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花咲くこころ  作者: えーあいキッズ


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エピローグ

三月の体育館は、驚くほど寒かった。


パイプ椅子が整然と並べられ、床には赤い絨毯が一本、まっすぐに敷かれている。

バッシュの音も、ボールの跳ねる音も、今日はどこにもない。窓から差し込む光だけが、あの日と同じだった。


卒業証書を受け取って席に戻る時、私は一瞬だけ、二年生の列のほうに目をやった。


高いポニーテールをした少女が、こちらを見ていた。


目が合った瞬間、彼女は慌てて背筋を伸ばして前を向いた。

それから五秒くらい耐えて、また、ちらりとこちらを見た。


笑いそうになるのを、必死で堪えた。


---


式が終わって、教室に戻った。


もう明日から誰も座らない机が、三十いくつか並んでいる。

黒板には誰かが描いた下手くそな絵と、寄せ書きみたいな落書きが残っていた。


私は自分の席に座って、鞄に教科書を詰めていた。

詰めるものなんて、ほとんど残っていなかったけれど。


「ここ、空いてる?」


顔を上げると、葵が立っていた。


「もちろん」


葵は自分の席に腰を下ろした。

私の、すぐ隣の席に。


秋のあの日から、ここまで来るのに、ずいぶん時間がかかった。


十一月の葵は、まだ私と目を合わせられなかった。

十二月には、少しずつ普通に喋れるようになった。冬休みの間、一度だけ二人でシモキタに行って、古着屋で葵が変な柄のシャツを見つけて、二人で腹を抱えて笑った。


年が明けて、二月のある日。

私が推薦の合格通知を見せた時、葵は「よかったね」と言って、それから泣いた。


その泣き方が、あの美術室の日とはまったく違っていて。

ああ、戻ってきたんだな、と思った。


「言ったでしょ」


葵が机に頬杖をついて、こちらを見た。


「絶対に戻ってくるって」


「うん」


「ちゃんと空けといてくれたじゃん、席」


「当たり前でしょ」


葵は満足そうに笑って、それから窓の外に目をやった。


「私さ、この席、けっこう気に入ってたんだよね」


「知ってる」


「一番いい席だったから」


私は何も言わずに頷いた。

言葉にすると壊れそうなものが、たぶん、この教室にはまだ少しだけ残っていた。


---


昇降口を出ると、二人が待っていた。


「美咲ちゃん、卒業おめでとー!」


千夏が両手を振って駆け寄ってくる。ジャージ姿なのは、このあと部活があるからだろう。


その後ろに、彼女が立っていた。

制服のリボンを両手でいじりながら、こちらを見上げている。


「……美咲先輩。ご卒業、おめでとうございます」


「ありがとう」


「あの、これ」


差し出されたのは、小さな紙袋だった。中身の見当はついている。


「クッキーです。砂糖控えめで、カロリーも計算してあります」


「知ってる」


「あっ、そこは驚くところですよ!」


「毎回同じこと言ってるじゃん」


彼女がむくれて、千夏が横で吹き出した。


「姉ちゃんは?」


「教室。あとで来ると思うよ」


千夏はにやりと笑って、彼女の背中をぱんと叩いた。


「じゃ、私は部活行くから。小川、あんまり泣かせないようにね」


「泣かせないし!」


千夏が走り去っていくのを見送ってから、彼女は私のほうに向き直った。

何かを決めてきたような、真剣な顔だった。


「美咲先輩。今日、行きたいところがあるんです」


---


電車を乗り継いで、知らない駅で降りた。


住宅街の坂を登っていくと、視界が急に開けた。

丘の斜面に沿って、石が整然と並んでいる。三月の空はよく晴れていて、風が少しだけ冷たかった。


途中の花屋で、彼女は白い小さな花の束を買っていた。


「その花は?」


「かすみ草っていうんです」


歩きながら、彼女が言った。


「お姉ちゃんの名前、かすみっていうんです」


私は足を止めそうになった。


これまで一度も、彼女はその名前を口にしなかった。

いつも「お姉ちゃん」だった。体育館でも、あのベンチでも、一度も。


「……かすみさんね」


「はい。小川かすみです」


彼女はそう言って、少しだけ笑った。

その笑い方は、痛そうでも、無理をしているようでもなかった。


「なんか、久しぶりに声に出しました」


坂を登りきったところに、その墓はあった。


小川家之墓、と彫られた石は、よく手入れされていて、水鉢の周りに苔ひとつない。

誰かが定期的に来ているのだと、すぐに分かった。


彼女は慣れた手つきで水を汲み、石を洗い、かすみ草を供えた。

線香に火をつけて、手を合わせる。


私も隣で、同じようにした。


しばらく、風の音だけがしていた。


やがて、彼女が顔を上げた。

そして、墓石に向かって、はっきりとした声で言った。


「お姉ちゃん。今日、紹介したい人がいるから来たんだ」


心臓が、一つ大きく鳴った。


「町田美咲さん。私の、恋人です」


彼女は一度も、「お姉ちゃんに似てる人」とは言わなかった。

面影とも、後ろ姿とも、代わりとも言わなかった。


ただ、まったく知らない人を紹介するみたいに、私の名前だけを言った。


それが、どういう意味なのか。

