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花咲くこころ  作者: えーあいキッズ


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15/16

花咲くこころ

日曜日の朝、私は鏡の前で三十分も突っ立っていた。


クローゼットの前に服が四着ほど放り出されている。

どれもこれもピンとこない。というより、そもそも私は服を選ぶという行為をほとんどしたことがなかった。


学校に行く時、鏡なんてほとんど見ない。制服を着て、寝癖を手で押さえて、それで終わり。

自分の見た目に気を使ったところで、どうせ何も変わらないと思っていた。


なのに今日は、袖の長さが気になって仕方ない。


「……何やってんだろ、私」


口に出してみたけれど、手は止まらなかった。

結局、いちばん最初に手に取ったシャツをもう一度着直して、それで決めた。


出かける前、スマホを開いた。


トーク画面の上のほうに、葵の名前がある。

何を着ていけばいいか聞きたかった。こういう時、いつも答えを持っているのは葵だった。


『ねえ、今日さ』


そこまで打って、指が止まった。


しばらく画面を見つめてから、私は一文字ずつ消していった。

打っては消して、また打っては消した。


――時間、もらってもいい?


あの日の葵の声が耳の奥で鳴る。

今、私が葵に頼っていいことと、頼ってはいけないことがある。

今日のことは、間違いなく後者だ。


私は結局、何も送らずにアプリを閉じた。

書いては消すのがどれだけしんどいか、初めて分かった気がした。


---


小田急線に揺られながら、窓の外を眺めていた。


空は高く、雲が薄く刷いたように伸びている。

車内は日曜の昼らしく、家族連れや買い物帰りの人でほどよく混んでいた。


膝の上のスマホを、意味もなく何度も点けたり消したりしている。

心臓が、朝からずっとうるさい。


下北沢の改札を出ると、彼女はもう来ていた。


高いポニーテール。制服じゃない、白いブラウスと紺のスカート。

初めて見る私服姿だった。


「……すみれちゃん」


声をかけると、彼女はぱっと顔を上げた。


「あ、美咲先輩。おはようございます」


いつもなら、ここで大きく手を振って駆け寄ってくるはずだった。

でも今日の彼女は、その場から一歩も動かずに、ぎこちなく笑っただけだった。


「今日、早いね」


「はい。……一時間くらい前から、います」


「一時間?」


「落ち着かなくて」


彼女は俯いて、スカートの裾を握った。

その手の甲が、少し赤くなっている。ずっと外にいたのだろう。


「あの、先輩」


「うん」


「話って、なんですか」


声が、微かに震えていた。


顔を上げた彼女の目を見て、私はようやく気づいた。

この子は、断られると思ってここに立っている。


一週間、ずっとそう思って過ごしていたのだ。

体育館で全部を打ち明けて、私に全部を知られて、それでも「話したいことがある」としか言われなかった。そんなの、悪いほうにしか考えられるはずがない。


その一時間分の冷たい手を見ていたら、胸が詰まった。


「……ごめん」


「え?」


「メッセージ、あれだけじゃ怖いよね。もっとちゃんと書けばよかった」


彼女は目を丸くして、それから慌てて首を振った。


「い、いえ! 大丈夫です! 私、覚悟はできてますから!」


「覚悟って」


「どんなことでも、ちゃんと聞きます。……先輩の言うことなら、なんでも」


その健気さが、余計に痛かった。


私は、彼女の手を取りたくなる衝動を、なんとか堪えた。

順番がある。ちゃんと言葉にしてからだ。


「行きたいところがあるんだ。付き合ってくれる?」


「……はい」


---


歩き出してすぐ、彼女は私の行き先に気づいたようだった。


「先輩。これ、もしかして」


「うん」


見慣れた路地を抜けて、あの建物の前に立つ。

重い扉。長いエスカレーター。薄暗い空間と、チューニングの音。


初めて二人でここに来たのは、そんなに昔のことじゃない。

なのに、ずいぶん遠い日のことのように思える。


「日曜の昼にもやってるんだよ、ここ」


「知らなかったです」


チケットを渡してカウンターに向かう。


「はい、こっち」


差し出したコップを受け取って、彼女が首をかしげた。


「先輩、ジンジャーエールなんですね」


「……なんとなく」


「へえ? コーラじゃないんだ」


「うるさい」


彼女が、少しだけ笑った。今日初めての、いつもの顔だった。


---


照明が落ちて、ステージにスポットライトが灯る。


一曲目のイントロが、ドラムのカウントとともに弾け飛んだ。


爆音が体を貫く。腹の底が震える。

隣を見ると、彼女は目を大きく見開いて、ステージを食い入るように見ていた。


あの日と同じだ。

落ち着きなくあちこちを見回して、音が鳴るたびに肩を揺らして、全身で「楽しい」と言っている。


三曲目が終わった後、彼女が私の耳元に顔を寄せてきた。


