葉だった。
だが、その低い声の奥には、確かな安堵が滲んでいた。
タマはしっぽをふくらませたまま、胸を張る。
「すごかったにゃ? すごかったにゃ?」
「はい、すごかったです」
勇者が泣き笑いのまま頷くと、タマは得意げに喉を鳴らした。
村人たちが、少しずつ彼らのほうへ集まってくる。
恐る恐る、しかし今度は怯えからではなく、歓喜に押されるように。
ひとりの女魔人が勇者の前で膝をついた。
その頬は涙で濡れ、声は震えていた。
「ありがとうございます……」
「ありがとうございます……!」
ひとりが言えば、次々と声が続く。
「助けてくれて……!」
「生きられる……これで、生きられる……!」
「もう飢えなくていいんだ……!」
誰かがサタンの手を握る。
誰かがエリスに頭を下げる。
誰かがゾイルの前で声を詰まらせる。
タマを抱きしめようとして引っかかれ、泣きながら笑う者までいた。
歓声と涙と笑い声が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
けれどそれは醜い混乱ではなかった。
生き延びた者たちがようやく吐き出した、希望の音だった。
やがて、村の中央から誰かが叫ぶ。
「火を起こせ!」
「食べ物を集めろ!」
「生き残った者を呼べ!」
「もう終わったんだ、皆に知らせろ!」
その声に、あちこちから応答が返る。
「水を運べ!」
「けが人をこっちへ!」
「倉を開けろ!」
「今日は食うぞ……今日は、皆で食うんだ……!」
その言葉に、村人たちのあいだからまた大きな歓声が上がった。
食う。
ただそれだけの言葉が、これほど眩しく響くことがあるのかと、勇者は一瞬呆然とする。
飢えに苦しみ、奪われ続けたこの村にとって、それは生きることそのものだった。
サタンはそんな村人たちを見回し、静かに目を細める。
雷虎は負の感情を喰らった。
だが今ここに満ちているのは、あの怪物が決して喰えないものだった。
喜び。
安堵。
生き延びた者たちが分け合う、明日のための声。
遠くで、誰かが泣きながら笑った。
別の誰かが、それに応えて大声で笑う。
その笑いは次々と広がって、やがて村じゅうを満たしていく。
勇者はその真ん中で、槍を抱いたままそっと空を見上げた。
もう、雷は落ちてこない。
黒雲の切れ間から、かすかな光が差し込んでいた。
「さて雷虎の魂をいただくとするか」
サタンは雷虎が死亡確認したときに引き抜いていた魂を一気に飲み込んだ。




