冷たい距離
その日の夜、私はベッドに横たわっても、ほとんど眠ることができなかった。
目を閉じると、葵の冷え切った、蔑むような視線が暗闇の中に浮かび上がってくる。
『美咲の「好き」とか「気持ち」って、その程度で簡単に変わる軽いものだったんだね。がっかりした』
脳内でリピートされるその言葉は、じわじわと胸の奥に毒のように染み込んでいった。
(どうして……? 私はただ、すみれちゃんが一生懸命クッキーを焼いてきてくれたから、それを受け取っただけなのに……)
理由がわからない。葵がそこまで怒る理由も、あんなに傷ついたような、悲しそうな顔をした理由も。
鞄の中にしまわれたままのクッキーの袋は、冷たい学習机の上で静かに夜を明かしていた。
翌朝、私はひどく重い身体を引きずるようにして登校した。
教室に入り、自分の席にカバンを置く。その隣――いつもの席に、葵はすでに座っていた。
いつもなら、「おはよ、美咲。今日も眠そうだね」とからかうように声をかけてくれるはずの彼女は、私が隣に座っても、机の上の英単語帳から視線を外さなかった。
「……葵、おはよう」
意を決して声をかけると、葵は一瞬だけ肩を震わせ、それからゆっくりとこちらを向いた。
その表情は、驚くほど穏やかで、電気が通っていないかのように――他人行儀だった。
「あ、美咲。おはよう」
「あの、昨日のことなんだけど……」
昨日の葵の態度について、何が怒らせてしまったのか聞こうとした。しかし、葵は私の言葉を遮るように、すっと立ち上がった。
「ごめん、日直の仕事で職員室行かなきゃいけないの。また後でね」
「え、あ、うん……」
引き止める暇もなく、葵は小走りで教室を出て行ってしまった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
避けている、わけではないのかもしれない。声のトーンにも棘はなかった。だけど、明らかに私を踏み込ませないための見えない壁が、彼女の周りにそびえ立っているのがわかった。
その予感は、一日を通して的中することになった。
授業が終わるたび、葵は別の友達の席へ移動したり、用事を作って教室を出たりした。
昼休み、いつものようにお弁当を持って彼女の席へ向かおうとすると、葵はすでに他のクラスメイト数人と楽しそうに談笑しながら、教室の後ろでお弁当を広げていた。
「葵……」と声をかけることすらできず、私は自分の席で、一人ぽつんとお弁当を食べた。
いつも食べているはずの卵焼きの味が、今日はまったくしなかった。
(私、何か本当に悪いことしたのかな……)
机に突っ伏したまま、溜息をつく。
葵とこんなに距離ができたのは、私たちが友達になってから初めてのことだった。
何をしていても、授業を聞いていても、頭の片隅で葵のあの冷たい視線がちらついて、呼吸が苦しくなる。
放課後。
葵はホームルームが終わるや否や、誰よりも早くカバンを掴んで教室を出て行ってしまった。部活に行くわけでもないのに、逃げるように。
私は机に肘をついたまま、ため息をついた。
「美咲先輩っ!」
その時、廊下から聞き慣れた元気な声が聞こえた。
顔を上げると、ジャージ姿のすみれちゃんが教室の扉から顔を出していた。いつも通りの、高いポニーテールと、きらきらと輝く真っ直ぐな瞳。
だけど、私の顔を見た瞬間、すみれちゃんの表情がすっと曇った。
「美咲先輩……? どうしたんですか、そんなに青い顔して。どこか体調悪いんですか?」
「え? あ、いや……別に、何でもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
慌てて笑顔を作ろうとしたけれど、うまく筋肉が動かない。
すみれちゃんは教室に入ってくると、私の机の前に立ち、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「嘘です。先輩、全然何でもなくない顔してます。目が泳いでますし、肩がしょんぼりしてます」
「しょんぼりって何さ……」
「とにかく! 今日は部活が自主練だけなので、私はもう上がれます! 先輩、少しお付き合いください!」
