↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花咲くこころ  作者: えーあいキッズ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/16

あなたじゃない人

月曜日の朝。


目覚まし時計が三回鳴って、ようやく手を伸ばした。

布団を被ったまま天井を見つめる。見慣れたはずの天井が、やけに遠い。


頭の中で、彼女の声が繰り返されている。

昨日も一昨日も、ずっと。止まらない。


『後ろ姿が、お姉ちゃんに似てて』


『私の好きは、お姉ちゃんの代わりなんじゃないかって、ずっと怖かったんです』


布団を頭まで引き上げて、目を閉じた。


……やっぱり、そうだったんだ。


あの日、私に向けられた「好き」は、私を見ていなかった。

あの真っ直ぐな瞳は、私の後ろに立っている、もういない誰かを見ていた。


ずっと、心のどこかで怯えていたことだ。

突然告白された時から、胸の奥にわだかまっていた疑い。


『私のことよく知らないで"好き"なんて勝手じゃないか。その"好き"は偽物ではないか』


あの問いの答えが、今、はっきりと突きつけられた気がした。


偽物だったのだ。

少なくとも、始まりは。


私は、誰かの代わりだった。


---


制服に着替えて鏡の前に立った時、自分の姿が急に嫌になった。


スラっとした長身。ショートカット。ぶっきらぼうな目つき。

葵に「男の子みたい」とからかわれていた、この見た目。


彼女の言葉が重なる。


『背の高い、ショートカットの先輩が歩いてたんです。後ろ姿が、お姉ちゃんに似てて』


この体は、この後ろ姿は、もういない人の影なのか。

彼女が追いかけていたのは、私じゃなくて、この輪郭に重なる面影だったのか。


鏡の中の自分と目が合った。

どこにでもいそうな、特別なところなんて何もない女子高生。

友達は少なくて、推薦でしか行ける大学もなくて、授業中はいつも寝ていて。

自分を好きになってくれる理由なんて、最初から何もなかったのに。


それなのに、あの子の真っ直ぐな瞳に、勝手に胸を温められていたのだ。


馬鹿みたいだ。


---


学校に着いても、頭の中は霧がかかったように重かった。


「おはよ、美咲」


葵が声をかけてくれた。あの美術室の日以来、少しずつ距離を戻しつつある声。ぎこちなくても、確かに温かい声。


「……おはよ」


返事がひどく素っ気なくなってしまった。葵が一瞬不安そうな顔をしたけれど、何も聞かずにそのまま席についてくれた。


今の私が壊れかけていることに、葵はきっと気づいている。

でも、今は葵に助けを求めることも、理由を話すこともできなかった。彼女が打ち明けてくれた過去を、本人の許可なく他の誰かに話す権利は私にはない。


昼休み。スマホの画面に、彼女からのメッセージが届いていた。


『美咲先輩、お昼ごはん一緒に食べませんか?』


いつもなら、その絵文字付きのメッセージにくすっと笑って、「いいよ」と返すところだった。


でも今は、その文字列を見るだけで、胸の奥がぎゅっと絞られるように痛んだ。


この子は今、私にメッセージを送りながら、何を見ているのだろう。

町田美咲という人間を見ているのか。それとも、この体に重なる面影を見ているのか。


『ごめん、今日はちょっと体調悪くて。また今度ね』


嘘をついた。

送信した後、自分が嫌になった。


---


翌日も、その翌日も、私は彼女を避け続けた。


廊下で高いポニーテールが揺れるのが見えると、反射的に別のルートを選んだ。

昼休みに彼女が教室を覗きに来た時は、トイレに逃げた。

メッセージには最低限の返事だけ返して、話を広げないようにした。


三日目の放課後。


彼女が、教室の前で待っていた。

柱の影から少しだけ顔を覗かせて、不安そうにこちらを見ている。


目が合った。


彼女の瞳が揺れた。何か言おうとしたけれど、私の表情を見て、口を閉じた。


「……先輩」


「ごめん。今日、ちょっと用事あるんだ」


嘘だった。用事なんて何もない。ただ、この子の顔を見ていると、頭の中であの言葉がぐるぐる回って、息ができなくなる。


