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花咲くこころ  作者: えーあいキッズ


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14/16

一番いい席

体育館であの子と泣いた日から、三日が過ぎた。


朝、教室に入ると、葵はもう席にいた。

窓際から差し込む秋の光が、机に広げたノートの上で細かく揺れている。


「おはよ、美咲」


「おはよ」


前と同じ挨拶。前と同じ席。

でも、私たちの間にはまだ、見えない壁が残ったままだった。


一時間目の準備をしていると、葵が消しゴムを拾うふりをして、こちらに顔を寄せてきた。


「ねえ、美咲。今日、この後って空いてる?」


心臓が、静かに跳ねた。


「……空いてるよ」


「じゃあさ。……中学校、行かない?」


「中学校?」


思わず聞き返した。


「うん。あのへん、久しぶりに歩きたくて」


葵は前を向いたまま、ノートに何かを書き足すふりをしていた。

指先が、シャープペンシルの尻を意味もなくカチカチと鳴らしている。緊張している時の、昔からの癖だ。


「うん。行こう」


私がそう答えると、葵はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


---


放課後。


電車に揺られて、私たちは久しぶりにあの駅で降りた。


改札を出た瞬間、街の匂いが変わった気がした。

高校に上がって、葵の家が引っ越して、それきりほとんど来なくなった街だ。それでも足は、何も考えなくても勝手に進んでいく。


私たちは並んで、中学の三年間、毎日歩いた道を辿った。


大通りではなく、住宅街を抜ける遠回りのほう。

二人でだらだら喋りながら帰るなら、こっちの道のほうが長くていいね、と言って選んだ道だった。


「この道さ、ほんと変わんないよね」


葵が、電柱の落書きを指差して笑った。小学生が描いたらしい下手くそな猫の絵は、私たちが中学生の頃からずっとそこにある。


「猫、まだいるんだ」


「いるよー。私、去年見た時ちょっと感動したもん」


「なにそれ」


たわいのない話をしながら、私たちはゆっくり歩いた。

急ぐ理由なんてどこにもなかった。むしろ二人とも、この時間が終わらなければいいと思っているみたいだった。


角を曲がったところに、古いコンビニがある。


「寄ってく?」


葵が言った。


「うん」


聞かなくても分かっていた。私たちは中に入って、迷いもせずアイスのケースの前に立った。

昔からずっと同じだ。中学の帰り、テストが終わった日、夏の部活帰り。二人で一つを買って、半分こする。


店を出たところで、葵が袋からパピコを取り出した。

チョココーヒー。中学の頃から一度も変わっていない選択だ。


葵は二本のチューブを握ると、ぱきん、と根元をひねって割った。

それから片方を両手で挟んで、指の腹でしばらく揉んでいる。


「なにしてんの」


「凍りすぎ。揉んどかないと出てこないでしょ」


やがて葵は、柔らかくなったほうを私に差し出してきた。


「はい、美咲の」


自分の分を先に揉んだことなんて、たぶん一度もない。

昔からずっと、この順番だった。


---


コンビニを出て、少し歩いたところにある小さな公園に入った。


滑り台とブランコと、色の褪せたベンチが一つあるだけの、狭い公園。

夕方の光が斜めに差し込んで、地面に長い影を作っている。


私たちはベンチに並んで座った。

アイスを少しずつ吸いながら、しばらく何も喋らなかった。


「……美咲」


葵が、先に口を開いた。


「うん」


「今から、私の話をするね」