「先輩! やっぱりここ、すごいです!」


「うん」


「なんか、体の中がぜんぶ洗われるっていうか、埃が飛んでいくみたいな感じがします!」


真剣な顔で、そんなことを言う。


私は、思わず吹き出した。


「埃って何よ。掃除機じゃないんだから」


「えっ! 今のけっこう良い表現だと思ったのに!」


「どうかしてるよ、ほんと」


言った瞬間だった。


彼女の動きが、止まった。


大きな目が、さらに大きく見開かれる。

爆音の中で、その顔だけがゆっくりに見えた。


あの日と同じ言葉を、私は同じ調子で言った。

わざとだった。


彼女の唇が、震えながら開いた。


「……せんぱい」


「なに」


「今の、わざとですか」


「さあ」


「わざとですよね」


「知らない」


彼女の目に、みるみる涙が溜まっていく。

それでも彼女は、泣きながら笑っていた。ぐしゃぐしゃの、あの不器用な笑い方で。


私は前を向いた。まっすぐ見ていられなかった。


四曲目のイントロが鳴り出す。

隣で彼女が、袖で乱暴に目元を拭っているのが、視界の端に見えていた。


---


外に出ると、下北沢の街はもう夜になりかけていた。


夜風が、火照った頬に気持ちいい。

耳の奥に、まだベースの低音が残っている。


「先輩」


「ん」


「お腹、空きませんか」


彼女がおずおずとそう言うので、私は笑ってしまった。


「クレープでしょ」


「……はい」


路地の角の、小さなクレープ屋。

チョコバナナを一つ買って、駅前のベンチに二人で座った。


「はい」


包み紙を差し出すと、彼女は目を瞬かせた。


「え、半分こじゃないんですか」


「今日はすみれちゃんの。私、別のとこ食べたいから」


「え、じゃあもう一個買っ……」


「いいから」


半分こをしなかったのは、意味があった。

分け合うのは、もう今日じゃない。今日は、私が渡す日だ。


彼女は不思議そうな顔をしながらも、大事そうにクレープを抱えた。


しばらく、二人とも黙っていた。


駅から流れ出てくる人の波。どこかの店から漏れるギターの音。

生ぬるい風が、ポニーテールの毛先を揺らしている。


「……すみれちゃん」


「はい」


私は、膝の上で拳を握った。


「この前、私が聞いたよね。どうして私だったの、って」


彼女の肩が、微かに跳ねた。


「……はい」


「あの時、すみれちゃんはちゃんと答えてくれた。自分の一番怖いところまで見せて、震えながら答えてくれた」


「……」


「だから今日は、私が答える番」


彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。


その目には、期待と、それを上回る恐れが、混ざり合って揺れていた。


---


「私さ、ずっと分かんなかったんだ」


夜の風の中で、私はゆっくり話し始めた。


「話したこともない後輩に、いきなり好きって言われて。なんで私なんだろうって、そればっかり考えてた。私の何を知ってるんだろう、その好きは本物なのかなって」


「……はい」


「失礼だよね。今考えると、ほんとに失礼」


私は自嘲した。


「でもね。今なら分かるんだ。すみれちゃんが答えてくれたから」


彼女が、じっと私を見ている。


「すみれちゃんは、私の後ろ姿をお姉ちゃんと間違えて見つけた。……それって、私のことなんて何も知らないってことだよね」


「……そう、です」


「うん。何も知らなかった。でもさ、すみれちゃん、最初に言ったの覚えてる?」


「え……」


「デートしてくださいって、教室まで来た時。私が『君のこと全然知らない』って言ったら、なんて返したか」


彼女の唇が、小さく動いた。


「……知らないからこそ、です」


「そう」


私は、そこで初めて彼女の目をまっすぐに見た。


「知らないからこそ、知りたいって言ったんだよ、すみれちゃんは。あの時の私は、なんて無茶苦茶なこと言う子だろうって思ってた。でも、あれが全部の答えだったんだ」


風が吹いて、街路樹の葉がざわりと鳴った。


「始まりなんて、なんだっていいんだよ。後ろ姿でも、勘違いでも、面影でも。……そこから相手をちゃんと知って、それでも好きなら、それは本物なんだよ」


彼女の目から、涙が一粒こぼれた。


「私の『好き』も、たぶん同じ」


「……先輩の?」


「うん」


私は、少しだけ声が震えるのを感じた。


「私、いつすみれちゃんを好きになったか、分かるんだ」


彼女が息を呑む。


「初めてここに来た日。ライブハウスから出てきた時にはもう、この子といるの楽しいなって思ってた。……あの日だよ」


彼女の表情が、ゆっくりと崩れていく。


「あの、それって」


「うん。すみれちゃんが私を好きになったのと、同じ日」


彼女の口から、掠れた音が漏れた。


「同じ場所で、たぶん同じ時間に、お互い落ちてたんだよ。私は、すみれちゃんが『強くなれる気がする』とか変なこと言うから笑っちゃって、その笑ってる自分に気づいて、あれ、楽しいなって思って。……すみれちゃんは、その笑われたのが嬉しかったんだよね」


