ひとりの下北沢
週末。
葵と「また明日」を交わしてから数日が経ち、学校では少しずつ、ぎこちないながらも挨拶を交わせるようにはなっていた。
でも、あの美術室の日から、私の頭の中にはずっと同じ問いがぐるぐると回り続けている。
――「好き」って、なんだろう。
葵への気持ち。あの子への気持ち。
どちらも「大切」で、どちらも「特別」で、でもその二つはまったく同じものではない気がする。
なのに、どこがどう違うのかを言葉にしようとすると、途端に頭の中が霧に包まれたみたいにぼやけてしまう。
誰かに相談したい。でも、相談できる相手が葵と彼女しかいないという、どうしようもない八方塞がりだった。
ふと、スマホの画面に目が止まった。
ライブハウスの公式アカウントが、今夜のイベントを告知している。
下北沢。あのライブハウス。
「……行こう」
気づいた時には、財布とイヤホンだけを掴んで、部屋を飛び出していた。
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小田急線の車窓に、夕暮れの街並みが流れていく。
いつからか、この電車には一人で乗らなくなっていた。
彼女が隣でずっと喋っていて、私は相槌を打っていた下北沢までの時間。
帰り道には彼女がうとうと舟を漕いで、その肩がそっと触れて――
思い出すだけで、胸の奥がじわりと温かくなる。
でも今日は、一人だ。
一人で考えなきゃいけない。
下北沢の駅を出ると、金曜の夜特有の賑わいが押し寄せてきた。
彼女と歩いた路地を抜け、見慣れたライブハウスの前に立つ。
入口の重い扉を開けると、薄暗い空間と、チューニングの音が迎えてくれた。
カウンターでコーラに交換して、いつもの壁際のポジションに立つ。
いつもは隣で目を輝かせている彼女を、人混みから庇うように半歩後ろに立っていた。
今は、その隣が空っぽだ。
やがて照明が落ち、ステージにスポットライトが灯る。
一曲目のイントロが、ドラムのカウントとともに弾け飛んだ。
爆音が体を貫く。
ここに彼女と初めて来た日のことを思い出す。
葵に「行ってこい」と背中を押されて二人で出かけたあの日。
ライブハウスでの彼女の言葉。
『ぶぅわーって音を浴びていると強くなれる気がしてきます!』
あの時は笑ったけど、今なら分かる。
あの子はいつだって、感じたことをそのまま口にできる。
恥ずかしいとか、変に思われるかもとか、そういうフィルターがない。
だから彼女の言葉は、いつもまっすぐに胸に届く。
二曲目。激しいギターリフの中で、私は目を閉じた。
葵のことを考える。
中学の頃からずっと一緒にいた。
授業の合間に交換するノートの落書き。帰り道のコンビニで半分こしたアイス。テスト前の深夜に、電話越しに教科書を読み合ったこと。
葵の隣にいると、安心した。世界がどんなに不安でも、葵がいれば大丈夫だと思えた。
あの温もりは、間違いなく私の人生で一番大きな「大好き」だった。
でも。
葵に会えない日があっても、私は眠れた。
葵が誰かと楽しそうに話していても、苦しくはならなかった。
葵の笑顔を思い浮かべると温かくなるけれど、胸が締め付けられるような痛みは、なかった。
それは、どういうことだろう。
三曲目。ボーカルの声が、ロングトーンで会場を震わせる。
あの子のことを考える。
バスケ部の練習を覗いた日。汗だくで必死にシュート練習をしていたあの子の横顔。
千夏に呼ばれて、スポーツドリンクを渡した時の、あのぱっと花が開くような笑顔。
クレープを半分こした夜。「先輩の好きな世界を見せてくれた気がして、すごく嬉しかった」と、まっすぐな目で言ってくれたこと。
そして、美術室。泣き崩れた私と葵の前に現れて、恋のライバルの涙まで拭おうとした、あの手。
あの子のことを考えると、胸の真ん中がきゅっと締め付けられる。
あの子の笑顔を見たいと思う。声を聞きたいと思う。隣にいてほしいと思う。
会えない日が続くと、今日みたいに、ふとした瞬間に隣の空白が寂しくなる。
……これは、葵に感じるものとは、明らかに違う。
四曲目が始まった頃、私はジンジャーエールのコップを握りしめたまま、泣いていた。
爆音にかき消されて、誰にも聞こえないように。
分かりかけている。
たぶん、もうとっくに分かっていた。
葵への「好き」は、恋じゃない。
世界で一番大切で、かけがえのない、親友への深い愛情。
失いたくなくて、ずっと隣にいたくて、でもそれは――恋とは、違うもの。
じゃあ、あの子へのこの気持ちは?
考えるだけで、心臓がうるさくなる。
まだ、言葉にするのが怖い。
認めてしまったら、もう戻れない気がする。
でも、輪郭だけは見え始めていた。
霧の中にぼんやりと浮かび上がる、花のような形。
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ライブが終わり、外に出ると、夜風が火照った頬を冷ましてくれた。
スマホを取り出すと、彼女からメッセージが来ていた。
『美咲先輩、最近あんまり連絡なかったので……元気ですか? 心配です』
画面を見つめて、また泣きそうになった。
あの子は、いつだってこうだ。いつだって、私のことを気にかけてくれる。
『大丈夫。ちょっと一人で考えたいことがあって。……今度、すみれちゃんに聞きたいことがあるんだ。また会える?』
送信ボタンを押す指が、微かに震えていた。
すぐに既読がついた。
『いつでも会えます! 先輩が会いたい時に呼んでください』
その返信を読んで、私は笑った。
泣きながら、笑った。
帰りの小田急線。隣の席は、やっぱり空っぽだった。
でも、次にここに来る時は、きっと一人じゃない。
次回へ続く……




