89 雷虎 最終戦
雷虎がゆっくりと顔を上げた。
その双眸には怒りと、初めて知る痛みへの激しい殺意が渦巻いている。
再び雷が集まり始める。
まだ死んでいない。
まだ戦いは終わっていない。
それでも、もう最初とは違った。
怪物は無傷ではない。
無敵でもない。
連携が噛み合えば届く。崩せる。殺せる。
勇者は槍を支えに立ち上がり、仲間たちの前へ半歩出た。
守るために。
そして今度は、勝つために。
「次で決めます」
サタンが剣を肩に乗せ、にやりと笑う。
「ああ。ようやく狩りの時間だ」
雷虎が咆哮する。
それに応じるように、五人は同時に構えた。
戦場はまだ、彼らの足元で熱く軋んでいた。稲妻が走った。
雷虎は、倒れ伏した父親の亡骸の前で足を止めた。
傷だらけの巨体が、ゆっくりとその首をもたげる。
胸元から肩にかけてサタンたちが穿った深い裂傷とやけどの跡。
肩から脇腹にかけては焼け焦げ、片前脚にも明らかな損傷が残っている。
満身創痍。
それでも、その双眸に宿る光はむしろ濃くなっていた。
「……まさか」
勇者の声が掠れる。
雷虎は低く喉を鳴らし、父親の肉体へ牙を立てた。
ぐしゃり、と。
「ああぁ……」
「なんてこと……」
村の魔人から嘆きが聞こえる。
湿った音が、戦場の静寂を汚した。
村人たちが息を呑む。
誰かが嗚咽を漏らす。
だが雷虎は構わない。
肉を噛み裂き、骨を砕き、血を啜る。
その様は獣の捕食にしか見えない。
だが、次の瞬間……異変が起きた。
父親の亡骸から、黒い靄のようなものが立ち上る。
飢え。
喪失。
守れなかった悔恨。
子を亡くした親の絶望が、目に見えるほど濃く肉へ染みついていたのだ。
それを、雷虎は喰っていた。
「肉じゃない……」
エリスが青ざめた顔で呟く。
「あいつ、感情を……」
雷虎の全身を、青白い雷が再び包む。
先ほど破られたはずの雷膜が、今度はさらに濃く、さらに禍々しく再構築されていく。
空気が震え、地面を走る火花が何倍にも増す。
その場にいるだけで、皮膚の表面が裂けそうなほどの圧だった。
「悲しみを喰ってるのか……!」
サタンが吐き捨てる。
結界が張っているこの村に執着していた理由。
それは結界内で渦巻く負の感情が、雷虎にとって濃密で芳醇な香りを放っていたからだ。
雷虎が咆哮する。
その声には先ほどまでの獣じみた怒りだけでなく、喰らった絶望に酔うような歓喜が混じっていた。
強い。
先ほどより、確実に雷の出力は上がっている。
だが……。
ゾイルが眼を細めた。
「……いや、違う」
「何がですか!」
勇者が槍を構えたまま問う。
「治ってはいない」
ゾイルは短く言う。
「傷はそのままだ。筋も骨も戻っていない。あれは回復ではない、魔力増幅だ」
実際、雷虎の動きには明確な鈍りがあった。
立ち上がるたび、片前脚に体重を乗せきれていない。
跳躍前の溜めも長くなっている。
電撃は増している。
だが肉体は、もう悲鳴を上げていた。
サタンの目が、戦場の端にある設備へ向く。
鉱山の精製施設。
巨大な二本の金属軌条。
高圧導線。
鉱材を射出・加工するための、半ば壊れた大型設備。
最初に見たときから気づいてはいた。
構造だけなら使えると。
だが無理だった。
雷虎が速すぎた。
照準の固定されたこんな鈍重な代物では、影すら捉えられない。
電力も足りない。
一発撃てば、設備そのものが耐えられず砕ける。
だが、今なら。
サタンの口元がわずかに歪む。
「勇者、ゾイル、タマ!」
三人が同時に振り向く。
「あいつを三十秒止めろ」
勇者が目を見開く。
「三十秒……!?」
「今なら撃てる」
その一言で、サタンの視線の先を全員が悟った。
ゾイルが低く息を吐く。
「……なるほど。さっき見ていたのはあれか」
「最初は無理だと思った……」
サタンはすでに駆け出していた。
「雷虎のあの速度じゃ的にならない。だが今は違う。雷は強くなったが、足は死んでる。今の俺たちにあの雷の障壁を貫ける攻撃は難しい」
エリスが壁にもたれたまま顔を上げる。
魔力はほとんど空だ。
戦線復帰は不可能。
それでもその目にはまだ火があった。
「設備の補助は私がやる……! 導線くらいなら繋げる!」
「上等!」
雷虎が吠え、強化された雷膜のまま前進する。
一歩ごとに大地が焼け、細い落雷が無数に周囲へ突き刺さる。
速度は落ちた。
だが一撃の圧は明らかに増している。
まともに受ければ終わる。
勇者が前に出た。
「私が受けます!」
槍を地へ打ち込み、神力を展開する。
薄金の防壁が仲間たちの前に立ち上がる。
雷虎の放電を伴う体当たり。
降り注ぐ散雷を受け止めた。
一瞬で表面にヒビが走る。
強い。
重い。
先ほどとは比べものにならない。
