綻び
放課後。夕方の低い光が、誰もいなくなった教室の床に長い影を落としていた。
私は机の上に散らばった教科書を鞄に押し込みながら、隣の席でノートをまとめている親友に声をかけた。
「葵、今日この後シモキタ寄る? 新しい古着屋ができたって聞いたんだけど」
「んー、今日はパスかな。宿題のプリント終わらせないと、先生にまたお小言言われちゃうし」
葵はいつものように呆れたように笑いながら、シャープペンシルを筆箱に片付けた。その穏やかな笑顔は、私にとって当たり前で、何よりも安心できる日常の象徴だった。
「美咲はいいよね、推薦狙いだからって余裕しゃくしゃくで」
「余裕なんてないってば。これでも内心はヒヤヒヤだよ」
軽い冗談を言い合いながら、カバンを肩にかける。その時、教室の引き戸がガラガラと勢いよく音を立てて開いた。
「美咲先輩!」
弾むような声と同時に、高いポニーテールが揺れる。部活のジャージ姿のすみれが、少し息を切らしながら教室に入ってきた。その手には、可愛らしくラッピングされた小さな袋が握られている。
「すみれちゃん? どうしたの、部活は?」
「これからなんですけど、その前にこれ、先輩に渡したくて!」
すみれは私の目の前まで小走りでやってくると、両手でその袋を差し出してきた。少し赤くなった頬と、真っ直ぐな瞳がこちらを見つめている。
「昨日、家で作ったんです。クッキー、もしよければ食べてください!」
「え……また? こないだももらったし、私ばっかり食べてたら太っちゃうじゃん」
戸惑いつつも、甘い香りが漂う袋を見つめると、すみれは慌てて首を振った。
「違います! 先輩のために、お砂糖控えめでカロリーも調節したんですから! 先輩のことだけを考えて作った特別なクッキーです!」
「あ、ありがとう……」
一生懸命に力説する姿がなんだか小動物のようで、私は思わず頬が緩むのを感じた。受け取った袋の温かさが、そのまま胸の奥にじんわりと広がっていく。
「じゃあ、私、練習行ってきます! あ、それと宮原、部活遅れるから先行くね!」
すみれは私の隣に立っていた葵に向かって小さく手を振った。
「うん、小川、また後でね」
葵はいつも通りの優しい笑みを浮かべて手を振り返す。
「美咲先輩、また明日! クッキーの感想、楽しみにしてます!」
すみれはそう言い残すと、嵐のように嬉しそうに廊下へと駆けていった。
静まり返った教室に、すみれが去った後の甘い香りと、まだ温かいクッキーの袋だけが残っていた。私はそれを大事そうに鞄にしまいながら、小さく息を吐く。
「……元気だよね、相変わらず」
そう言って隣の葵を振り返った瞬間、私の身体は凍りついた。
葵は帰り支度をする手を完全に止め、私をじっと見つめていた。その瞳には、いつも私に向けてくれる温かな光が一切なかった。冷淡で、どこか突き放すような、見たこともない鋭い視線がそこにあった。
「葵……?」
不安になって声をかけると、葵はゆっくりとカバンのファスナーを閉め、冷たい声で切り出した。
「随分簡単に流されるんだね、美咲」
「え……?」
「女の子同士なんてあり得ないとか、告白されて困るとか、あんなに言ってたのに。美咲って本当に押しに弱いよね。……ううん、流されやすいのにも程があるよ」
葵の言葉には、あからさまなトゲがあった。冷え冷えとした声音が、夕暮れの教室の空気を一瞬で凍らせていく。
「な、何言ってるの……? ただ、すみれちゃんが一生懸命だから、お礼を言っただけで……」
「ただのお礼?」
葵は小さく鼻で笑った。その表情は、私を軽蔑しているようでもあり、同時に何かを耐え忍んでいるようにも見えた。
「さっき、あの子を見る美咲の顔、すごく優しかったよ。……美咲の『好き』とか『気持ち』って、その程度で簡単に変わる軽いものだったんだね。がっかりした」
「っ、葵、どうしてそんなこと……!」
胸を直接ナイフで抉られたような衝撃が走り、私は言葉を失った。最も信頼し、自分のすべてを理解してくれていると思っていた親友からの、理不尽で冷徹な拒絶。目の前にいるのが本当に私の知っている葵なのか、分からなくなって視界がブレる。
葵は私の動揺を見て、一瞬だけ、ハッとしたように痛みに歪んだ表情を浮かべた。傷つけた自分自身を深く嫌悪するような、悲痛な横顔。
けれど、彼女はそれ以上私と目を合わせようとはしなかった。
「……ごめん。今の、ちょっとからかいすぎた。私、用事あるから先に帰るね」
早口でそう言い捨てると、葵は私に背を向け、逃げるように教室を出て行ってしまった。
ガラガラ、と引き戸が閉まる音が、寂しく教室に響き渡る。
一人取り残された夕暮れの教室で、私は立ち尽くしていた。鞄の中のクッキーはまだ温かいはずなのに、私の手先は驚くほど冷たくなっていた。
なぜ葵があんなことを言ったのか、私にはまったく分からなかった。ただ、私たちの間にできた決定的な亀裂の深さだけが、冷たい風のように胸の奥を吹き抜けていった。




