知らないからこそ
日曜日の午後、私はあの子を下北沢に呼び出した。
あの夜、一人でライブハウスに行った帰り、スマホの画面に打った言葉――『今度、すみれちゃんに聞きたいことがあるんだ』。
あの時はまだ、自分が何を聞くつもりなのか、はっきりとは分かっていなかった。
でも今は、分かっている。
葵への気持ちに、自分なりの区切りをつけた今だからこそ、ずっと聞けずにいた問いに向き合わなければならない。
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待ち合わせは、下北沢の駅前。
改札を出ると、もう彼女は来ていた。高いポニーテールを揺らしながら、きょろきょろと人混みの中を見回している。
「すみれちゃん」
「あっ、美咲先輩! お疲れ様です! ……って、なんか今日、先輩の方が早いですね。珍しい」
「たまにはね」
彼女はいつも通りに微笑んでくれた。でも、その笑顔の端に、ほんの少しだけ不安の色がちらついている。私のメッセージを読んで、何か重い話をされるのだと察しているのかもしれない。
「今日は、どこに行くんですか?」
「クレープ、食べに行こう」
「え、クレープですか! いいですね! ……あそこのお店ですか?」
「うん」
あの路地の角にある、小さなクレープ屋。
初めて二人で来た日、チョコバナナクレープを半分こした場所。
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クレープを買い、あの日と同じベンチに並んで座った。
秋の日差しは柔らかく、街路樹の葉がところどころ色づき始めている。あの時は夜で、街灯の下で冷たい風に吹かれていたけれど、今日は昼間の穏やかな空気がベンチを包んでいた。
「はい、すみれちゃん」
「ありがとうございます! ……えへへ、ここでクレープ食べるの、あの日以来ですね」
「覚えてるんだ」
「当たり前ですよ! 忘れるわけないじゃないですか。先輩と初めて半分こした日ですよ? 私、あの日のこと、一秒も忘れてないです」
彼女は少し照れながらクレープにかじりついた。チョコレートのソースが唇の端についていて、私は思わず笑ってしまう。
「口の横、ついてるよ」
「えっ!? う、嘘、どっち……!?」
慌ててナプキンで拭く彼女を見ていると、胸の奥がじんわり温かくなる。
でも、今日はこのまま笑い合って終われない。
クレープを食べ終え、包み紙を丸めてポケットに押し込んだ。
長い沈黙が流れた。彼女も何かを感じ取ったのか、隣で静かに座っている。
「……すみれちゃん」
「はい」
「前にここで、すみれちゃんが言ってくれたよね。『先輩の好きな世界を見せてくれた気がして嬉しかった』って。『先輩の好きは特別なもの』だって」
「……はい。言いました」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「あの時、私はすみれちゃんの『好き』について、ちゃんと聞かなかった。聞けなかった。……でも今日は、聞きたい」
私は、まっすぐに彼女の目を見た。
「どうして、私だったの?」
彼女の瞳が、大きく揺れた。
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その問いを投げかけた瞬間、彼女の表情から、いつもの無邪気さがすっと消えた。
ポニーテールの毛先が微かに揺れ、膝の上に置かれた両手がぎゅっと握り締められる。
長い沈黙が、ベンチの上に横たわった。
秋風が木の葉を巻き上げ、どこかの店の音楽がくぐもって聞こえてくる。
私は急かさなかった。この問いがどれほど重いものか、聞く前から分かっていたから。
やがて、彼女が口を開いた。
「……美術室で、私、えらそうなこと言いましたよね」
「え?」
「『分からない』って正直に言えるほうが、いい加減な答えを出して傷つけるより、ずっと誠実です、って。泣いてる先輩に、そう言いました」
彼女は自分の膝を見つめたまま、小さく笑った。笑おうとして、失敗したような顔だった。
「……でも私、ずっと分からないまま、先輩に何も言わずにいました。ずるいのは、私のほうなんです」
「すみれちゃん……?」
「先輩に、ずっと言えなかったことがあります」
その声は、今まで聞いたどの声とも違っていた。
いつもの弾むような明るさも、真剣な時の芯の強さも、そのどちらでもない。
震えて、脆くて、今にも割れそうなガラスみたいな声だった。
「私には……お姉ちゃんがいました」
「お姉ちゃん?」
「はい。三つ上の、お姉ちゃん」
彼女は、まるで口の中にある言葉を一つずつ確かめるように、ゆっくりと紡いでいく。
「バスケが上手で、背が高くて、ショートカットで。すごく優しくて、いつも笑ってて。私のことをすごく可愛がってくれました」
