一番いい席
体育館であの子と泣いた日から、三日が過ぎた。
朝、教室に入ると、葵はもう席にいた。
窓際から差し込む秋の光が、机に広げたノートの上で細かく揺れている。
「おはよ、美咲」
「おはよ」
前と同じ挨拶。前と同じ席。
でも、私たちの間にはまだ、見えない壁が残ったままだった。
一時間目の準備をしていると、葵が消しゴムを拾うふりをして、こちらに顔を寄せてきた。
「ねえ、美咲。今日、この後って空いてる?」
心臓が、静かに跳ねた。
「……空いてるよ」
「じゃあさ。……中学校、行かない?」
「中学校?」
思わず聞き返した。
「うん。あのへん、久しぶりに歩きたくて」
葵は前を向いたまま、ノートに何かを書き足すふりをしていた。
指先が、シャープペンシルの尻を意味もなくカチカチと鳴らしている。緊張している時の、昔からの癖だ。
「うん。行こう」
私がそう答えると、葵はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
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放課後。
電車に揺られて、私たちは久しぶりにあの駅で降りた。
改札を出た瞬間、街の匂いが変わった気がした。
高校に上がって、葵の家が引っ越して、それきりほとんど来なくなった街だ。それでも足は、何も考えなくても勝手に進んでいく。
私たちは並んで、中学の三年間、毎日歩いた道を辿った。
大通りではなく、住宅街を抜ける遠回りのほう。
二人でだらだら喋りながら帰るなら、こっちの道のほうが長くていいね、と言って選んだ道だった。
「この道さ、ほんと変わんないよね」
葵が、電柱の落書きを指差して笑った。小学生が描いたらしい下手くそな猫の絵は、私たちが中学生の頃からずっとそこにある。
「猫、まだいるんだ」
「いるよー。私、去年見た時ちょっと感動したもん」
「なにそれ」
たわいのない話をしながら、私たちはゆっくり歩いた。
急ぐ理由なんてどこにもなかった。むしろ二人とも、この時間が終わらなければいいと思っているみたいだった。
角を曲がったところに、古いコンビニがある。
「寄ってく?」
葵が言った。
「うん」
聞かなくても分かっていた。私たちは中に入って、迷いもせずアイスのケースの前に立った。
昔からずっと同じだ。中学の帰り、テストが終わった日、夏の部活帰り。二人で一つを買って、半分こする。
店を出たところで、葵が袋からパピコを取り出した。
チョココーヒー。中学の頃から一度も変わっていない選択だ。
葵は二本のチューブを握ると、ぱきん、と根元をひねって割った。
それから片方を両手で挟んで、指の腹でしばらく揉んでいる。
「なにしてんの」
「凍りすぎ。揉んどかないと出てこないでしょ」
やがて葵は、柔らかくなったほうを私に差し出してきた。
「はい、美咲の」
自分の分を先に揉んだことなんて、たぶん一度もない。
昔からずっと、この順番だった。
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コンビニを出て、少し歩いたところにある小さな公園に入った。
滑り台とブランコと、色の褪せたベンチが一つあるだけの、狭い公園。
夕方の光が斜めに差し込んで、地面に長い影を作っている。
私たちはベンチに並んで座った。
アイスを少しずつ吸いながら、しばらく何も喋らなかった。
「……美咲」
葵が、先に口を開いた。
「うん」
「今から、私の話をするね」
パピコを握る手に、少しだけ力が入るのが見えた。細いチューブが、指の形にへこんでいる。
「聞いてほしいの。返事はその後でいい。……途中で止めないで、最後まで聞いてほしい」
「……分かった」
葵は前を向いたまま、ゆっくりと息を吸った。
「私、美咲のことが好き」
秋の風が、公園の木を鳴らした。
「友達としてじゃなくて。親友としてでもなくて。……恋愛として、美咲のことがずっと好きだった」
聞こえていた言葉だった。
千夏から聞かされて、あの子に暴かれて、もう知っているはずの言葉だった。
でも、葵自身の口から、まっすぐに言われるのは初めてだった。
同じ言葉なのに、まるで別のものみたいに重かった。
「中二の秋くらいから、だと思う」
葵は、記憶を確かめるように話し始めた。
「あの頃、美咲が同じクラスの男子に告白されたことあったでしょ。覚えてる?」
「……あー、うん。断ったやつ」