彼女は、何も言わなかった。

ただ、小さく頷いて、一歩下がった。


その横を通り過ぎる時、彼女の指先が微かに震えているのが見えた。


分かっている。傷つけていることは分かっている。

あの日、命がけで正直に話してくれたのに、私はそれに何も返さないまま逃げている。


でも、どうしたらいいのか分からなかった。


「やっぱり私は誰かの代わりだったんだ」という声が、頭の中で止まらないのだ。


---


四日目の朝。


教室に入ると、葵が自分の席で何かを書いていた。私が近づくと、さりげなくノートを閉じた。


「美咲。ちょっといい?」


「なに?」


葵は少し言いづらそうに、でもまっすぐ私を見た。


「最近、小川さんに会ってないでしょ」


心臓が跳ねた。


「……なんで」


「千夏から聞いた。小川さん、最近元気がないって。部活中もぼーっとしてるし、居残り練習もしなくなったって」


居残り練習。汗だくで、シュートが入らなくても何度も何度もボールを拾い上げていた、あの姿。それをやめてしまったということは。


「……そう」


「美咲。何があったかは聞かない。聞けるような雰囲気じゃないことくらい分かるし。でもね」


葵は小さく息を吐いた。


「小川さん、美咲のこと、ちゃんと好きだと思うよ。……これは私が言うことじゃないかもしれないけど。あの子の目を見てたら、分かるから」


葵の声は穏やかだった。自分もまだ傷を抱えているはずなのに、その上で私の背中を押そうとしてくれている。


「……葵は、それでいいの」


聞いてから、しまったと思った。ずるい聞き方だ。

葵は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく笑った。


「よくないよ。全然よくない」


はっきりと、そう言った。


「私のことは、まだ何も終わってないから。ちゃんと言わなきゃいけないことがあるし、美咲から聞かなきゃいけない答えもある。……でも、それは今日じゃない」


葵は鞄のストラップを握り直した。


「今の美咲、小川さんのことで頭がいっぱいでしょ。そんな状態の美咲に私の話をしたって、困らせるだけだもん。順番だけは、間違えたくないの」


「葵……」


「だから、先に小川さんと向き合ってあげて。あの子は、美咲のために泣ける子だから」


私は何も言えず、ただ頷いた。


---


その日の放課後。


鞄を肩にかけ、校舎を出ようとした時、千夏に会った。


「あ、美咲ちゃん。お疲れー」


「千夏、お疲れ。……部活は?」


「これからだよー。あ、そういえば」


千夏は何気ない調子で、体育館の方を顎で指した。


「小川、最近ちょっと変なんだよね。全体練習は出るんだけど、居残り全然しなくなっちゃって。なのに帰り際にコートの方じーっと見てるの。変だよね」


「……」


「あと、これ前からずっと気になってたんだけどさ」


千夏は首を傾げて、本当に不思議そうに言った。


「小川、バスケ初心者なのに、なんで入部したんだろうね」


その一言が、凍りついていた私の胸を、小さく叩いた。


千夏は何の意図もなく言っただろう。ただの素朴な疑問。

でもその問いの答えを、私は知っている。


彼女がバスケを始めた理由。

砂糖控えめのクッキーを焼く理由。

話したこともない相手にいきなり告白した理由。


全部、全部、あの子が一人で抱えてきた痛みに繋がっている。


「千夏。……すみれちゃん、今日も体育館にいる?」


「ん? たぶんいると思うけど。全体練習はあと三十分くらいで終わるよ」


「……ありがとう」


「あ、美咲ちゃん!」


千夏が背中に声をかけてきた。振り返ると、千夏はいたずらっぽくも真剣な表情で、小さく親指を立てていた。


---


体育館の前に立つのは、あの日以来だった。


バッシュが床を鳴らす音と、ボールが弾む音が扉越しに聞こえてくる。

まだ全体練習中だ。


私は扉の外で待った。


前にも、ここで待ったことがあった。

あの時は、葵に「すみれちゃんが頑張ってる」と聞かされて、なんとなく足を運んだだけだった。初心者なのに毎日居残りしている彼女の姿を見て、その一生懸命さに胸が温かくなって、ドリンクを渡して頭を撫でた。


