親友という名の境界線
あの日から、学校の空気は冷え切ったままだった。
葵は私を露骨に無視するようなことはしなかったけれど、私たちが交わす言葉は「業務連絡」に近いものばかりになっていた。授業のノートの貸し借りや、宿題の範囲の確認。交わす視線はどこか遠く、かつてのように笑い合うことは一度もなかった。
何に対してそこまで葵が怒っているのか、私にはその理由が本当に分からなかった。でも、こちらから「どうして怒っているの?」と聞いてしまえば、今あるか細い繋がりさえもぷつりと切れて、二人の間の溝がさらに修復不能になってしまうような気がした。だから私は、何も聞けないまま、触れられないまま、ただ気まずい距離を保つことしかできなかった。
隣に座っているのに、何百キロも離れているような距離感。
私は毎日のように胸を締め付けられ、放課後のチャイムが鳴るたびに逃げ出したくなるような衝動に駆られていた。
そんなある日の放課後。
私は鞄を肩にかけ、一人で重い足取りのまま昇降口へと向かっていた。上履きを下駄箱に入れ、外履きに履き替えようとしたその時。
「美咲ちゃん!」
背後から、少し焦ったような大声が響いた。
振り返ると、ジャージ姿の千夏が階段を駆け下りてくるところだった。額には汗がにじみ、部活の途中で抜けてきたのが一目でわかった。
「千夏? どうしたの、部活は……」
「ちょっと抜けてきた! ね、美咲ちゃん、今ちょっといい?」
千夏の表情は、普段のからかうような明るいものではなく、どこか真剣で、焦りを孕んでいた。
「うん、いいけど……」と答える間もなく、千夏は私の腕を掴み、校舎の裏手にある、普段は誰も来ない渡り廊下の陰へと私を引っ張っていった。
西日が強く差し込み、アスファルトの熱気がむっと立ち上る。
千夏は息を整えながら、まっすぐに私を見つめた。
「単刀直入に聞くね。美咲ちゃん、姉ちゃんと喧嘩したでしょ」
心臓がどくりと跳ねた。
「……喧嘩、っていうか」
言葉を濁す私に、千夏はもどかしそうに髪をかきあげた。
「姉ちゃん、家ではいつも通り普通に明るく振る舞ってるんだよ。お母さんも全然気づいてない。でもさ……私が美咲ちゃんの名前を出したり、学校の話にちょっと触れたりしただけで、急に黙り込んだり、あからさまに動揺するんだよね。本人は『なんでもない、疲れてるだけ』って無理やり笑うんだけど……絶対に何か隠してる」
「え……」
葵が、家でそこまで無理をして平気を装っているなんて知らなかった。
学校でも、家でも、いつも通りの仮面を被って、一人でボロボロになりながら耐えていたのだろうか。
「私……本当に、何が原因かわからなくて」
私は俯き、制服のスカートをぎゅっと握りしめた。
「一昨日、すみれちゃんからクッキーをもらったの。そしたら葵が急に『流されやすい』とか『がっかりした』って怒り出して……。お礼を言っただけなのに、どうしてあんなに怒るのか……」
そこまで言った時、千夏が深いため息をついた。
呆れたような、だけどどこか悲しそうなため息だった。
「美咲ちゃんって、本当に昔からお姉ちゃんの気持ちに気づかないよね」
「え……?」
顔を上げると、千夏は痛々しいものを見るような目で私を見ていた。
「気づいてないフリをしてるのかと思ってたけど……本当に、これっぽっちも分かってなかったんだ」
「何、を……? 気持ちって、どういうこと?」
私の問いに、千夏は腕を組み、渡り廊下の柱に背中を預けた。
「お姉ちゃんにとって、美咲ちゃんが他の人――特に、自分以外の女の子と仲良くすることが、どういう意味か考えたことある?」
「友達だから、寂しいとか……?」
「そんなわけないじゃん!」
千夏が少し声を荒らげた。
