花咲くこころ
日曜日の朝、私は鏡の前で三十分も突っ立っていた。
クローゼットの前に服が四着ほど放り出されている。
どれもこれもピンとこない。というより、そもそも私は服を選ぶという行為をほとんどしたことがなかった。
学校に行く時、鏡なんてほとんど見ない。制服を着て、寝癖を手で押さえて、それで終わり。
自分の見た目に気を使ったところで、どうせ何も変わらないと思っていた。
なのに今日は、袖の長さが気になって仕方ない。
「……何やってんだろ、私」
口に出してみたけれど、手は止まらなかった。
結局、いちばん最初に手に取ったシャツをもう一度着直して、それで決めた。
出かける前、スマホを開いた。
トーク画面の上のほうに、葵の名前がある。
何を着ていけばいいか聞きたかった。こういう時、いつも答えを持っているのは葵だった。
『ねえ、今日さ』
そこまで打って、指が止まった。
しばらく画面を見つめてから、私は一文字ずつ消していった。
打っては消して、また打っては消した。
――時間、もらってもいい?
あの日の葵の声が耳の奥で鳴る。
今、私が葵に頼っていいことと、頼ってはいけないことがある。
今日のことは、間違いなく後者だ。
私は結局、何も送らずにアプリを閉じた。
書いては消すのがどれだけしんどいか、初めて分かった気がした。
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小田急線に揺られながら、窓の外を眺めていた。
空は高く、雲が薄く刷いたように伸びている。
車内は日曜の昼らしく、家族連れや買い物帰りの人でほどよく混んでいた。
膝の上のスマホを、意味もなく何度も点けたり消したりしている。
心臓が、朝からずっとうるさい。
下北沢の改札を出ると、彼女はもう来ていた。
高いポニーテール。制服じゃない、白いブラウスと紺のスカート。
初めて見る私服姿だった。
「……すみれちゃん」
声をかけると、彼女はぱっと顔を上げた。
「あ、美咲先輩。おはようございます」
いつもなら、ここで大きく手を振って駆け寄ってくるはずだった。
でも今日の彼女は、その場から一歩も動かずに、ぎこちなく笑っただけだった。
「今日、早いね」
「はい。……一時間くらい前から、います」
「一時間?」
「落ち着かなくて」
彼女は俯いて、スカートの裾を握った。
その手の甲が、少し赤くなっている。ずっと外にいたのだろう。
「あの、先輩」
「うん」
「話って、なんですか」
声が、微かに震えていた。
顔を上げた彼女の目を見て、私はようやく気づいた。
この子は、断られると思ってここに立っている。
一週間、ずっとそう思って過ごしていたのだ。
体育館で全部を打ち明けて、私に全部を知られて、それでも「話したいことがある」としか言われなかった。そんなの、悪いほうにしか考えられるはずがない。
その一時間分の冷たい手を見ていたら、胸が詰まった。
「……ごめん」
「え?」
「メッセージ、あれだけじゃ怖いよね。もっとちゃんと書けばよかった」
彼女は目を丸くして、それから慌てて首を振った。
「い、いえ! 大丈夫です! 私、覚悟はできてますから!」
「覚悟って」
「どんなことでも、ちゃんと聞きます。……先輩の言うことなら、なんでも」
その健気さが、余計に痛かった。
私は、彼女の手を取りたくなる衝動を、なんとか堪えた。
順番がある。ちゃんと言葉にしてからだ。
「行きたいところがあるんだ。付き合ってくれる?」
「……はい」
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歩き出してすぐ、彼女は私の行き先に気づいたようだった。
「先輩。これ、もしかして」
「うん」
見慣れた路地を抜けて、あの建物の前に立つ。
重い扉。長いエスカレーター。薄暗い空間と、チューニングの音。
初めて二人でここに来たのは、そんなに昔のことじゃない。
なのに、ずいぶん遠い日のことのように思える。
「日曜の昼にもやってるんだよ、ここ」
「知らなかったです」
チケットを渡してカウンターに向かう。
「はい、こっち」
差し出したコップを受け取って、彼女が首をかしげた。
「先輩、ジンジャーエールなんですね」
「……なんとなく」
「へえ? コーラじゃないんだ」
「うるさい」
彼女が、少しだけ笑った。今日初めての、いつもの顔だった。
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照明が落ちて、ステージにスポットライトが灯る。
一曲目のイントロが、ドラムのカウントとともに弾け飛んだ。
爆音が体を貫く。腹の底が震える。
隣を見ると、彼女は目を大きく見開いて、ステージを食い入るように見ていた。
あの日と同じだ。
落ち着きなくあちこちを見回して、音が鳴るたびに肩を揺らして、全身で「楽しい」と言っている。
三曲目が終わった後、彼女が私の耳元に顔を寄せてきた。
「先輩! やっぱりここ、すごいです!」
「うん」
「なんか、体の中がぜんぶ洗われるっていうか、埃が飛んでいくみたいな感じがします!」