「……そうなんだ」
「お姉ちゃんは、中学の時に病気になって……長いこと入院してました。私、毎日のようにお見舞いに行って、お姉ちゃんのためにお菓子を焼いて持っていったんです。病院食って制限があるから、お砂糖控えめで、カロリーも計算して」
砂糖控えめのクッキー。
あの時この子が「先輩のことだけを考えて作った特別なクッキー」と言って差し出してくれたもの。その手つきの原点が、姉の病室にあったなんて。
胸がずきりと痛んだ。
「退院できそうだったんです。お医者さんにもそう言われてて、もうすぐ家に帰れるって、みんなで喜んでて。……でも」
彼女の声が途切れた。
唇を噛み、鼻の奥で呼吸を殺している。泣くのを堪えているのだと分かった。
「中2の冬に、急に容態が悪くなって。最後にお見舞いに行った日……私、お姉ちゃんと些細なことで喧嘩して、言いたいことがあったのに、『今度でいいや』って思っちゃったんです。そしたらその……その『今度』は」
彼女の声が完全に止まった。
両手で膝を掴んでいた指先が白くなるほど力が入っている。
来なかった、のだ。
「だから」
しばらくして、彼女は絞り出すように言った。
「だから私、決めたんです。思ったことは、その場で絶対に言うって。あの時言えなかったみたいに後悔するのは、もう嫌だって」
私は息を呑んだ。
あの日――突然教室にやってきて、話したこともない先輩に「好き」だと告白した、あの無謀とも思えた行動。
その裏にあったのは、こんなにも深い痛みだった。
「お姉ちゃんは……バスケを、途中でやめなきゃいけなかったんです。病気で。コートに立てなくなって、ボールも握れなくなって。私、中学の間はバスケなんて見るのも辛くて、絶対にやらないって思ってました」
バスケ。
あの子が運動神経は良いのに初心者だった理由。千夏に「先輩にカッコいいところ見せたい」と説明していた、その本当の意味。
すべてが繋がっていく。一本の線になって、最初から今日まで、この子の行動のすべてを貫いていく。
「……高校に入って、ようやく、お姉ちゃんのいた場所に立ってみようって思えたんです。それで、バスケ部に入りました」
彼女は顔を上げた。
涙は流れていなかった。でも、その瞳の奥には、これまで一度も見せなかった深い暗がりがあった。
「それで……美咲先輩のことを、どこで知ったのか、ですよね」
「……うん」
「入学して間もない頃でした。廊下を歩いてたら、前の方に……背の高い、ショートカットの先輩が歩いてたんです。後ろ姿が、お姉ちゃんに似てて」
心臓を、冷たい手で鷲掴みにされたような感覚が走った。
「歩き方とか、立ち方とか、背格好とか。顔は全然違うのに……後ろ姿だけが、すごく似てて。気づいた時には、足が止まってました。それが、美咲先輩でした」
彼女は、私の目をじっと見つめた。
その瞳は、真っ直ぐだった。いつもと変わらないはずの、あの真っ直ぐな瞳。なのに今は、その奥に、底知れない不安と恐れがうずくまっているのが見えた。
「それから、先輩のことを目で追うようになりました。廊下で、校庭で、下駄箱で。お姉ちゃんに似た後ろ姿を見つけるたびに、胸がどくどくして……でも、先輩は振り返ったら全然違う人で。ちょっと眠そうな目をしてて、ぶっきらぼうで」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「……でも、その頃の私は、遠くから見てただけです。先輩がどんな声で喋るのかも、何が好きなのかも、怒った顔も笑った顔も、何ひとつ知りませんでした。私が知ってたのは、後ろ姿だけです」
彼女の声が、急にか細くなった。
「いつの間にか、先輩の後ろ姿じゃなくて、先輩の顔を見たくなってました。先輩の声を聞きたくなってました。……それで、告白しました」
私は何も言えなかった。言葉が見つからなかった。
彼女は膝の上で両手を握りしめたまま、続けた。
「告白して、断られて、でもデートに連れていってもらって……先輩と話すようになって。それが、嬉しかった。本当に、嬉しかったんです」
声が震えている。でも、彼女は止まらなかった。
「でも……先輩と一緒にいると、時々、すごくお姉ちゃんを思い出すんです。先輩がぶっきらぼうに優しいことを言ってくれる時とか、私の頭をぽんって撫でてくれる時とか。……ああ、お姉ちゃんもこうだったなって。そう思った瞬間、すごく温かくなって、懐かしくて、嬉しくて……」
彼女の声が詰まった。鼻をすすり、必死に言葉を繋ごうとしている。
「……でも、その嬉しさの直後に、ぞっとするんです。今私が嬉しいのは、美咲先輩が美咲先輩だからなのか、それとも、お姉ちゃんを感じられたから嬉しいだけなのか……って。先輩と話すたびに、嬉しくなるたびに、同じくらい怖くなって、苦しくなっていって」