パピコを握る手に、少しだけ力が入るのが見えた。細いチューブが、指の形にへこんでいる。


「聞いてほしいの。返事はその後でいい。……途中で止めないで、最後まで聞いてほしい」


「……分かった」


葵は前を向いたまま、ゆっくりと息を吸った。


「私、美咲のことが好き」


秋の風が、公園の木を鳴らした。


「友達としてじゃなくて。親友としてでもなくて。……恋愛として、美咲のことがずっと好きだった」


聞こえていた言葉だった。

千夏から聞かされて、あの子に暴かれて、もう知っているはずの言葉だった。


でも、葵自身の口から、まっすぐに言われるのは初めてだった。


同じ言葉なのに、まるで別のものみたいに重かった。


「中二の秋くらいから、だと思う」


葵は、記憶を確かめるように話し始めた。


「あの頃、美咲が同じクラスの男子に告白されたことあったでしょ。覚えてる?」


「……あー、うん。断ったやつ」


「うん。あの時ね、美咲が『どうしよう』って私に相談してきて。私、ちゃんと相談に乗ってあげたんだよ。断るなら早いほうがいいとか、そういうこと言って。……でも家に帰った後、自分でもびっくりするくらい機嫌が悪くなったの」


葵は小さく笑った。自嘲するような笑い方だった。


「なんでこんなにイライラするんだろうって、しばらく分かんなかった。友達が告白されたら、普通は嬉しいはずでしょ。冷やかしたりして。……そういうふうにできない自分が、気持ち悪かった」


「葵……」


「止めないでって言ったじゃん」


「……ごめん」


葵はパピコをひと口だけ吸って、小さく息を吐いた。


「気づいたのは、その年の冬。美咲が風邪で三日休んだ時。……三日だよ。たった三日、隣の席が空いてただけで、私、学校が全然面白くなくなったの。授業のノート取りながら、何回も横を見ちゃって。それで、ああ、これはそういうことなんだって」


夕陽が、葵の横顔をオレンジ色に染めていた。

私はその横顔を、まともに見ることができなかった。


「そこからは、隠すことばっかり考えてた」


葵の声のトーンが、少しだけ低くなった。


「言ったらどうなるかなんて、簡単に想像がついたから。美咲は優しいでしょ。だから、私が困らないように、すごく悩むと思ったの。それで、たぶん少しずつ距離を取る。悪気なんてなくて、ただ気を遣って。……そしたら私は、美咲の一番近くにいられなくなる」


葵は手の中のパピコを見つめたまま、続けた。


「私ね、計算したの。中学生のくせに、ちゃんと計算した。恋人になれる可能性は、たぶん低い。でも、親友でいられる確率はほぼ百パーセント。……だったら、確実なほうを取ろうって」


「……」


「『親友』って、一番いい席なんだよ」


その言葉に、胸の奥が鈍く軋んだ。


「恋人は別れることがあるけど、親友は別れないの。隣の席で、毎日おはようって言って、宿題見せてって言われて、帰りにアイス半分こして。……誰よりも近くにいられて、しかも絶対に失わない。そんな席、他にないでしょ」


葵はそこで初めて、こちらを向いた。


「だから私、その席に座り続けたの。何年も。……ずるいでしょ」


私は首を横に振ろうとした。でも、葵がそれを制するように小さく手を上げた。


「ずるいんだよ。だって私、美咲に選ばせなかったんだもん。私の気持ちを一回も見せないで、美咲が断る機会も、選ぶ機会も、全部取り上げて、勝手に一番いい席に座ってたの。……それって、優しさじゃなくて、ただの独占だよ」


「そんなこと……」


「あるの」


葵はきっぱりと言った。


「小川さんを見て、分かったんだ。あの子は、断られるって分かってて言いに行ったでしょ。話したこともない相手に、いきなり。あんなの無謀だし、迷惑だし、正直ちょっと馬鹿だと思った」