真剣な顔で、そんなことを言う。
私は、思わず吹き出した。
「埃って何よ。掃除機じゃないんだから」
「えっ! 今のけっこう良い表現だと思ったのに!」
「どうかしてるよ、ほんと」
言った瞬間だった。
彼女の動きが、止まった。
大きな目が、さらに大きく見開かれる。
爆音の中で、その顔だけがゆっくりに見えた。
あの日と同じ言葉を、私は同じ調子で言った。
わざとだった。
彼女の唇が、震えながら開いた。
「……せんぱい」
「なに」
「今の、わざとですか」
「さあ」
「わざとですよね」
「知らない」
彼女の目に、みるみる涙が溜まっていく。
それでも彼女は、泣きながら笑っていた。ぐしゃぐしゃの、あの不器用な笑い方で。
私は前を向いた。まっすぐ見ていられなかった。
四曲目のイントロが鳴り出す。
隣で彼女が、袖で乱暴に目元を拭っているのが、視界の端に見えていた。
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外に出ると、下北沢の街はもう夜になりかけていた。
夜風が、火照った頬に気持ちいい。
耳の奥に、まだベースの低音が残っている。
「先輩」
「ん」
「お腹、空きませんか」
彼女がおずおずとそう言うので、私は笑ってしまった。
「クレープでしょ」
「……はい」
路地の角の、小さなクレープ屋。
チョコバナナを一つ買って、駅前のベンチに二人で座った。
「はい」
包み紙を差し出すと、彼女は目を瞬かせた。
「え、半分こじゃないんですか」
「今日はすみれちゃんの。私、別のとこ食べたいから」
「え、じゃあもう一個買っ……」
「いいから」
半分こをしなかったのは、意味があった。
分け合うのは、もう今日じゃない。今日は、私が渡す日だ。
彼女は不思議そうな顔をしながらも、大事そうにクレープを抱えた。
しばらく、二人とも黙っていた。
駅から流れ出てくる人の波。どこかの店から漏れるギターの音。
生ぬるい風が、ポニーテールの毛先を揺らしている。
「……すみれちゃん」
「はい」
私は、膝の上で拳を握った。
「この前、私が聞いたよね。どうして私だったの、って」
彼女の肩が、微かに跳ねた。
「……はい」
「あの時、すみれちゃんはちゃんと答えてくれた。自分の一番怖いところまで見せて、震えながら答えてくれた」
「……」
「だから今日は、私が答える番」
彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。
その目には、期待と、それを上回る恐れが、混ざり合って揺れていた。
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「私さ、ずっと分かんなかったんだ」
夜の風の中で、私はゆっくり話し始めた。
「話したこともない後輩に、いきなり好きって言われて。なんで私なんだろうって、そればっかり考えてた。私の何を知ってるんだろう、その好きは本物なのかなって」
「……はい」
「失礼だよね。今考えると、ほんとに失礼」
私は自嘲した。
「でもね。今なら分かるんだ。すみれちゃんが答えてくれたから」
彼女が、じっと私を見ている。
「すみれちゃんは、私の後ろ姿をお姉ちゃんと間違えて見つけた。……それって、私のことなんて何も知らないってことだよね」
「……そう、です」
「うん。何も知らなかった。でもさ、すみれちゃん、最初に言ったの覚えてる?」
「え……」
「デートしてくださいって、教室まで来た時。私が『君のこと全然知らない』って言ったら、なんて返したか」
彼女の唇が、小さく動いた。
「……知らないからこそ、です」
「そう」
私は、そこで初めて彼女の目をまっすぐに見た。
「知らないからこそ、知りたいって言ったんだよ、すみれちゃんは。あの時の私は、なんて無茶苦茶なこと言う子だろうって思ってた。でも、あれが全部の答えだったんだ」
風が吹いて、街路樹の葉がざわりと鳴った。
「始まりなんて、なんだっていいんだよ。後ろ姿でも、勘違いでも、面影でも。……そこから相手をちゃんと知って、それでも好きなら、それは本物なんだよ」
彼女の目から、涙が一粒こぼれた。
「私の『好き』も、たぶん同じ」
「……先輩の?」
「うん」
私は、少しだけ声が震えるのを感じた。
「私、いつすみれちゃんを好きになったか、分かるんだ」
彼女が息を呑む。
「初めてここに来た日。ライブハウスから出てきた時にはもう、この子といるの楽しいなって思ってた。……あの日だよ」
彼女の表情が、ゆっくりと崩れていく。
「あの、それって」
「うん。すみれちゃんが私を好きになったのと、同じ日」
彼女の口から、掠れた音が漏れた。
「同じ場所で、たぶん同じ時間に、お互い落ちてたんだよ。私は、すみれちゃんが『強くなれる気がする』とか変なこと言うから笑っちゃって、その笑ってる自分に気づいて、あれ、楽しいなって思って。……すみれちゃんは、その笑われたのが嬉しかったんだよね」
「……はい」
彼女はもう、声を殺すことすらできていなかった。
「ずっとお互い気づかないで、二人とも同じことで怖がってたんだよ。私の好きは偽物じゃないかって」