「うん。あの時ね、美咲が『どうしよう』って私に相談してきて。私、ちゃんと相談に乗ってあげたんだよ。断るなら早いほうがいいとか、そういうこと言って。……でも家に帰った後、自分でもびっくりするくらい機嫌が悪くなったの」
葵は小さく笑った。自嘲するような笑い方だった。
「なんでこんなにイライラするんだろうって、しばらく分かんなかった。友達が告白されたら、普通は嬉しいはずでしょ。冷やかしたりして。……そういうふうにできない自分が、気持ち悪かった」
「葵……」
「止めないでって言ったじゃん」
「……ごめん」
葵はパピコをひと口だけ吸って、小さく息を吐いた。
「気づいたのは、その年の冬。美咲が風邪で三日休んだ時。……三日だよ。たった三日、隣の席が空いてただけで、私、学校が全然面白くなくなったの。授業のノート取りながら、何回も横を見ちゃって。それで、ああ、これはそういうことなんだって」
夕陽が、葵の横顔をオレンジ色に染めていた。
私はその横顔を、まともに見ることができなかった。
「そこからは、隠すことばっかり考えてた」
葵の声のトーンが、少しだけ低くなった。
「言ったらどうなるかなんて、簡単に想像がついたから。美咲は優しいでしょ。だから、私が困らないように、すごく悩むと思ったの。それで、たぶん少しずつ距離を取る。悪気なんてなくて、ただ気を遣って。……そしたら私は、美咲の一番近くにいられなくなる」
葵は手の中のパピコを見つめたまま、続けた。
「私ね、計算したの。中学生のくせに、ちゃんと計算した。恋人になれる可能性は、たぶん低い。でも、親友でいられる確率はほぼ百パーセント。……だったら、確実なほうを取ろうって」
「……」
「『親友』って、一番いい席なんだよ」
その言葉に、胸の奥が鈍く軋んだ。
「恋人は別れることがあるけど、親友は別れないの。隣の席で、毎日おはようって言って、宿題見せてって言われて、帰りにアイス半分こして。……誰よりも近くにいられて、しかも絶対に失わない。そんな席、他にないでしょ」
葵はそこで初めて、こちらを向いた。
「だから私、その席に座り続けたの。何年も。……ずるいでしょ」
私は首を横に振ろうとした。でも、葵がそれを制するように小さく手を上げた。
「ずるいんだよ。だって私、美咲に選ばせなかったんだもん。私の気持ちを一回も見せないで、美咲が断る機会も、選ぶ機会も、全部取り上げて、勝手に一番いい席に座ってたの。……それって、優しさじゃなくて、ただの独占だよ」
「そんなこと……」
「あるの」
葵はきっぱりと言った。
「小川さんを見て、分かったんだ。あの子は、断られるって分かってて言いに行ったでしょ。話したこともない相手に、いきなり。あんなの無謀だし、迷惑だし、正直ちょっと馬鹿だと思った」
葵の目に、うっすらと涙が滲み始めた。
「でもあの子は、美咲にちゃんと選ばせたんだよ。断る自由をあげたの。私が四年間、絶対にやらなかったことを、あの子は出会って三日でやったの」
葵の声が、初めて震えた。
「私、あの子のことが嫌いだった。憎らしかった。……でも、あの子のほうがずっと誠実だって、本当は最初から分かってたんだよ」
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風が吹いて、公園の砂を巻き上げた。
葵は目元を手の甲で拭って、無理やり笑顔を作った。
「あと、ひとつだけ言っていい?」
「……うん」
「前に美咲がさ、ふざけて『葵お母さん』って言ったことあったでしょ」
「……あー、うん。あったね」
「あれ聞いた時、正直ちょっとだけ嫌だったんだよ」
心臓が、どくりと鳴った。
「でもね、同時にこう思ったの。……これ、便利だなって」
「……便利?」
葵は前を向いたまま、小さく頷いた。
「美咲が初めてあの子と下北沢に行った日。私、メッセージ送ったよね」
覚えている。忘れるはずがない。
帰りの電車で、隣で眠るあの子の重みを肩に感じながら読んだ、あの一行。
『デートどうだった? お母さんに報告しなさい!』
「あれね」
葵は笑ったまま、少しだけ声を掠れさせた。
「送るまでに、三十分かかった」
「……え」
「何回も書いて、何回も消したの。『どうだった?』だけだと重いかなとか、ビックリマークつけたほうが軽く見えるかなとか。……で、最後に『お母さん』って足した」
葵は膝の上で両手を握った。
「自分で名乗ったんだよ。お母さんですって。……そうやって先に線を引いておけば、美咲は絶対に気づかないでしょ」
私は、何も言えなかった。
あの一行を、私はただの軽口だと思っていた。
世話焼きの葵らしい、いつもの冗談だと。
