暴かれた心
千夏からの一通のメッセージが、すべてを変えた。
『美咲ちゃん、ごめん。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど』
放課後、家に帰ってスマホを開いた瞬間、その文字列が目に飛び込んできた。
千夏が謝るなんて珍しい。嫌な予感がして、私はすぐに既読をつけた。
『今日の放課後、小川さんが姉ちゃんのところに直接行ったみたい。放課後の教室に二人きりでいるのを、廊下から見かけた子がいたんだって』
心臓が止まったかと思った。
すみれちゃんが、葵に?
『私、内容までは知らない。でも……姉ちゃん、泣きながら教室から飛び出してきたって。今、家で部屋に閉じこもってるの。ドア叩いても全然出てこない。美咲ちゃん、何が起きてるか知ってる?』
スマホを持つ手が震えた。
千夏に、どこまで話すべきなのだろう。すみれちゃんが葵に何を聞いたのか、私にはほとんど察しがついてしまう。でも、それを私の口から説明するのは、葵の心を勝手に暴くことになる気がした。
それに今はそんなことより、葵が泣いて逃げ出したという事実が、鉛のように胸に沈んでいく。
『ごめん、千夏。今は上手く説明できない。でも……私が、葵と話さなきゃいけないと思ってる』
送信ボタンを押した後、私はしばらくベッドの上で天井を見つめていた。
---
翌日からの葵は、これまでとは明らかに違っていた。
以前は表面上いつも通りに振る舞ってくれていた。業務連絡だけでも、会話はあった。
でも今の葵は、私と目が合った瞬間に視線を逸らし、教室の中でも物理的に距離を取るようになっていた。まるで、私の存在そのものが痛みの源であるかのように。
「おはよう、葵」
朝、思い切って声をかけた。いつもの挨拶。たったそれだけのことなのに、声が震えた。
葵は一瞬だけ足を止め、こちらを振り返った。
その目は真っ赤に充血していて、唇がわずかに動いたけれど、言葉にはならなかった。
小さく頷いただけで、彼女は逃げるように自分の席へと歩いていった。
追いかけることも、引き止めることもできなかった。
彼女の背中が、こんなにも小さく見えたのは初めてだった。
---
放課後。
千夏にメッセージを送った。
『千夏、葵は今日も早く帰った?』
すぐに返信が来る。
『ううん、今日は美術室に一人でいるみたい。デッサンの居残りとか言ってたけど、たぶん嘘。一人になりたいだけだと思う。美咲ちゃん、行くの?』
『うん。行く。怒られるかもしれないけど、行く』
『……がんばって。姉ちゃんのこと、お願いね』
スマホをポケットにしまい、私は美術室へ向かった。
---
美術室のドアは半分だけ開いていた。
夕暮れの赤い光が窓から差し込み、石膏像やイーゼルの長い影が床に落ちている。
絵の具とテレピン油の匂いが、静かに漂っていた。
葵は窓際の椅子に座り、何をするでもなく外を眺めていた。
スケッチブックは膝の上に載っているけれど、白紙のままだ。
「葵」
私の声に、葵の肩がびくりと跳ねた。
振り返った彼女の顔は、恐怖と動揺で歪んでいた。
「美咲……なんで」
「話がしたくて。逃げないで聞いて。お願い」
葵は立ち上がろうとした。逃げようとしたのだと思う。
でも私は、その前に美術室の中に足を踏み入れ、ドアを背にして立ち塞がった。
「お願い、葵。お願いだから、逃げないで」
声が震えていた。目の奥が熱くなって、視界がにじむ。
葵は立ち上がりかけた姿勢のまま固まり、やがて力なく椅子に座り直した。
「……小川さんから、聞いたの?」
葵の声は、信じられないほど小さくて、掠れていた。
「千夏から……聞いた。葵の気持ちのこと」
葵の顔が、みるみるうちに蒼白になっていった。
唇が震え、目の縁にみるみる涙が溜まっていく。
「千夏が……」
「千夏を責めないで。あの子は、葵のことが心配で仕方なかったんだよ」
葵は俯いて黙り込んだ。
私は言葉を探した。ここに来るまでに何度も練習した台詞を口にしようとした。
でも、葵を目の前にした途端、頭の中は真っ白だった。
「あの、葵。私……」
何を言えばいいのか分からない。
葵が私のことを好きだと知った。それはもう確信に近い。
でも、その「好き」に対して、私は何を思っているのか。自分の中にある葵への感情は、親友としての愛情なのか、それとも――。
考えれば考えるほど分からなくなる。「恋」というものの正体が、そもそも私には掴めていない。