神力がごっそり削られ、膝が沈みそうになる。
それでも彼女は叫ぶ。
「ここは通しません!」
雷虎が真正面から突っ込んでくる。
もう以前のような神速ではない。
だが、重い。
鈍った代わりに、押し潰すような殺意が前面に出ていた。
その側面へ、黒い裂け目が走る。
「界断」
ゾイルの斬撃が空間そのものを裂き、雷虎の踏み込み先をずらす。
雷虎は足場を失い、強引に体勢を捻って着地した。
遅い。
「左へ寄せる!」
ゾイルが叫ぶ。
「サタン様の射線に乗せるぞ!」
「分かったにゃ!」
タマの幻影が戦場へ広がる。
今度は数ではなく質だった。
雷虎の視界の先、やや左側に、逃げ遅れた村人たちの幻を見せる。
泣き崩れる女。
這いずる老人。
守るように立つ勇者の影。
雷虎の本能がそちらへ向く。
負の感情を喰う怪物にとって、そこは餌場のように見えたのだ。
「よそ見なんて、余裕ね!」
勇者がスキをついて雷虎の体に矛先を突き立てる。
神力を槍に集め、雷虎の胸元へ突きを放つ。
雷の防御膜に阻まれ、深くは届かない。
突きの衝撃で弾かれた体表の高温の火花が勇者を襲う。
熱い。
弾かれる。
耐えろ。
今は倒すためではなく、向きを変えさせるための一撃だ。
雷虎が勇者へ爪を振るう。
その軌道へ、ゾイルが再び裂け目を走らせた。
爪撃は空を切り、地面を抉るだけで終わる。
「まだだ、もっと引きつけろ!」
その叫びの間にも、サタンは設備へ飛びついていた。
村の端で朽ちていた設備。
もしものことを考え、ルシファーの手伝いもあり整備していた。
古びた軌条。
焼け焦げた導線。
ひび割れた基部。
本来ならとっくに役目を終えた機械だ。
だが構造は生きている。
まともな兵器には程遠い。
だが雷を流せば、坑道そのものが砲身となり世界で一番危険な砲になる。
「エリス!」
「分かってるわよ……!」
エリスがふらつく足で指先に魔力を集め熱で導線を溶接し、その端をサタンに渡す。
「一発よ……! 本当に一発で終わらせなさい……!」
サタンは片手を導線へ叩きつけた。
電気魔法が流れ込む。
だが足りない。
「もっとだ……!」
雷虎が咆哮する。
その全身を巡る雷が、怒りに応じてさらに膨れ上がった。
周囲の電場が狂い、設備の金属骨格までもが唸り始める。
サタンは笑った。
「そうだ。そのまま寄越せ、化け物!ゾイル!ここへ奴の電流を!」
“白虎天雷”
最初より、はるかに大きな雷だ。
「お前の意思と剣は俺が引き継ぐ!」
ゾイルは雷虎から村人を守り、死後に食われた剣士の顔と技を思い出す。
“界門空裂”
巨大な空間の裂け目は、雷を吸い込み、サタンの指定した場所に送り届ける。
雷虎の放つ膨大な電荷を設備側へ誘導する。
軌条が青白く発光する。
金属が悲鳴を上げ、赤熱し、今にも溶けそうだった。
「まだかにゃ!?もう限界ニャ!」
タマの幻が消えかかる。
感覚の鋭い雷虎は、もう欺瞞に気づき始めていた。
それでも最後の一押しとして、サタンの姿を真正面に幻出させる。
雷虎の視線が止まる。
その一瞬、勇者が防壁ごと体当たりするように突っ込んだ。
「止まれぇぇッ!」
薄金の障壁が雷虎の前脚へぶつかり、完全には止めきれずとも、その踏み込みを鈍らせる。
神力が砕け、勇者の身体が吹き飛びかける。
だがゾイルの裂け目がその衝撃の一部を逃がし、致命にはさせない。
「今です、サタン!」
軌条が吼えた。
サタンは射出台に置かれた金属杭へ手をかけ、最後の電流を叩き込む。
自分の雷。
雷虎の雷。
村の設備。
すべてを無理やり一つへ束ねる。
電磁の射出機。
強い電流と磁場の力を使って弾を加速させる装置に作り変えたのだ。
照準は、鈍った怪物の胸。
「喰った感情ごと、消し飛べ」
二本の金属軌条のあいだで、鋼杭が雷を喰って唸った。
稲妻を導力に変え、鋼の弾体を一直線に叩き出す。
発射。
世界が一直線に白く裂けた。
轟音ではない。
音が遅れてくるほどの、純粋な破壊の線だった。
音速の何倍ものスピードで射出された金属杭は空気を焼き、雷膜を正面から突き破り、そのまま雷虎の巨体を貫通する。
防御膜が砕ける。
骨が折れる。
肉が裂ける。
後方の地面ごと抉り飛ばしながら、怪物の身体が大きく宙へ浮いた。
次の瞬間、雷虎は遥か後方へ吹き飛ばされ、轟音とともに地面へ叩きつけられる。
大地が割れ、土煙が壁のように立ち上がった。
そして、遅れて設備が壊れた。
軌条が中央から折れ、導線が焼き切れ、制御盤が爆ぜる。
金属片と火花が四方へ飛び散り、装置そのものが崩れ落ちる。
一発限り。
その制約通り、もう二度と使えない。
サタンは崩れた設備の上で、雷虎の落ちた先を睨んだ。
土煙の向こう。
そこに雷を失った巨体が横たわっていた。