葵の目に、うっすらと涙が滲み始めた。


「でもあの子は、美咲にちゃんと選ばせたんだよ。断る自由をあげたの。私が四年間、絶対にやらなかったことを、あの子は出会って三日でやったの」


葵の声が、初めて震えた。


「私、あの子のことが嫌いだった。憎らしかった。……でも、あの子のほうがずっと誠実だって、本当は最初から分かってたんだよ」


---


風が吹いて、公園の砂を巻き上げた。


葵は目元を手の甲で拭って、無理やり笑顔を作った。


「あと、ひとつだけ言っていい?」


「……うん」


「前に美咲がさ、ふざけて『葵お母さん』って言ったことあったでしょ」


「……あー、うん。あったね」


「あれ聞いた時、正直ちょっとだけ嫌だったんだよ」


心臓が、どくりと鳴った。


「でもね、同時にこう思ったの。……これ、便利だなって」


「……便利?」


葵は前を向いたまま、小さく頷いた。


「美咲が初めてあの子と下北沢に行った日。私、メッセージ送ったよね」


覚えている。忘れるはずがない。

帰りの電車で、隣で眠るあの子の重みを肩に感じながら読んだ、あの一行。


『デートどうだった? お母さんに報告しなさい!』


「あれね」


葵は笑ったまま、少しだけ声を掠れさせた。


「送るまでに、三十分かかった」


「……え」


「何回も書いて、何回も消したの。『どうだった?』だけだと重いかなとか、ビックリマークつけたほうが軽く見えるかなとか。……で、最後に『お母さん』って足した」


葵は膝の上で両手を握った。


「自分で名乗ったんだよ。お母さんですって。……そうやって先に線を引いておけば、美咲は絶対に気づかないでしょ」


私は、何も言えなかった。


あの一行を、私はただの軽口だと思っていた。

世話焼きの葵らしい、いつもの冗談だと。


違ったのだ。

あれは、葵が自分の手で自分に貼った札だった。

恋人じゃない、ライバルでもない、ただの保護者。そう名乗ってしまえば、私は何ひとつ疑わずに済む。


「返事もらった後さ」


葵の声が掠れた。


「布団の中で、ちょっとだけ泣いた」


「あともうひとつだけ」


葵はまた笑った。今度はもう、涙を隠していなかった。


「美咲が『私なんて』って言うたびに、私、めちゃくちゃ腹が立ってたの」


「……え」


「自分は友達少ないとか、話すの下手とか、可愛くないとか。美咲、息をするみたいに言うでしょ。……あれ聞くたびに、私、本気で怒ってたんだよ」


葵は、涙を拭いもせずに私を見た。


「だってさ。私が世界で一番好きなものを、本人が一番雑に扱ってるんだよ。許せるわけないじゃん」


――『だから、自分のこと下げるようなこと言わないで』


初めてあの子とデートに行く前、葵がやけに強い口調で言った言葉。

あの時の、あの真剣な顔の理由が、四年越しに私の前に落ちてきた。


「……葵」


「以上。私の話、終わり」


葵は大きく息を吐いて、ベンチの背もたれに体を預けた。


「……で。美咲の答え、聞かせて」


---


私は、手の中のパピコを握りしめた。

中身はとっくに溶けきって、ただの生ぬるい液体になっていた。


言葉を探した。

でも、ここで綺麗な言葉を探すのは、たぶん一番やってはいけないことだった。


「葵」


「うん」


「私は、葵に恋をしてない」


葵の肩が、びくりと震えた。


言った瞬間、自分の喉の奥に鉄の味が広がったような気がした。

でも、ここを曖昧にしたら、あの美術室で葵を傷つけたのと同じことを繰り返すことになる。


「ずっと考えた。ライブハウスに一人で行って、爆音の中で必死に考えた。葵のことを思い出して、あの子のことを思い出して、何が違うんだろうって、何回も何回も考えた」


「……うん」


「葵に会えない日があっても、私は眠れた。葵が他の子と楽しそうにしてても、苦しくならなかった。……でも、あの子のことを考えると、胸が痛くなる。会えないと寂しくなる。それが答えだった」