彼女の両手が、膝の上で小刻みに震え始めた。
「……ずっと、怖かったんです」
その声は、ほとんど消えそうだった。
「私の好きは、お姉ちゃんの代わりなんじゃないかって」
世界が、一瞬だけ止まったような気がした。
「お姉ちゃんに似てるから、好きになっただけなんじゃないかって。先輩と一緒にいて温かいのは、先輩を好きだからじゃなくて、もういないお姉ちゃんの面影を追いかけてるだけなんじゃないかって……ずっと、ずっと、分からなくて」
彼女の目から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「先輩に『どうして私だったの』って聞かれるのが、一番怖かったんです。答えたら……答えたら、自分の気持ちが偽物だって、確定してしまう気がして」
涙が頬を伝い、あごの先で光って落ちる。
「ごめんなさい。こんなこと、ずっと隠してて。先輩には……先輩だけには、正直でいたかったのに。怖くて、言えなくて」
彼女は手の甲で乱暴に涙を拭った。でも、拭っても拭っても新しい涙が溢れてくる。
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下北沢の雑踏が、遠い世界の出来事のように聞こえていた。
あの子の告白が、一つ一つの言葉が、じわじわと胸の底に沈んでいく。
お姉ちゃんの代わり。
あの真っ直ぐな瞳で、あんなにも強く「好き」だと言ってくれた気持ちの始まりに、亡くなった姉の影があった。私の後ろ姿が、もういない誰かに似ていたから。
ふいに、あの日の言葉が耳の奥で鳴った。
『知らないからこそです!』
デートしてくださいと食い下がってきたあの日、この子は確かにそう言った。私のことを知らないからこそ、知りたいのだと。
あの真っ直ぐさに、私は確かに心を動かされたはずだった。
でも今、同じ言葉が、まったく違う形をして目の前に立っている。
知らなかったのだ。この子は私が誰なのかを何ひとつ知らないまま、私の後ろ姿にもういない人を見ていた。
知らないからこそ――重ねられたのではないか。
――私は、「代わり」だったのだろうか。
ずっと抱えていた問いが、新しい形で突き刺さった。
あの日、告白された時から胸の奥にわだかまっていた疑い――その「好き」は、偽物ではないか。
あの問いの答えが、今、目の前で泣いている女の子の涙の中にあるのかもしれない。
でも、その答えが何なのか、私にはまだ見えない。
彼女は泣き止もうと何度も深呼吸をしていた。
彼女の横顔を見つめながら、私は自分の中にある感情を必死に探った。
怒りではなかった。失望でもなかった。
ただ、胸の奥がひどく重くて、鈍い痛みがじくじくと広がっている。
彼女は正直に話してくれた。
自分の「好き」の中にある一番怖い部分を、隠さずに晒してくれた。
それは、途方もない勇気だと分かっている。
でも。
「代わり」かもしれないという言葉が、石みたいに重く、飲み込めないまま喉の奥に引っかかっている。
彼女が、赤くなった目で私を見上げた。
何かを待つような、何かを恐れるような、痛々しい表情だった。
「……先輩」
私は口を開こうとした。
何か言わなければと思った。彼女がこれだけの覚悟で話してくれたのだから、何かを返さなければ。
でも、言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
「大丈夫だよ」と言えるほど、私の心は定まっていなかった。
「気にしてないよ」と嘘をつくことも、できなかった。
秋の風が、ベンチの上を吹き抜けていく。
木の葉が一枚、くるくると回りながら足元に落ちた。
初めてここに来たあの夜、この子は私の「好き」を「特別なもの」だと言ってくれた。
今度は私が、この子の「好き」に答えを返す番のはずだった。
なのに、私は何も言えないまま、ただそこに座っていた。
彼女が小さく、ほんの小さく微笑んだ。
目は真っ赤なのに、唇だけが無理やり弧を描いている。
「……大丈夫です。答えは、急がないですから」
その声は、震えていた。
帰りの小田急線で、私たちは隣に座った。
あの日と同じように。でも、あの日とは全然違う沈黙が、私たちの間を満たしていた。
彼女はうとうともせず、膝の上のクレープの包み紙を大事そうに折り畳みながら、窓の外をじっと見つめていた。
私は、スマホも取り出さず、イヤホンもつけず、ただぼんやりと流れていく街並みを眺めていた。
頭の中では、あの子の震える声が何度も何度も繰り返されていた。
『私の好きは、お姉ちゃんの代わりなんじゃないかって、ずっと怖かったんです』
その言葉の重さが、電車の揺れに合わせて、ゆっくりと胸の底に沈んでいく。