でも今は違う。

今は、あの一生懸命さの裏にあったものを知っている。


お姉さんが走っていたコートだということ。

もう走れなくなった人の代わりに、あの子が自分の足でそこに立とうとしていたこと。


練習が終わったらしく、体育館の中が急に静かになった。

部員たちが笑い声を立てながら出てくる。千夏も出てきて、私の姿を見ると、小さく頷いて先に行ってくれた。


しばらくして、体育館の中が完全に静かになった。

扉の隙間から覗くと、誰もいなくなったコートの端に、一人だけ残っている姿が見えた。


彼女はジャージ姿のまま、コートのフリースローラインの辺りに立っていた。

ボールは持っていない。ただ、ゴールを見上げている。

千夏が言っていた、「帰り際にコートの方じーっと見てる」というのは、これだったのか。


その横顔は、初めてここでシュート練習をしていた時の、汗だくで必死な顔とは全然違っていた。

何かを失くした人の、空っぽな表情だった。


胸が、ぎゅっと締め付けられた。


「すみれちゃん」


声をかけると、彼女が弾かれたように振り向いた。


「み、美咲先輩……?」


驚きと困惑と、それから、泣きそうなのを必死に堪えているような表情が、一瞬で入り混じった。


「……どうして、ここに」


「話がしたくて」


彼女の目が揺れた。

四日間、避け続けた私が、突然ここに現れたのだ。怯えるのも当然だった。


「あの……先輩、体調は」


「嘘だったの。体調悪いって言ったの、嘘。ずっと逃げてただけ」


彼女は息を呑んだ。


私は体育館の中に足を踏み入れた。

バッシュの代わりにローファーのコツコツという音が、がらんとした空間に響く。


彼女の前に立った。

まっすぐに、目を見た。


「すみれちゃん。この間の話で、まだ聞けてないことがある」


「……はい」


「千夏に『先輩にカッコいいところ見せたい』って言ってたよね。あれも、嘘だったの」


彼女は小さく首を振った。


「嘘じゃないです。カッコいいところ、見せたかったのは本当です。でも……それが全部じゃなかった。お姉ちゃんのことは誰にも話してなかったから。千夏――宮原にも。本当の理由を説明できなくて、一番分かりやすい理由を言っただけです」


彼女は、誰もいなくなったコートに目をやった。


「……お姉ちゃんが死んでしばらくは、ボールが弾む音を聞くだけで耳を塞ぎたくなってました。体育の授業も、ずっと見学させてもらってたくらいで」


「そんなに」


「はい。だから高校で入部するって決めた時、自分でも驚きました。……お姉ちゃんが見てた景色を自分の目で見てみたかったんだって、そう思いたかったんですけど。正直、それが代わりなのかどうかも、自分では分からないです」


教室で受け取った、あの砂糖控えめのクッキー。

『先輩のことだけを考えて作った特別なクッキーです!』――あの言葉に嘘はなかったはずだ。でも、その手つきの根っこには、病室に通い続けた日々がある。


私のために作られたものの中に、姉の記憶が混ざっている。

それは嘘なのか。本物なのか。


クッキーも、コートも、あの日の告白も。

彼女の行動の裏には、全部、亡くなった姉の影があった。


分かっていたはずだった。頭の中では、とっくに全部繋がっていた。

でも、こうやって本人の口から一つ一つ確かめさせられると、「代わり」という言葉がどんどん大きくなって、私の中を埋め尽くしていく。


「……やっぱり、私は」


声が震えた。


「お姉ちゃんの代わりだったんだね」


彼女が、はっと顔を上げた。


「違い……」


「後ろ姿が似てたから私を見つけて、バスケもクッキーもお姉ちゃんから来てて。……すみれちゃんの周りにあるもの、全部お姉ちゃんに繋がってるじゃん。だったらやっぱり、私は」


「違います」


彼女の声が、急に強くなった。


「それは……違います。違うんです。でも、私には証明できなくて、だからずっと怖くて……」


彼女は苦しそうに胸を押さえた。


「先輩。一つだけ、聞いてもらえますか」


「……何」


「お姉ちゃんは、絶対にしなかったことがあります」


彼女は、私の目をまっすぐに見た。

涙が溜まっているのに、その瞳は逸れなかった。


「お姉ちゃんは、授業中に寝ません」


「え?」


唐突すぎて、意味が分からなかった。


「お姉ちゃんは真面目な人でした。授業中に寝るなんて絶対にしなかった。推薦でいいやーなんて言わないし、宿題を人に見せてもらうこともしないし、ぐうたらなんて言葉は辞書にない人でした」