葵は前を向いたまま、小さく頷いた。頷きながら、涙がぼたぼたと膝に落ちていた。


「……知ってた」


葵が掠れた声で言った。


「知ってたよ。ずっと前から知ってた。美咲があの子の話をする時の顔、見てれば分かるもん。私、そういうの分かっちゃうんだよ。昔から」


葵はそこで、初めて声を上げて泣いた。


「でもさ。……知ってるのと、聞くのは、全然違うんだね」


私は、葵の背中に手を伸ばそうとして、途中で止めた。

今それをするのは、優しさじゃない気がした。


代わりに、私はもう一つ、言わなければならないことを言った。


「葵。もう一個、言わせて」


「……なに」


「葵への私の気持ちは、恋じゃない。それは何回考えても変わらなかった。……でも」


そこで、言葉に詰まった。


違う、ということは分かる。でも、その違いを「どっちが上か」の話にしてしまったら、たぶん全部が嘘になる。


「でも、恋じゃないから軽いなんてこと、絶対にない」


葵が顔を上げた。


「……どういう意味」


「うまく言えないんだけど」


私は膝の上で手を組んで、必死に言葉を探した。


「あの子への気持ちは、熱いんだよ。会いたくて、声が聞きたくて、他の誰かのものになったらどうしようって怖くなる。ぐらぐらして、落ち着かなくて、自分が自分じゃなくなるみたいな」


「うん」


「葵への気持ちは、それとは全然違う。熱くない。ぐらぐらもしない。……でも、なくなったら、私はたぶん立てなくなる」


葵の唇が、小さく震えた。


私は、公園の隅にある小さな花壇に目をやった。

夏の花はとっくに終わっていて、今はただ黒い土が剥き出しになっている。

それでも春になれば、誰が世話をするでもなく、同じ場所から同じ芽が出てくるのだ。


「あの子への気持ちは、これから咲くやつなんだと思う。まだ蕾で、どうなるか全然分かんなくて、私の手で枯らしちゃうかもしれないやつ」


「……うん」


「でも、葵への気持ちは根っこなんだよ」


葵が、こちらを向いた。


「ずっと地面の下に伸びてて、目に見えないし、綺麗でもないし、誰にも褒めてもらえないやつ。……でもさ。根っこがなかったら、花なんか一個も咲かないじゃん」


「……美咲」


「私があの子の『好き』をちゃんと考えようって思えたの、葵のおかげなんだよ」


葵の目が、大きく見開かれた。


「覚えてる? 私があの子に告白された日。私、『好きって、そんな簡単なものなの?』みたいなこと言ったでしょ。そしたら葵、めちゃくちゃ怒ったじゃん」


――『恋心って美咲が思っているより大切なものなの! 好きな気持ちを簡単だって決めつけないで!』


あの時の葵の顔を、今でもはっきり覚えている。

なんでこんなことで怒るんだろうと、あの頃の私は本気で不思議に思っていた。


今なら分かる。

あれは、葵が自分の心を守るために叫んだ言葉だった。

自分が四年間抱えてきたものを「簡単なもの」だと言われて、黙っていられるはずがなかったのだ。


「あの一言がなかったら、私、あの子のこと最後まで真面目に考えなかったと思う。話したこともない後輩の勘違いだって、それで終わらせてた」


「……なにそれ。私、自分で背中押しちゃったってこと?」


葵が、泣きながら情けない顔で笑った。


「そうだよ。全部葵のせい」


「最悪じゃん……」


「うん。でもね」


私は、まっすぐに葵の目を見た。


「私が誰かをちゃんと好きになれる人間になれたのは、葵がずっと、そういうふうに私を育ててくれたからなんだよ」


葵は口を開いて、何も言えずにまた閉じた。


「私、すみれちゃんに教えてもらったことがあるんだ」


体育館の、夕陽に染まったコートを思い出す。

泣きながら私の欠点を並べ立てた、あの真っ直ぐな声を。


「気持ちの始まりがどこにあっても、それが本物かどうかは、別の話なんだって。……あの子は、私の後ろ姿を誰かと間違えて見つけたんだよ。それでも、あの子の好きは本物だった」