「ただの友達が、他の子からクッキーもらったくらいで、ご飯も喉を通らなくなるまで落ち込むと思う? ……昔からそうだよ。美咲ちゃんが他のクラスの子と遊びに行ったり、男子から告白されたりするたび、姉ちゃん、家でわかりやすく機嫌悪くなってたんだから」
頭の後ろを強く殴られたような感覚がした。
言葉が出ない。千夏の言葉が、頭の中で何度も反響する。
「お姉ちゃんは、美咲ちゃんの隣に『一番近い存在』としていたかったの。だから、自分の気持ちに蓋をして、ずっと『親友』のポジションを守り続けてきたんだよ。美咲ちゃんが困らないように、女の子同士の恋愛なんてありえないって、自分に言い聞かせながら」
「そんな……嘘、でしょ……?」
「嘘じゃない。だって、私が一番近くで見てきたんだもん。美咲ちゃんに『一年生ちゃんにデート誘われた』って言われた日の夜、姉ちゃん、部屋でどんな顔してたか知ってる?……美咲ちゃんが嫌がらないように、背中を押してあげる親友のフリをして、裏でボロボロになってたんだよ」
過去の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
すみれちゃんから告白された日、「恋心って美咲が思っているより大切なものなの」と怒った葵の顔。
下北沢へ行く前、「美咲は自分を卑下しすぎだよ」と、どこか悲しそうに私を見つめていた葵の瞳。
デートの報告を求めてきたメッセージの裏にあった、彼女の本当の胸の内。
すべてが、ひとつの線で繋がっていく。
葵は、私のことを――。
「姉ちゃんは弱虫だから、自分からは絶対に言わないよ。『親友』っていう関係さえ壊れなければ、それでいいって思ってるから。でもさ……小川が本気で美咲ちゃんを奪いにきたから、もう限界なんだよ。自分の気持ちを隠し通せなくなって、あんなトゲのあること言っちゃったんだよ」
千夏は私の肩を優しく叩いた。
「美咲ちゃんが姉ちゃんの気持ちにどう応えるかは、美咲ちゃん次第。でも……姉ちゃんがどういう想いで美咲ちゃんの隣にいたか、少しは考えてあげて。このままだと、二人とも壊れちゃうよ」
千夏はそれだけ言うと、「じゃ、部活戻るから」と、背を向けて走っていってしまった。
一人残された渡り廊下で、私は立ち尽くしていた。
差し込む西日が、異様に熱く私の肌を焦がす。
葵の私に対する言葉。
『美咲の「好き」とか「気持ち」って、その程度で簡単に変わる軽いものだったんだね』
あれは、私に対する怒りではなく、自分の気持ちを美咲に伝えられないまま、他の女の子に流されていく私を見て募った、悲痛な叫びだったのだ。
「葵……」
その名前を口にすると、胸の奥が張り裂けそうなほど痛んだ。
私は、彼女の隣にいることが当たり前すぎて、彼女がどれだけの痛みを堪えてそこに立っていたのか、何一つ知らなかったのだ。
同時に、私の心の中に、これまで感じたことのない泥のような混乱が広がっていく。
葵が私に向けていたのは、親友としての「友情」ではなく、「恋」だった。
じゃあ、私が葵に向けていた、この誰よりも特別で「大好き」な気持ちは、一体何だったのだろう。
ただの親友に対する親愛なのか、それとも、私も――。
考えれば考えるほど、「恋」と「友情」の境界線がごっちゃになって、分からなくなっていく。
小川に突然告白された時とは、まったく違う。
長年積み重ねてきた『当たり前』という足場が、根底から崩れていくような恐怖。
もし私の気持ちが「恋」なのだとしたら、私はこれまで、どれほど都合よく彼女に甘えていたのだろう。
そして、もしこれが「友情」でしかないのだとしたら――私は、どうやって彼女の隣に戻ればいいのだろう。
西日に照らされた渡り廊下で、私は自分の心さえ見失ったまま、ただ立ち尽くしていた。