彼女の声が、少しだけ笑いを含んだ。泣きながら笑おうとしている、あの不器用な表情。


「先輩は、授業中に寝ます」


「……いや、それは」


「先輩は、ぐうたらです」


「いきなりひどくない?」


「先輩は、自分のことをすぐ卑下します。『私なんて』って、息をするみたいに言います」


「……」


「先輩は、冗談で毒を吐きます。『突然話したこともない相手に告白するような人の気持ちなんて微塵もわかるわけないじゃない!』って、平気で言います」


それは、初めて一緒にライブハウスに行った日に私が言った台詞だった。

彼女が「音を浴びると強くなれる気がする」と言った後の、私の返し。


「お姉ちゃんだったら、あの時、どうしたと思いますか」


彼女は私から目を逸らさないまま、続けた。


「お姉ちゃんなら、きっと優しく頷いてくれたと思います。『そうだね、分かるよ』って、穏やかに笑って。お姉ちゃんは、そういう人でした。誰の言葉も否定しない、いつも優しい人」


彼女の声が震え始めた。でも、言葉は止まらなかった。


「でも先輩は、笑い飛ばしたんです。『どうかしてるよ!』って」


「……」


「あの瞬間」


彼女の目から涙がこぼれた。


「あの瞬間に、私は初めて、美咲先輩を美咲先輩として見たんです」


体育館の空気が、しん、と凍りついた。


「お姉ちゃんだったら絶対にしない反応をされて、一瞬、すごくびっくりして。でもその次の瞬間、胸がどくどくして、顔が熱くなって、笑い飛ばされたのが嬉しくて仕方なかったんです。なんでだろうって、あの日からずっと考えてました」


彼女は手の甲で涙を拭った。拭っても拭っても溢れてくる。


「お姉ちゃんの優しさは、大好きでした。でも、お姉ちゃんの優しさは……全部受け止めてくれる代わりに、私のことを対等に見てなかった気がするんです。妹だから。小さい子だから。守るべき存在だから。……お姉ちゃんは、私に毒なんて絶対に吐かない。私の言うことを笑い飛ばしたりしない」


「すみれちゃん……」


「でも先輩は、笑うんです。『どうかしてるよ』って。『死なないでよ』って。私の言ったことを真正面から受け取って、馬鹿にして、ツッコんで、それで笑ってくれる。私を、子供扱いしないで、対等に相手してくれる」


彼女は声を震わせながら、それでも一語一語を噛み締めるように言った。


「先輩の欠点が、好きなんです」


私は、言葉を失った。


「授業中に寝るところ。ぐうたらなところ。自分を下げるところ。冗談で毒を吐くところ。お姉ちゃんには、どれ一つなかった。お姉ちゃんの代わりを探してるなら、先輩を好きになるわけがないんです。だって先輩は、お姉ちゃんと正反対だから」


彼女の声は、もう泣き声だった。でも、瞳の光だけは真っ直ぐに私を捉えていた。


「お姉ちゃんの面影で足が止まったのは本当です。後ろ姿が似てたから、目で追い始めたのも本当です。でも、好きになったのは、先輩が振り返ったからです。振り返った先輩は、お姉ちゃんとは全然違う人でした。ちょっと眠そうで、ぶっきらぼうで、すぐ自分を卑下して、でも照れながら頭を撫でてくれて、クレープを半分こしてくれて」


彼女はぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく笑った。


「私が好きなのは、お姉ちゃんじゃないです。町田美咲先輩です。世界中のどこにもいない、授業中に寝てばっかりで、推薦でいいやって開き直って、友達少ないって嘆いて、でもスポーツドリンクをわざわざ買ってきてくれる、私の大好きな先輩です」