「……うん」


「同じだよ、葵。恋にならなかったからって、私たちの六年が偽物になるわけない」


私は、さっき歩いてきた道のほうに目をやった。


遠回りの通学路。電柱の下手くそな猫。迷いもせずアイスのケースに向かう足。先に揉んで柔らかくしてから渡してくれる手。

どれも、二人で六年かけて作ってきたものだ。


「この道も、アイスの半分こも、隣の席も。……全部、私と葵の形なんだよ。恋じゃないけど、私はこれを、世界で一番守りたい」


「……っ」


「一番いい席って言ったよね。あの席、葵が勝手に座ってたんじゃないよ。……私が、座っててほしかったの」


葵の表情が、ぐしゃぐしゃに崩れた。


「……ずるい」


葵は両手で顔を覆った。


「ずるいよ、美咲。そんな言い方されたら、嫌いになれないじゃん……!」


「嫌いにならないで。……お願いだから」


「なれないってば……!」


葵は声を上げて泣いた。

四年分の何かが、その泣き声の中に全部混ざっているような気がした。


私はもう我慢しなかった。

横から、葵の肩に腕を回して、その頭を自分の肩に押し付けた。

葵は抵抗しなかった。私の制服を掴んで、子供みたいに泣き続けた。


夕陽が、二人の影を長く長く、砂の地面に伸ばしていた。


---


どれくらいそうしていただろう。


葵はひとしきり泣いた後、鼻をすすりながら私から離れた。

目も鼻も真っ赤で、ひどい顔だった。たぶん、私も同じような顔をしていた。


「……あのさ、美咲」


「うん」


「小川さんには、もう言ったの? 好きだって」


私は首を横に振った。


「まだ、何も言ってない」


葵が驚いたようにこちらを見た。


「なんで? もう気持ち決まってるんでしょ」


「決まってるよ。……でも、葵に先に言いたかったから」


葵の目が、丸くなった。


「……なにそれ。なんで私が先なの」


「順番、間違えたくなかったんだよ」


葵が、ぽかんとした顔をした。

それから、泣き腫らした顔のまま、ぶはっと吹き出した。


「それ、私が言ったやつじゃん……!」


「そうだよ。葵が言ったやつだよ」


「ずるいってば、ほんとに……」


葵は笑いながら、また少し泣いた。


「……美咲さ」


「ん」


「私、しばらく、前みたいには無理かも」


葵の声は、落ち着いていた。


「一緒に帰ったり、普通に喋ったりはできると思う。でも、前みたいに何も考えないで美咲の隣にいるのは、たぶんまだ無理。……見るたびに、たぶんちょっと痛いから」


「……うん」


「時間、もらってもいい?」


「どのくらい?」


「分かんない。一ヶ月かもしれないし、一年かもしれない」


葵は空を見上げた。夕焼けの端が、もう夜の色に変わり始めていた。


「でもね、美咲」


葵はこちらを向いて、涙の跡だらけの顔で、はっきりと笑った。


「絶対に戻ってくるから。絶対に、また美咲の隣に座るから。……だから、その席、空けといてよ」


私は、うまく返事ができなかった。

かわりに、何度も何度も頷いた。


「待ってる。ずっと待ってるから」


「うん」


「何年でも待つ」


「重いってば」


葵が笑って、私の肩を軽く叩いた。

その手の感触が、あの美術室の日からずっと張り詰めていた何かを、少しだけ緩めてくれた気がした。


---


公園を出て、私たちは駅への道を戻った。


途中に、小さな分かれ道がある。

中学の三年間、毎日ここで「じゃあね」と言っていた場所だ。私は右、葵は左。


「この道さ」


葵がぽつりと言った。


「毎日ここで別れるの、地味に嫌だったんだよね」


「今言う?」


「今しか言えないじゃん」


私たちは笑って、今日はどちらにも曲がらずに、そのまま真っ直ぐ歩いた。