違ったのだ。
あれは、葵が自分の手で自分に貼った札だった。
恋人じゃない、ライバルでもない、ただの保護者。そう名乗ってしまえば、私は何ひとつ疑わずに済む。
「返事もらった後さ」
葵の声が掠れた。
「布団の中で、ちょっとだけ泣いた」
「あともうひとつだけ」
葵はまた笑った。今度はもう、涙を隠していなかった。
「美咲が『私なんて』って言うたびに、私、めちゃくちゃ腹が立ってたの」
「……え」
「自分は友達少ないとか、話すの下手とか、可愛くないとか。美咲、息をするみたいに言うでしょ。……あれ聞くたびに、私、本気で怒ってたんだよ」
葵は、涙を拭いもせずに私を見た。
「だってさ。私が世界で一番好きなものを、本人が一番雑に扱ってるんだよ。許せるわけないじゃん」
――『だから、自分のこと下げるようなこと言わないで』
初めてあの子とデートに行く前、葵がやけに強い口調で言った言葉。
あの時の、あの真剣な顔の理由が、四年越しに私の前に落ちてきた。
「……葵」
「以上。私の話、終わり」
葵は大きく息を吐いて、ベンチの背もたれに体を預けた。
「……で。美咲の答え、聞かせて」
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私は、手の中のパピコを握りしめた。
中身はとっくに溶けきって、ただの生ぬるい液体になっていた。
言葉を探した。
でも、ここで綺麗な言葉を探すのは、たぶん一番やってはいけないことだった。
「葵」
「うん」
「私は、葵に恋をしてない」
葵の肩が、びくりと震えた。
言った瞬間、自分の喉の奥に鉄の味が広がったような気がした。
でも、ここを曖昧にしたら、あの美術室で葵を傷つけたのと同じことを繰り返すことになる。
「ずっと考えた。ライブハウスに一人で行って、爆音の中で必死に考えた。葵のことを思い出して、あの子のことを思い出して、何が違うんだろうって、何回も何回も考えた」
「……うん」
「葵に会えない日があっても、私は眠れた。葵が他の子と楽しそうにしてても、苦しくならなかった。……でも、あの子のことを考えると、胸が痛くなる。会えないと寂しくなる。それが答えだった」
葵は前を向いたまま、小さく頷いた。頷きながら、涙がぼたぼたと膝に落ちていた。
「……知ってた」
葵が掠れた声で言った。
「知ってたよ。ずっと前から知ってた。美咲があの子の話をする時の顔、見てれば分かるもん。私、そういうの分かっちゃうんだよ。昔から」
葵はそこで、初めて声を上げて泣いた。
「でもさ。……知ってるのと、聞くのは、全然違うんだね」
私は、葵の背中に手を伸ばそうとして、途中で止めた。
今それをするのは、優しさじゃない気がした。
代わりに、私はもう一つ、言わなければならないことを言った。
「葵。もう一個、言わせて」
「……なに」
「葵への私の気持ちは、恋じゃない。それは何回考えても変わらなかった。……でも」
そこで、言葉に詰まった。
違う、ということは分かる。でも、その違いを「どっちが上か」の話にしてしまったら、たぶん全部が嘘になる。
「でも、恋じゃないから軽いなんてこと、絶対にない」
葵が顔を上げた。
「……どういう意味」
「うまく言えないんだけど」
私は膝の上で手を組んで、必死に言葉を探した。
「あの子への気持ちは、熱いんだよ。会いたくて、声が聞きたくて、他の誰かのものになったらどうしようって怖くなる。ぐらぐらして、落ち着かなくて、自分が自分じゃなくなるみたいな」
「うん」
「葵への気持ちは、それとは全然違う。熱くない。ぐらぐらもしない。……でも、なくなったら、私はたぶん立てなくなる」
葵の唇が、小さく震えた。
私は、公園の隅にある小さな花壇に目をやった。
夏の花はとっくに終わっていて、今はただ黒い土が剥き出しになっている。
それでも春になれば、誰が世話をするでもなく、同じ場所から同じ芽が出てくるのだ。
「あの子への気持ちは、これから咲くやつなんだと思う。まだ蕾で、どうなるか全然分かんなくて、私の手で枯らしちゃうかもしれないやつ」
「……うん」
「でも、葵への気持ちは根っこなんだよ」
葵が、こちらを向いた。
「ずっと地面の下に伸びてて、目に見えないし、綺麗でもないし、誰にも褒めてもらえないやつ。……でもさ。根っこがなかったら、花なんか一個も咲かないじゃん」
「……美咲」
「私があの子の『好き』をちゃんと考えようって思えたの、葵のおかげなんだよ」
葵の目が、大きく見開かれた。