「え、でも私、今日はそういう気分じゃ……」
「ダメです! 行きましょう!」
すみれちゃんは私の返事を待たずに、私の手をぐっと握りしめた。
その手の熱さと強引さに、私は断る気力を失って、されるがままに立ち上がった。
連れてこられたのは、下北沢の少し路地に入ったところにある、こじんまりとしたカフェだった。
店内には静かなジャズが流れ、木漏れ日のような温かい照明が灯っている。
すみれちゃんは私の前に温かいココアとケーキを並べると、自分も目の前に座って、じっと私を見つめた。
「先輩、何か嫌なことでもありましたか? 私でよければ、何でも聞きますよ」
「……ありがとう。でも、本当に大したことじゃないんだ。ただの、友達とのすれ違いっていうか……」
そう言った瞬間、私の頭に、鞄の中に入ったままのすみれちゃんのクッキーのことが浮かんだ。
昨日、これをもらった時の自分の緩んだ顔を、葵は「すごく優しかった」と言って怒ったのだ。
だとしたら、やっぱり原因は……。
「友達……宮原先輩、ですか?」
すみれちゃんが、少し声を落として尋ねてきた。
「……え?」
「昨日、私がクッキーを渡しに行った時、宮原先輩もいましたよね。私が帰った後、何かあったんですか?」
すみれちゃんの真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は言葉に詰まった。
「何もないよ」と嘘をつこうとしたけれど、彼女の真剣な表情を前にして、それはできなかった。
「……ちょっと、葵に冷たいことを言われちゃって。私が流されやすいとか、がっかりした、とか」
私は俯きながら、ぽつりぽつりと話した。
「そんなに怒ることかなって思うんだけど……でも、葵がそこまで言うってことは、私が本当に悪いことしちゃったのかなって。葵はいつも正しいし、私のことを一番よく分かってくれてるから……」
話しているうちに、視界がじんわりと滲んでくるのがわかった。
親友を失うかもしれないという恐怖が、思っていた以上に私の心を支配していた。
コトッ、とテーブルが小さく鳴った。
見上げると、すみれちゃんが自分のココアのカップを握りしめ、悔しそうな、それでいてとても複雑な表情で私を見ていた。
「宮原先輩が正しいかどうかは、私にはわかりません。でも……美咲先輩をこんなに泣きそうな顔にさせるなんて、酷いです」
「すみれちゃん……」
「私、美咲先輩の楽しそうな顔や、困った顔が好きです。昨日、クッキーを受け取ってくれた時の先輩の顔、すごく嬉しかったです。……宮原先輩が何に怒っているのかはわからないですけど、私は、先輩が悪いことをしたなんて絶対に思いません!」
すみれちゃんは立ち上がらんばかりの勢いで、私の手をテーブル越しに握った。
「だから、そんなに自分を責めないでください。私が……私が、先輩を笑顔にしますから」
真っ直ぐで、混じり気のない言葉。
その熱が、冷え切っていた私の心にじんわりと染み込んでいくのを感じた。
すみれちゃんの言葉は、いつだって驚くほど直球で、私の頑固な卑下を力技でこじ開けていく。
「……ありがと。少し、楽になったかも」
私は小さく微笑んだ。それは、今日初めて作った、本物の笑顔だった。
すみれちゃんはそれを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「よかったです! ほら、ココア冷めちゃう前に飲んでください!」
「うん」
温かいココアを口に含むと、優しい甘さが喉を通り抜けていった。
すみれちゃんのおかげで、少しだけ呼吸ができるようになった気がする。
だけど、カフェを出て、小田急線に乗って家に帰る途中。
一人になった私の胸には、やはり葵のあの冷たい瞳が、棘のように刺さったままだった。
すみれちゃんの優しさに救われるたび、背徳感のような、そして葵への申し訳なさのような感情が、胸の奥で複雑に渦巻いていく。
私たちは、このまま壊れてしまうのだろうか。
夜の電車の窓に映る自分の顔は、やっぱりどこか寂しげだった。