「……はい」


彼女はもう、声を殺すことすらできていなかった。


「ずっとお互い気づかないで、二人とも同じことで怖がってたんだよ。私の好きは偽物じゃないかって」


私はポケットから、折り畳んだ紙切れを取り出した。


「……なんですか、それ」


「笑わないでよ」


私はそれを広げた。ノートの切れ端に、下手な字でメモが書いてある。


「今週さ、いろいろ調べたんだ」


「調べた?」


「うん。花言葉ってやつ」


彼女が、きょとんとした顔をした。


「私、こういうの一回もやったことないんだよ。授業も寝てるし、宿題も葵に見せてもらってたし。何かをちゃんと調べるとか、人生で初めてかもしんない」


指先が震えて、紙がかさかさ鳴った。


「すみれの花の花言葉、知ってる?」


「……いえ」


「『誠実』だって」


彼女の呼吸が、止まった。


「笑っちゃうよね。私、あの日からずっと、この子の好きは本物かなって疑ってたのに。名前に最初から書いてあったんだよ」


私は紙を畳んで、ポケットに戻した。


そして、彼女のほうへ体ごと向き直った。


「小川すみれさん」


「……っ、はい」


「私は、あなたが好きです」


言った瞬間、世界の音が全部遠のいた。


「後ろ姿から始まってもいい。勘違いから始まってもいい。……これから何十年かけてでも、私のこと、ちゃんと知ってください」


彼女は口を両手で押さえて、ぼろぼろと泣いていた。

クレープが膝の上で傾いて、危うく落ちそうになっている。


「私と、付き合ってください」


---


返事が来るまで、たぶん十秒もかからなかった。


でも私にとっては、永遠みたいな十秒だった。


「……はい」


彼女は、掠れきった声でそう言った。


「はい。はい。……っ、はい」


何度も何度も頷いて、そのたびに涙がこぼれ落ちていく。


「私、ずっと……ずっと、先輩に振られる練習してました」


「練習って何さ」


「電車の中とかで、断られた時になんて言おうかって、何回もシミュレーションして。笑って帰れるようにって……」


彼女はぐしゃぐしゃの顔で、それでも笑おうとしていた。


「なのに、こんな……こんなの、練習してないです……!」


「しなくていいよ、そんなの」


私は手を伸ばして、彼女の頬の涙を親指で拭った。

びくりと肩が跳ねたけれど、彼女は逃げなかった。


「先輩」


「ん」


「ほっぺた、冷たいですか」


「うん。冷たい。一時間も待ってるからだよ」


「……先輩の手、あったかいです」


そのまま、彼女は私の手に自分の頬をすり寄せてきた。

小さい動物みたいだと、初めて会った頃から思っていた。


しばらくそうしていた後、彼女がぽつりと言った。


「……ひとつだけ、いいですか」


「なに」


「先輩の名前」


「名前?」


「町田美咲、って。……美しく咲く、って書くんですよね」


私は思わず、間の抜けた声を出してしまった。


「え。……あー、うん。そうだけど」


「私、ずっと素敵な名前だなって思ってました」


彼女は、まだ濡れている目でにっこりと笑った。


「先輩はいつも自分のこと、なんにもない人みたいに言うけど。……名前からして、咲く人なんですよ」


不意打ちだった。


「……ずるい」


「え?」


「なんでもない」


私は顔を背けた。たぶん、耳まで真っ赤になっていた。


---


帰りの小田急線。


隣に座った彼女は、今日はうとうとしていなかった。

背筋を伸ばして、両手を膝の上でぎゅっと組んで、時々ちらちらとこちらを見てくる。


「……そんなに見ないでよ」


「見ますよ。だって、今日から見ていい人になったので」


「なにその理屈」


そう言いながら、私は自分の手を、彼女の手の上にそっと重ねた。


彼女の指が、驚いたように一瞬硬くなって、それからおずおずと私の指に絡んできた。


電車が揺れる。窓の外を、見慣れた夜の街が流れていく。


初めてこの電車に二人で乗った日、私は考えていた。


どうして私なんだろう。

容姿なのか、話し方なのか、なんなのだろう。

私のことをよく知りもしないで「好き」だなんて、勝手じゃないか。その「好き」は偽物ではないか。


あの頃の私に、教えてやりたい。


その子は、あなたの後ろ姿を誰かと間違えて見つけたんだよ。

そこから時間をかけて、あなたが授業中に寝ることも、ぐうたらなことも、口を開けば自分を下げることも、全部知って。

それでも「好きだ」と言うんだよ。


そして、あなたも同じことをするんだよ。


――偽物じゃなかった。


隣の温もりを確かめながら、私は静かに息を吐いた。


何もないと思っていた。

取り柄も、特別なところも、好きになってもらう理由も、何ひとつ持っていないと思っていた。


でも、そうじゃなかったのだ。

ただ、自分の中に何が埋まっているのかを、私が知らなかっただけで。


指を絡めたまま、私は目を閉じた。


胸の奥の、ずっと固く閉じていた場所。

そこで今、確かに何かが、ゆっくりとほどけて開いていく感じがした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。次の話で完結となります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。最後までよろしくお願いします。

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