放課後の体育館
「ねえ美咲、千夏が今年からバスケ部に入ったんだけどさ。送られてきた写真に、例の一年生ちゃんも一緒に写っててさ」
昼休み、葵がスマホの画面を私に向けてきた。画面には、体育館の端でバスケットボールを抱えてピースサインをする、見慣れた高いポニーテールの少女――小川すみれと、その肩に嬉しそうに腕を回すショートカットの元気そうな女の子が写っていた。
「……すみれちゃんと、千夏?」
「そうそう。千夏と小川さん、同じクラスで部活も一緒なんだって。でね、千夏が言ってたんだけどさ」
千夏は葵の妹で、私にとっても妹のような存在だ。昔からよく懐いてくれていて、普段から葵と私と千夏の三人でよく遊びに行くことも多い、気心の知れた間柄である。
葵はいたずらっぽく微笑みながら、声を潜めた。
「小川さん、バスケは初心者らしいんだけど、毎日部活が終わった後も残って一人で居残り練習してるんだって。シュートが全然入らないからって、足の皮がむけるまで走り込んでるらしいよ」
「……へえ」
興味のないふりをして、お弁当の卵焼きを口に運ぶ。ベースの低音がまだ耳に残るような気がする中、あの真っ直ぐな瞳で必死にボールを追いかけている彼女の姿が、なんとなく想像できてしまった。
放課後。いつもなら真っ直ぐ帰るか、下北沢へ向かうはずの私の足は、なぜか校舎の裏手にある体育館へと向いていた。
キュッ、キュッとバッシュが床をこする乾いた音と、重鈍なボールのバウンド音が響いている。
開いた扉の隙間から、そっと中を覗き込んだ。
放課後の体育館は、他の部活の声で騒がしいはずだったが、すでに全体練習は終わっているのか、コートの片隅だけが使われていた。
「……よし、もう一回!」
息を切らしながらボールを拾い上げ、ゴールに向かって走るすみれの姿があった。髪は乱れ、額には汗が光っている。
レイアップシュートを放つが、ボールはリングに嫌われてカツンと弾かれた。
「うぅ……やっぱりまだ安定しないなぁ」
悔しそうに膝に手をつき、荒い息を整えるすみれ。その表情は、私の前で見せる無邪気な笑顔とはまるで違っていた。真剣で、どこか鬼気迫るほどの熱を帯びている。
「小川、本当に頑張り屋だよ」
突然、背後から声をかけられて心臓が跳ね上がった。
振り返ると、ジャージ姿で首にタオルをかけた女の子が立っていた。葵の妹の千夏だ。家でもよく顔を合わせるから、私にとってもすっかり馴染みのある顔だ。
「千夏じゃん。……お疲れ」
「あ、美咲ちゃん! もしかして、小川を見に来たんですか? 相変わらず姉ちゃんから情報回るのが早いですねー」
「いや、葵がうるさいからちょっと様子を見に来ただけ。……で、すみれちゃんは毎日あんな感じなの?」
「そうなんですよ。小川、運動神経は良いんですけどバスケは初めてで。でもね、『先輩にカッコいいところ見せたい』って、毎日居残りでシュート練習してるんです。可愛いですよねー」
千夏は私の顔を覗き込みながら、からかうようにニシシと笑った。さすが葵の妹だけあって、人をからかう時の表情が姉そっくりだ。
「あ、小川ー! 美咲ちゃんが来てくれたよー!」
「えっ、ちょ、千夏!?」
止める間もなく、千夏は大声ですみれを呼んだ。
すみれが驚いたようにこちらを振り向き、私と目が合う。その瞬間、彼女の顔が一気に赤くなった。
「み、美咲先輩……!? どうしてここに……っ!?」
ボールを抱えたまま、すみれが小走りでこちらにやってくる。息を切らし、汗を拭いながら、恥ずかしそうに視線を泳がせている。
「いや、その……葵が、あんまり頑張りすぎるなって言うから、ちょっと様子を見に来ただけだよ」
「美咲ちゃん、小川のことが心配でわざわざ様子見にきてくれたんですよー」
千夏がからかうように言うと、すみれは「え……?」と動きを止めた。その大きな瞳が、千夏と私を交互に行ったり来たりする。
「ち、千夏……美咲先輩のこと、美咲ちゃんって呼んでるの……?」
「え? ああ、そうだよ。うちは親同士も仲良くて、昔から家族ぐるみの付き合いだからさ」
千夏があっけらかんと答えると、すみれは少しだけ安心したように息を吐いた。だが、すぐに私の方をじっと見つめて、不満そうに唇を尖らせる。
「……ずるい。私なんて、まだ『先輩』って付けないと呼べないのに……」
蚊の鳴くような声で、ぼそりと呟かれた言葉が、私の耳に直接届いて心臓をくすぐった。
私は慌てて視線を逸らし、とっさにポケットから自販機で買ったばかりの冷たいスポーツドリンクを取り出して、すみれに押し付けるように差し出した。
「ほ、ほら、これ! ちゃんと水分補給しなよ」
「えっ……! あ、ありがとうございます!」
すみれは嬉しそうにドリンクを受け取ると、大事そうに胸に抱きしめた。
「あの……見苦しいところ、見せちゃいましたよね。シュート、全然入らなくて」
少し肩を落とす姿が、耳の垂れた犬のようで、なんだか放っておけない。
「そんなことないよ。……一生懸命やってる姿、カッコよかった」
「ひゃっ!? カッコ、いい……ですか!?」
すみれは顔を真っ赤にしてフリーズした。
その様子がおかしくて、私は少し笑ってから、彼女の頭をそっと撫でた。
「また見に来るから。だから、怪我しない程度にしなよ」
「は、はいっ! 私、死ぬ気で頑張ります!」
「死なないでよ」
ツッコミを入れながらも、私は彼女の熱に引っ張られるように、自分の胸が温かくなっているのを感じていた。
次回へ続く……