私にはもう、説明されなくても分かった。


「……私からも、いいかな」


「はい」


私は一歩前に出て、石の前にしゃがみ込んだ。


「はじめまして。町田美咲です」


自分の声が、思ったより震えていた。


「あの、正直に言うと。この子が私を見つけたのは、あなたに似てたからなんですよね。それを聞いた時、私、けっこう落ち込みました。しばらく立ち直れなかったです」


風が、供えたかすみ草を揺らした。


「でも今は、感謝してます。……あなたがいなかったら、この子は私を見つけてくれなかったので」


言いながら、喉の奥が熱くなった。


「私、大した人間じゃないです。授業中は寝てたし、成績も良くないし。あなたみたいに、優しくもないと思います」


隣で、彼女が小さく息を呑んだのが分かった。


「でも、この子はそれが好きだって言ってくれました。……なので、私が卒業しても、すみれが卒業しても、大人になっても、ずっと隣にいます」


深く、頭を下げた。


「私が大事にします……かすみさんの分まで。約束します」


顔を上げると、彼女がぼろぼろ泣いていた。


「……先輩、ずるいです」


「なんでよ」


「私、泣かないつもりで来たのに」


「私だって、……泣くつもりなかったよ」


袖で目元を拭いながら、私たちは顔を見合わせて笑った。


---


帰り道、坂を下っていく途中で、彼女が急に立ち止まった。


「あ」


「どうしたの」


彼女が指差したのは、坂の脇の、コンクリートの継ぎ目だった。


そんな場所に土なんてほとんどないのに、小さな紫の花がいくつか顔を出している。

踏まれてもおかしくない高さで、ひっそりと、けれど確かに咲いていた。


「すみれです」


「……ほんとだ」


「毎年、この時期に咲くんですよ。誰も植えてないのに」


彼女はしゃがみ込んで、その花をじっと見つめた。


「小さいし、目立たないし、こんなとこに咲かなくてもいいのにって思うんですけど」


そう言って、彼女は私を見上げた。


「でも、咲くんです。毎年ちゃんと」


夕方の光が、彼女の頬の涙の跡を光らせていた。


私は、その隣にしゃがんだ。


冬のあいだ、この花はずっと地面の下にいたのだろう。

何も見えなくて、誰にも気づかれなくて、それでも根を張り続けて。


葵の顔が、ふと浮かんだ。


あの子も、たぶん同じだ。

何年も何年も、見えないところで根を張っていた。それがあったから、私は今日ここに立っていられる。


「先輩」


「ん」


彼女が、立ち上がりながら言った。


「あの、ひとつ困ったことがあって」


「なに」


「先輩、今日で卒業しちゃったじゃないですか」


「うん」


「だから、もう『先輩』じゃないんですよね」


私は思わず吹き出した。


そういえば、この子はずっとそれを気にしていた。ずるい、私なんてまだ『先輩』って付けないと呼べないのに、と唇を尖らせていたのは、いつのことだったか。


「じゃあ、なんて呼ぶの」


「……えっと」


彼女の顔が、みるみる赤くなっていく。


「み、美咲……さん」


「うん」


「美咲さん」


「うん」


「うわぁ、無理です! 恥ずかしいです! やっぱり先輩でいいですか!」


「だめ。もう先輩じゃないもん」


「そんなぁ!」


じたばたする彼女を置いて、私は先に坂を下り始めた。

後ろから、慌てた足音が追いかけてくる。


「待ってください、美咲さん!」


「ほら、言えてるじゃん」


「言えてません! 今のは事故です!」


夕方の坂道に、二人分の笑い声が響いた。


---


駅に着く頃、スマホが震えた。


葵からだった。


『卒業式なのに、どこ行ったの』


『ちょっと、大事な挨拶に』


『なにそれw』


少し間があって、次のメッセージが来た。


『春休みに三人で遊びに行こうよ。千夏も入れて四人でもいいけど』


私は、その文字をしばらく見つめていた。


四人で、と葵が自分から書いたこと。

そこにどれだけの時間がかかったかを、私はたぶん、一生忘れない。


『いいね、行こう』


そう返信して、顔を上げた。


隣で、彼女が「誰からですか?」と覗き込んでくる。


「葵。今度四人で遊びに行こうって」


「えっ、宮原先輩が?」


「うん」


「……行きます」


彼女は少し驚いた顔をして、それから、ふわりと笑った。


改札を抜けて、ホームに立つ。

向かいのホームの向こうに、まだ明るさの残る春の空が広がっていた。


かつて私は、自分には何もないと思っていた。

好きになってもらう理由なんて、どこを探しても見つからないと思っていた。


その私に、話したこともない後輩がいきなり「好きです」と言った。

勝手だと思った。偽物だと思った。どうして私なんだろうと、そればかり考えていた。


今なら分かる。


咲いていなかったんじゃない。

まだ、雨が降っていなかっただけなんだ。


これからも雨は何度も降るだろう。

私の心を、何度も、何度も、色づかせていくのだろう。


そして、その雨を降らせてくれるのは、きっとこの子だ。


電車が滑り込んできて、風が前髪を持ち上げた。


隣を見ると、彼女が手を差し出していた。

何も言わずに、ただ、当たり前みたいに。


私はその手を取った。


<完>

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