どこかの家の庭から、金木犀の匂いがした。


毎年、同じ時期に、同じ場所で、誰に頼まれるでもなく咲く花だ。

去年もあった。一昨年もあった。たぶん来年も、私が忘れている間に勝手に咲くのだろう。


---


駅に着いて、改札の前で立ち止まった。


「じゃ、私こっちだから」


葵が手を上げた。


「うん。またね」


言いかけて、私は少しだけ言い直した。


「……またね、葵」


ただの名前だ。

お母さんでも、親友でもない。何の札も貼らない、彼女自身の名前。


葵は一瞬きょとんとして、それから、何かに気づいたような顔で笑った。


「……うん。またね、美咲」


そう言って、葵は改札を抜けていった。


その背中は、美術室で泣いて逃げた時のように小さくはなかった。

まっすぐで、少し寂しくて、でも確かに前を向いていた。


人混みに紛れて見えなくなるまで、私はその背中を見送っていた。


---


家に帰る途中、私はスマホを取り出して、葵とのトーク画面を開いた。


指で、ずっと上まで遡っていく。

授業のノートの写真、テストの愚痴、意味のないスタンプの応酬。何ヶ月分ものくだらないやり取りを抜けて、あの日にたどり着いた。


『デートどうだった? お母さんに報告しなさい!』


たった一行。

三十分かけて書かれた、たった一行。


私はその文字を、しばらくのあいだ見つめていた。


歩き出そうとした時、スマホが震えた。

千夏からだった。


『姉ちゃん、目ぇ真っ赤にして帰ってきた』


心臓が、ぎゅっと縮んだ。


『でもさ。ご飯、おかわりしてた』


思わず、道の真ん中で笑ってしまった。


『しばらく前の姉ちゃん、ご飯全然食べられてなかったから。……なんか、久しぶりにちゃんと生きてる感じだった』


『美咲ちゃん。ちゃんと話してくれて、ありがと』


私は立ち止まって、しばらくその画面を見つめていた。


葵が部屋に閉じこもったあの日も、千夏からのメッセージで全部が動き出した。

『美咲ちゃん、何が起きてるか知ってる?』と、震えるような文字で。


あれから、ずいぶん遠くまで来た気がする。


『こちらこそ。……千夏、ありがとう』


そう返信して、私はスマホをポケットにしまった。


---


夜。


自分の部屋のベッドに寝転がって、天井を見上げた。


葵にちゃんと言えた。

嘘もつかず、誤魔化しもせず、逃げもせずに。


胸の中には、確かな痛みが残っていた。

葵を傷つけた痛み。誰かの六年間に、はっきりと終わりを告げた痛み。

たぶんこれは、簡単には消えない。


でも、その痛みの隣に、もう一つの気持ちがあった。


会いたい。


高いポニーテールと、真っ直ぐな瞳と、うるさいくらい元気な声。

私の欠点を全部数え上げて、それを好きだと言ってくれた、あの子に。


私はスマホを手に取って、メッセージ画面を開いた。

あの子の名前をタップして、そこで指を止める。


『すみれちゃん。今度の日曜日、空いてる?』


送信ボタンを押すまでに、十秒くらいかかった。


既読は、驚くほどすぐについた。


『空いてます!! どこ行きますか!?』


その勢いに、思わず笑ってしまう。

本当に、いつだってこの子はこうだ。


『下北沢。……話したいことがあるんだ』


しばらく、既読のまま返事が来なかった。


やがて、短い返信が届いた。


『はい。待ってます』


その返信を見つめながら、私は目を閉じた。


話したこともない後輩に告白されて、私はただ戸惑っていた。

どうして私なんだろう、その「好き」は偽物じゃないか、と。


今度は、私の番だ。

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