私はポケットから、折り畳んだ紙切れを取り出した。
「……なんですか、それ」
「笑わないでよ」
私はそれを広げた。ノートの切れ端に、下手な字でメモが書いてある。
「今週さ、いろいろ調べたんだ」
「調べた?」
「うん。花言葉ってやつ」
彼女が、きょとんとした顔をした。
「私、こういうの一回もやったことないんだよ。授業も寝てるし、宿題も葵に見せてもらってたし。何かをちゃんと調べるとか、人生で初めてかもしんない」
指先が震えて、紙がかさかさ鳴った。
「すみれの花の花言葉、知ってる?」
「……いえ」
「『誠実』だって」
彼女の呼吸が、止まった。
「笑っちゃうよね。私、あの日からずっと、この子の好きは本物かなって疑ってたのに。名前に最初から書いてあったんだよ」
私は紙を畳んで、ポケットに戻した。
そして、彼女のほうへ体ごと向き直った。
「小川すみれさん」
「……っ、はい」
「私は、あなたが好きです」
言った瞬間、世界の音が全部遠のいた。
「後ろ姿から始まってもいい。勘違いから始まってもいい。……これから何十年かけてでも、私のこと、ちゃんと知ってください」
彼女は口を両手で押さえて、ぼろぼろと泣いていた。
クレープが膝の上で傾いて、危うく落ちそうになっている。
「私と、付き合ってください」
---
返事が来るまで、たぶん十秒もかからなかった。
でも私にとっては、永遠みたいな十秒だった。
「……はい」
彼女は、掠れきった声でそう言った。
「はい。はい。……っ、はい」
何度も何度も頷いて、そのたびに涙がこぼれ落ちていく。
「私、ずっと……ずっと、先輩に振られる練習してました」
「練習って何さ」
「電車の中とかで、断られた時になんて言おうかって、何回もシミュレーションして。笑って帰れるようにって……」
彼女はぐしゃぐしゃの顔で、それでも笑おうとしていた。
「なのに、こんな……こんなの、練習してないです……!」
「しなくていいよ、そんなの」
私は手を伸ばして、彼女の頬の涙を親指で拭った。
びくりと肩が跳ねたけれど、彼女は逃げなかった。
「先輩」
「ん」
「ほっぺた、冷たいですか」
「うん。冷たい。一時間も待ってるからだよ」
「……先輩の手、あったかいです」
そのまま、彼女は私の手に自分の頬をすり寄せてきた。
小さい動物みたいだと、初めて会った頃から思っていた。
しばらくそうしていた後、彼女がぽつりと言った。
「……ひとつだけ、いいですか」
「なに」
「先輩の名前」
「名前?」
「町田美咲、って。……美しく咲く、って書くんですよね」
私は思わず、間の抜けた声を出してしまった。
「え。……あー、うん。そうだけど」
「私、ずっと素敵な名前だなって思ってました」
彼女は、まだ濡れている目でにっこりと笑った。
「先輩はいつも自分のこと、なんにもない人みたいに言うけど。……名前からして、咲く人なんですよ」
不意打ちだった。
「……ずるい」
「え?」
「なんでもない」
私は顔を背けた。たぶん、耳まで真っ赤になっていた。
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帰りの小田急線。
隣に座った彼女は、今日はうとうとしていなかった。
背筋を伸ばして、両手を膝の上でぎゅっと組んで、時々ちらちらとこちらを見てくる。
「……そんなに見ないでよ」
「見ますよ。だって、今日から見ていい人になったので」
「なにその理屈」
そう言いながら、私は自分の手を、彼女の手の上にそっと重ねた。
彼女の指が、驚いたように一瞬硬くなって、それからおずおずと私の指に絡んできた。
電車が揺れる。窓の外を、見慣れた夜の街が流れていく。
初めてこの電車に二人で乗った日、私は考えていた。
どうして私なんだろう。
容姿なのか、話し方なのか、なんなのだろう。
私のことをよく知りもしないで「好き」だなんて、勝手じゃないか。その「好き」は偽物ではないか。
あの頃の私に、教えてやりたい。
その子は、あなたの後ろ姿を誰かと間違えて見つけたんだよ。
そこから時間をかけて、あなたが授業中に寝ることも、ぐうたらなことも、口を開けば自分を下げることも、全部知って。
それでも「好きだ」と言うんだよ。
そして、あなたも同じことをするんだよ。
――偽物じゃなかった。
隣の温もりを確かめながら、私は静かに息を吐いた。
何もないと思っていた。
取り柄も、特別なところも、好きになってもらう理由も、何ひとつ持っていないと思っていた。
でも、そうじゃなかったのだ。
ただ、自分の中に何が埋まっているのかを、私が知らなかっただけで。
指を絡めたまま、私は目を閉じた。
胸の奥の、ずっと固く閉じていた場所。
そこで今、確かに何かが、ゆっくりとほどけて開いていく感じがした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。次の話で完結となります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。最後までよろしくお願いします。