涙が止まらなかった。


彼女のじゃない。私の涙が。


ずっと、ずっと、自分が嫌いだった。

ぐうたらで、授業中に寝て、友達も少なくて、自分を卑下することしかできなくて。

彼女に「どうして私なの」と聞き続けたのは、自分を好きになる理由が本当に見つからなかったからだ。


なのに。


この子は、その「理由がない」と思っていた部分を、一つ一つ拾い上げて、「好き」だと言ってくれている。


私が長年、欠点だと思って恥じてきたもの。

直さなきゃいけないと思いながら直せなかったもの。

葵に呆れられ、先生に叱られ、自分でも嫌いだったもの。


それが、彼女の「好き」の中身だった。


「……すみれ、ちゃん」


声がまともに出なかった。喉が詰まって、鼻の奥がつんと痛い。


「先輩、泣かないでくださいよ。私だって泣いてるのに、先輩まで泣いたら、収拾つかなくなるじゃないですか」


「無理だよ……そんなこと言われたら、泣くに決まってるじゃん……」


私は制服の袖で乱暴に顔を拭った。でも涙は止まらない。


「ていうか、私の欠点をそんなに並べて好きだって言う方がどうかしてるでしょ……」


「そういうところです」


「え?」


「そうやってすぐ茶化すところ。お姉ちゃんは絶対にしません。……先輩だけです」


彼女が、泣きながら笑った。

ぐしゃぐしゃの顔で、でも、その笑顔はあの日教室に駆け込んできた時と同じくらい眩しかった。


---


どれくらいそうしていただろう。


体育館の窓から差し込む夕陽が、コートの床をオレンジ色に染めていた。

初めてここに来た時と同じ光景。あの時は彼女が汗だくでシュート練習をしていて、私はスポーツドリンクを渡して頭を撫でた。


今、同じ場所に、泣きはらした二人が立っている。


「……居残り練習、やめちゃったんだって?」


「……はい。先輩に避けられて、何もかもどうでもよくなって」


「千夏が心配してたよ」


「宮原に心配されるなんて、情けないです」


「千夏にバレるくらいだから、よっぽどだよ」


彼女は少しむくれたような顔をした後、小さく鼻をすすった。


「先輩」


「ん」


「私の『好き』は……偽物じゃない、って、信じてもらえますか」


その問いに、すぐには答えられなかった。

でも、さっきとは違う沈黙だった。

「分からない」から黙っているんじゃない。言葉を探しているのだ。この子にちゃんと返すための、嘘じゃない言葉を。


「……まだ全部は分からない。でも」


私は、彼女の目を見た。


「すみれちゃんの好きの中に、お姉ちゃんがいることは、もう怖くない」


彼女の瞳が大きく見開かれた。


「始まりがどこにあったとしても……すみれちゃんが今好きなのは、私の欠点なんでしょ。お姉ちゃんの代わりを探してる人が、こんなポンコツを好きになるわけがない。……って、自分で言ってて悲しくなるけど」


彼女は泣き笑いの顔で首を横に振った。


「ポンコツなんかじゃないです。……ポンコツだけど、でも、私の好きなポンコツです」


「フォローになってないじゃん」


「なってます!」


体育館に、二人の笑い声が響いた。

泣きながらの、ぐしゃぐしゃの笑い声。


千夏が「可愛いですよねー」とからかうように笑った、あの日の場所。

あの時とは全然違う意味で、でも確かに、この場所は私たちにとって特別な場所になっていた。


---


帰り道。


夕焼けに染まった校庭を並んで歩きながら、彼女はぽつりと言った。


「先輩」


「なに」


「ありがとうございました。逃げないでくれて」


「……逃げてたよ、四日間も」


「でも、戻ってきてくれました」


彼女は少し照れくさそうに、ポニーテールの毛先をいじった。


「先輩に聞きたいことがあるって言われた時、正直、怖かったです。全部話したら嫌われるかもしれないって。……でも話して、よかったです」


「……私も。聞けて、よかった」


校門を出る手前で、彼女が足を止めた。


「先輩。居残り練習、また始めます」


「うん」


「今度は、お姉ちゃんの代わりじゃなくて、私のために。……あと、ちょっとだけ、先輩に見てもらうために」


彼女はいつもの真っ直ぐな瞳で笑った。

泣き腫らして赤い目なのに、それでも眩しいくらいの笑顔だった。


「また見に来るから。怪我しない程度にしなよ」


あの日と同じ言葉が、自然と口をついた。


「はいっ! 私、死ぬ気で頑張ります!」


「だから死なないでって」


同じやり取り。同じ場所。同じ夕陽。

でもその言葉の重さは、あの時とは全然違っていた。


帰りの電車の中で、彼女は隣でうとうとしていた。

初めてのデートの帰り道と同じだった。肩がそっと触れる。


でも今は、その温もりの裏に何があるのかを知っている。

この子が抱えてきた痛みも、この子が私を見つけた理由も、そしてこの子が私を好きになった理由も。


スマホを取り出して、メッセージ画面を開いた。

葵の名前をタップする。


『葵。ありがとう。ちゃんと、向き合えたよ』


すぐに既読がついた。


『そっか。よかった。……おつかれ、美咲』


画面を見つめながら、私は隣で眠る彼女の寝顔をそっと見た。


この子が好きなのは、私の後ろ姿じゃない。

振り返った時の、ぐうたらでぶっきらぼうな、ポンコツな私自身だ。


そのことが、こんなにも胸を温かくするなんて、知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。