「覚えてる? 私があの子に告白された日。私、『好きって、そんな簡単なものなの?』みたいなこと言ったでしょ。そしたら葵、めちゃくちゃ怒ったじゃん」
――『恋心って美咲が思っているより大切なものなの! 好きな気持ちを簡単だって決めつけないで!』
あの時の葵の顔を、今でもはっきり覚えている。
なんでこんなことで怒るんだろうと、あの頃の私は本気で不思議に思っていた。
今なら分かる。
あれは、葵が自分の心を守るために叫んだ言葉だった。
自分が四年間抱えてきたものを「簡単なもの」だと言われて、黙っていられるはずがなかったのだ。
「あの一言がなかったら、私、あの子のこと最後まで真面目に考えなかったと思う。話したこともない後輩の勘違いだって、それで終わらせてた」
「……なにそれ。私、自分で背中押しちゃったってこと?」
葵が、泣きながら情けない顔で笑った。
「そうだよ。全部葵のせい」
「最悪じゃん……」
「うん。でもね」
私は、まっすぐに葵の目を見た。
「私が誰かをちゃんと好きになれる人間になれたのは、葵がずっと、そういうふうに私を育ててくれたからなんだよ」
葵は口を開いて、何も言えずにまた閉じた。
「私、すみれちゃんに教えてもらったことがあるんだ」
体育館の、夕陽に染まったコートを思い出す。
泣きながら私の欠点を並べ立てた、あの真っ直ぐな声を。
「気持ちの始まりがどこにあっても、それが本物かどうかは、別の話なんだって。……あの子は、私の後ろ姿を誰かと間違えて見つけたんだよ。それでも、あの子の好きは本物だった」
「……うん」
「同じだよ、葵。恋にならなかったからって、私たちの六年が偽物になるわけない」
私は、さっき歩いてきた道のほうに目をやった。
遠回りの通学路。電柱の下手くそな猫。迷いもせずアイスのケースに向かう足。先に揉んで柔らかくしてから渡してくれる手。
どれも、二人で六年かけて作ってきたものだ。
「この道も、アイスの半分こも、隣の席も。……全部、私と葵の形なんだよ。恋じゃないけど、私はこれを、世界で一番守りたい」
「……っ」
「一番いい席って言ったよね。あの席、葵が勝手に座ってたんじゃないよ。……私が、座っててほしかったの」
葵の表情が、ぐしゃぐしゃに崩れた。
「……ずるい」
葵は両手で顔を覆った。
「ずるいよ、美咲。そんな言い方されたら、嫌いになれないじゃん……!」
「嫌いにならないで。……お願いだから」
「なれないってば……!」
葵は声を上げて泣いた。
四年分の何かが、その泣き声の中に全部混ざっているような気がした。
私はもう我慢しなかった。
横から、葵の肩に腕を回して、その頭を自分の肩に押し付けた。
葵は抵抗しなかった。私の制服を掴んで、子供みたいに泣き続けた。
夕陽が、二人の影を長く長く、砂の地面に伸ばしていた。
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どれくらいそうしていただろう。
葵はひとしきり泣いた後、鼻をすすりながら私から離れた。
目も鼻も真っ赤で、ひどい顔だった。たぶん、私も同じような顔をしていた。
「……あのさ、美咲」
「うん」
「小川さんには、もう言ったの? 好きだって」
私は首を横に振った。
「まだ、何も言ってない」
葵が驚いたようにこちらを見た。
「なんで? もう気持ち決まってるんでしょ」
「決まってるよ。……でも、葵に先に言いたかったから」
葵の目が、丸くなった。
「……なにそれ。なんで私が先なの」
「順番、間違えたくなかったんだよ」
葵が、ぽかんとした顔をした。
それから、泣き腫らした顔のまま、ぶはっと吹き出した。
「それ、私が言ったやつじゃん……!」
「そうだよ。葵が言ったやつだよ」
「ずるいってば、ほんとに……」
葵は笑いながら、また少し泣いた。
「……美咲さ」
「ん」
「私、しばらく、前みたいには無理かも」
葵の声は、落ち着いていた。
「一緒に帰ったり、普通に喋ったりはできると思う。でも、前みたいに何も考えないで美咲の隣にいるのは、たぶんまだ無理。……見るたびに、たぶんちょっと痛いから」
「……うん」
「時間、もらってもいい?」
「どのくらい?」
「分かんない。一ヶ月かもしれないし、一年かもしれない」
葵は空を見上げた。夕焼けの端が、もう夜の色に変わり始めていた。
「でもね、美咲」
葵はこちらを向いて、涙の跡だらけの顔で、はっきりと笑った。
「絶対に戻ってくるから。絶対に、また美咲の隣に座るから。……だから、その席、空けといてよ」
私は、うまく返事ができなかった。
かわりに、何度も何度も頷いた。
「待ってる。ずっと待ってるから」