すみれちゃんから告白された時も、戸惑うばかりで、自分の中の感情をちゃんと見つめられなかった。
葵への気持ちは、すみれちゃんへの気持ちとは全然違うけれど、それが「恋」なのか「友情」なのかと問われると、途端にぐちゃぐちゃになる。
「私、葵のことがすごく大切で……世界で一番特別な人で……」
「やめて」
葵の声が、鋭く私を遮った。
「やめてよ、美咲。『大切』とか『特別』とか、そういう優しい言葉で誤魔化さないで。私が聞きたいのはそんなことじゃない」
葵は顔を上げた。その目には涙と、それ以上に激しい痛みが渦巻いていた。
「私のこと、どう思ってるの。友達? 親友? それとも……」
「だから、それが分からないの!」
思わず声を荒らげてしまった。葵がびくりと身を震わせる。
「ごめん、ごめん……大きい声出すつもりじゃなかった。でも本当に分からないの。葵のことが好きなのは分かってる。でもその『好き』が恋なのか友情なのか、私にはまだ区別がつかないの。自分の気持ちの正体が、何もかも分からなくて……」
私の言葉は支離滅裂だった。伝えたいことが山ほどあるのに、何一つまともに形にならない。
葵は私の言葉を聞きながら、両手で自分の腕を抱くように身を縮めていった。
「……分からないって、そんなの、ずるいよ」
葵の声は、怒りとも悲しみともつかない、引き裂かれたような響きだった。
「私はもう全部バレちゃったのに。小川さんにも、千夏にも、美咲にも。恥ずかしくて死にたいくらいなのに。なのに美咲は『分からない』で、全部先延ばしにするの? 私だけ丸裸にされて、美咲は安全な場所にいるの?」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあどういうつもりなの!? 私は気持ちを知られたことが恥ずかしくて、怖くて、美咲の顔をまともに見ることもできないのに! それなのに美咲が来て、『大切』とか『分からない』とか優しいことだけ言って……余計に苦しいよ! 期待していいのか、諦めるべきなのか、それすらも分からないまま置いていかないでよ……!」
葵の声は次第に震え、最後には泣き崩れるように途切れた。
私も泣いていた。葵の言葉の一つ一つが、鋭い棘のように胸に突き刺さる。
葵の言っていることは正しい。私は自分の気持ちが分からないまま、それでも葵を傷つけたくなくて、曖昧な優しさだけを差し出そうとしていた。
でもそれは、葵にとっては残酷な思いやりでしかなかったのだ。
「ごめん……ごめんね、葵。私が来たの、間違いだった? 葵をもっと傷つけただけだった?」
「……知らない。分からない。もう何もかも分からないよ」
葵は両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
私はどうすることもできず、美術室の冷たい床にへたり込んでいた。
二人の泣き声だけが、がらんとした美術室に響いている。
会いに来たのに、話そうとしたのに、何も解決しない。むしろ悪化している。
自分の無力さと、感情の整理がつかないどうしようもなさに、ただ押し潰されていた。
---
どれくらいそうしていただろう。
美術室のドアが、こんこん、と軽くノックされた。
「……失礼します」
聞き覚えのある声。はっとして顔を上げると、制服姿のすみれちゃんが、恐る恐る美術室の中を覗き込んでいた。
「すみれ、ちゃん……? なんで……」
「宮原が、教えてくれました。美咲先輩が宮原先輩のところに行ったって」
すみれちゃんは真剣な顔で美術室に一歩入り、私と葵の顔を交互に見た。
泣きはらした二人の顔を見て、すみれちゃんの表情が一瞬揺れたけれど、すぐにきゅっと唇を引き結んだ。
「お二人とも、泣いてるんですね」
当たり前のことを言っただけなのに、その一言に、不思議と場の空気が変わった。
第三者の存在が、密室で煮詰まりきった感情に、一筋の風を通したような感覚があった。
葵が、涙で赤くなった目ですみれちゃんを睨みつけた。
「……あんたが来たせいで、全部めちゃくちゃになったのよ。あんたが私に……あの教室で……」
「はい。私が宮原先輩に聞きました。美咲先輩のことが好きなんですかって」
すみれちゃんは、逃げなかった。葵の怒りを真正面から受け止めて、まっすぐに頷いた。
「あの時のこと、後悔はしてません。でも、先輩をあんなに傷つけてしまったことは、本当にごめんなさい」
すみれちゃんは深々と頭を下げた。
