特別な『好き』
ライブハウスを出ると、下北沢の街はすっかり夜の帳が下りていた。
耳の奥で、まだベースの低音が微かにジリジリと響いている。
「ぷはぁーっ! すっごく楽しかったです、美咲先輩!」
すみれはライブハウスを出た瞬間、両手を大きく広げて深呼吸をした。
夜風にポニーテールが揺れる。
「声大きいってば。ほら、もう駅の方行くよ」
「あ、待ってください! 先輩、少しお腹空きませんか? 私、あそこにあるクレープが食べたいです!」
すみれが指差したのは、路地の角にある小さなクレープ屋だった。甘い香りが漂ってきて、確かに私の胃袋を刺激する。
「……一個だけね。半分こするなら、いいよ」
「えっ、半分こですか!? それって、いわゆる間接……っ!?」
「嫌なら一人で全部食べなよ」
「嫌じゃないです! 喜んで半分こします!」
顔を真っ赤にして慌てるすみれがおかしくて、私は少しだけ笑ってしまった。
クレープを買い、駅前の少し開けたベンチに二人で座る。チョコバナナクレープを一口かじると、冷たい夜風の中で甘さが体に染み渡るようだった。
「はい、すみれちゃんの番」
「あ、ありがとうございます……いただきます」
すみれは緊張した面持ちで、私が食べた反対側の端をそっとかじった。その様子がなんだか小動物みたいで、見ていて飽きない。
「……先輩」
「ん?」
「今日は、本当にありがとうございました。先輩の好きな世界を、少しだけ見せてくれた気がして、すごく嬉しかったです」
クレープの包み紙を握りしめながら、すみれが私をじっと見つめてくる。街灯の光を反射するその瞳は、昼間と変わらず真っ直ぐで、眩しかった。
「……大した世界じゃないよ。ただの私の暇つぶしだし」
照れ隠しに視線をそらす。それでも、胸の奥が少しだけくすぐったいような、不思議な温かさを感じていた。
「そんなことないです。私にとって、先輩の『好き』は特別なものです。……あの、また、連れてきてくれますか?」
「………」
いつもなら「めんどくさい」と一蹴するはずの言葉が、喉の奥でつっかえる。
「……まあ、気が向いたらね」
「本当ですか! やったぁ!」
嬉しそうに飛び跳ねるすみれを見て、私は心の中で、自分もこの時間を楽しみにしているのだと認めざるを得なかった。
帰り道の小田急線。隣でうとうとしているすみれの肩に、そっと自分の肩が触れる。
ポケットの中でスマホが震えた。葵からのメッセージだ。
『デートどうだった? お母さんに報告しなさい!』
画面を見つめながら、私は小さく息を吐く。
まだ彼女の「好き」のすべてを信じられたわけじゃない。でも、このモヤモヤの答えを、もう少しだけ探してみたいと思っている自分に気がついた。
『まあ、悪くなかったよ』
そう返信して、スマホをポケットにしまった。