「うん」
「何年でも待つ」
「重いってば」
葵が笑って、私の肩を軽く叩いた。
その手の感触が、あの美術室の日からずっと張り詰めていた何かを、少しだけ緩めてくれた気がした。
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公園を出て、私たちは駅への道を戻った。
途中に、小さな分かれ道がある。
中学の三年間、毎日ここで「じゃあね」と言っていた場所だ。私は右、葵は左。
「この道さ」
葵がぽつりと言った。
「毎日ここで別れるの、地味に嫌だったんだよね」
「今言う?」
「今しか言えないじゃん」
私たちは笑って、今日はどちらにも曲がらずに、そのまま真っ直ぐ歩いた。
どこかの家の庭から、金木犀の匂いがした。
毎年、同じ時期に、同じ場所で、誰に頼まれるでもなく咲く花だ。
去年もあった。一昨年もあった。たぶん来年も、私が忘れている間に勝手に咲くのだろう。
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駅に着いて、改札の前で立ち止まった。
「じゃ、私こっちだから」
葵が手を上げた。
「うん。またね」
言いかけて、私は少しだけ言い直した。
「……またね、葵」
ただの名前だ。
お母さんでも、親友でもない。何の札も貼らない、彼女自身の名前。
葵は一瞬きょとんとして、それから、何かに気づいたような顔で笑った。
「……うん。またね、美咲」
そう言って、葵は改札を抜けていった。
その背中は、美術室で泣いて逃げた時のように小さくはなかった。
まっすぐで、少し寂しくて、でも確かに前を向いていた。
人混みに紛れて見えなくなるまで、私はその背中を見送っていた。
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家に帰る途中、私はスマホを取り出して、葵とのトーク画面を開いた。
指で、ずっと上まで遡っていく。
授業のノートの写真、テストの愚痴、意味のないスタンプの応酬。何ヶ月分ものくだらないやり取りを抜けて、あの日にたどり着いた。
『デートどうだった? お母さんに報告しなさい!』
たった一行。
三十分かけて書かれた、たった一行。
私はその文字を、しばらくのあいだ見つめていた。
歩き出そうとした時、スマホが震えた。
千夏からだった。
『姉ちゃん、目ぇ真っ赤にして帰ってきた』
心臓が、ぎゅっと縮んだ。
『でもさ。ご飯、おかわりしてた』
思わず、道の真ん中で笑ってしまった。
『しばらく前の姉ちゃん、ご飯全然食べられてなかったから。……なんか、久しぶりにちゃんと生きてる感じだった』
『美咲ちゃん。ちゃんと話してくれて、ありがと』
私は立ち止まって、しばらくその画面を見つめていた。
葵が部屋に閉じこもったあの日も、千夏からのメッセージで全部が動き出した。
『美咲ちゃん、何が起きてるか知ってる?』と、震えるような文字で。
あれから、ずいぶん遠くまで来た気がする。
『こちらこそ。……千夏、ありがとう』
そう返信して、私はスマホをポケットにしまった。
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夜。
自分の部屋のベッドに寝転がって、天井を見上げた。
葵にちゃんと言えた。
嘘もつかず、誤魔化しもせず、逃げもせずに。
胸の中には、確かな痛みが残っていた。
葵を傷つけた痛み。誰かの六年間に、はっきりと終わりを告げた痛み。
たぶんこれは、簡単には消えない。
でも、その痛みの隣に、もう一つの気持ちがあった。
会いたい。
高いポニーテールと、真っ直ぐな瞳と、うるさいくらい元気な声。
私の欠点を全部数え上げて、それを好きだと言ってくれた、あの子に。
私はスマホを手に取って、メッセージ画面を開いた。
あの子の名前をタップして、そこで指を止める。
『すみれちゃん。今度の日曜日、空いてる?』
送信ボタンを押すまでに、十秒くらいかかった。
既読は、驚くほどすぐについた。
『空いてます!! どこ行きますか!?』
その勢いに、思わず笑ってしまう。
本当に、いつだってこの子はこうだ。
『下北沢。……話したいことがあるんだ』
しばらく、既読のまま返事が来なかった。
やがて、短い返信が届いた。
『はい。待ってます』
その返信を見つめながら、私は目を閉じた。
話したこともない後輩に告白されて、私はただ戸惑っていた。
どうして私なんだろう、その「好き」は偽物じゃないか、と。
今度は、私の番だ。