葵は何か言い返そうとしたけれど、言葉が出てこないようだった。怒りと疲労と、泣きすぎた痛みが、全部混ざり合って表情が歪む。
すみれちゃんは頭を上げて、今度は私を見た。
「美咲先輩。先輩は今、自分の気持ちが分からなくてぐちゃぐちゃになってますよね」
図星だった。言葉にできなかった自分の状態を、すみれちゃんがあっさりと言い当てる。
「宮原先輩は、好きだって気持ちがバレて、恥ずかしくて怖くて、どうしていいか分からない。美咲先輩は、自分の中の『好き』が恋なのか友情なのか分からない。……二人ともパニックになってるんだから、今ここで答えなんて出るわけないです」
すみれちゃんの声は、いつもの元気な声より少し低く、でも芯の通った強さがあった。
「美咲先輩」
すみれちゃんが、私の前にしゃがみ込んで、目線を合わせてきた。
「先輩は、ずるくなんかないです。『分からない』って正直に言えるのは、宮原先輩の気持ちを軽く扱いたくないからでしょう? いい加減な答えを出して傷つけるより、分からないって言える方が、ずっと誠実です」
それから、すみれちゃんは立ち上がって、葵の方を向いた。
「宮原先輩」
葵が顔を上げる。涙の跡が光っている。
「先輩が美咲先輩を好きな気持ちは、恥ずかしいことなんかじゃないです。私が言うのもおかしいかもしれないけど……誰かをそこまで好きでいられるのは、すごいことだと思います。何年もずっと、隣にいるために気持ちを隠して……それって、私には絶対にできないことです」
葵の目が大きく見開かれた。自分の恋のライバルから、そんな言葉をかけられるとは思っていなかったのだろう。
「でも、今の宮原先輩は、恥ずかしさとか怖さで頭がいっぱいになって、美咲先輩の言葉が何も入ってこなくなってます。美咲先輩も、自分の気持ちが整理できてないのに無理やり答えを出そうとして、二人とも一番大事なことが見えなくなってる」
すみれちゃんは、私と葵を交互に見た。
「今日は、もう帰りましょう。二人とも、泣きすぎて頭がまともに動いてないです」
沈黙が流れた。
すみれちゃんの言葉は、痛いくらいに正しかった。
私も葵も、感情がぐちゃぐちゃに煮詰まっていて、言葉を交わすほどにお互いを傷つけてしまっていたのだ。
「……なんであんたが、そんなことまで」
葵が掠れた声で呟いた。
「私のライバルでしょう。なんで……私のことまで心配するの」
すみれちゃんは、少しだけ困ったように笑った。
「美咲先輩が大切にしている人だからです。宮原先輩が壊れたら、美咲先輩も壊れます。私は……美咲先輩に笑っていてほしいだけなので」
その言葉に、私の胸の奥で、何かがじわりと温かくなった。
すみれちゃんは、恋のライバルである葵のことまで包み込もうとしている。
自分が傷つくかもしれないのに、美咲先輩の笑顔のためなら、と。
その真っ直ぐさが、泣き疲れた私の心に、まるで陽だまりのように染み込んでいく。
「……すみれちゃん」
「はい」
「ありがとう。来てくれて、ありがとう」
すみれちゃんは、少し照れたように頬を掻いた。
「じゃあ、帰りましょう。顔、洗わないとやばいですよ、お二人とも」
私は葵を見た。葵も、赤く腫れた目で私を見ていた。
さっきまでの、どうしようもなく行き詰まった空気は、いつの間にか薄れていた。
葵がぽつりと呟いた。
「……目、すごいことになってるよ、美咲。真っ赤」
「葵だって。パンダみたいだよ」
すみれちゃんが横で小さく吹き出した。
「お二人とも、パンダとウサギみたいです」
誰からともなく、小さな笑いが漏れた。
泣きすぎて顔がぐしゃぐしゃで、きっとお互いひどい顔をしていた。
でも、あの笑い声は、ここ数週間で初めて聞いた、嘘のない笑い声だった。
美術室を出る時、私たち三人は並んで歩いた。
私の右に葵、左にすみれちゃん。
何も解決していない。葵の気持ちにも、自分の気持ちにも、まだ答えは出ていない。
でも、一つだけ分かったことがあった。
一人じゃ無理だった。
葵と二人きりでも、きっとダメだった。
すみれちゃんがいてくれたから、私たちは泣き止むことができた。
校門を出たところで、すみれちゃんが「私、こっちなので」と反対方向を指さした。
「美咲先輩、宮原先輩。おやすみなさい」
「おやすみ、すみれちゃん。……今日はありがとね」
すみれちゃんが小さく手を振って走っていく背中を見送りながら、私はぼんやりと思った。
あの子は、どうしてあんなに真っ直ぐなんだろう。
恋のライバルの涙まで拭おうとするあの強さは、一体どこから来るんだろう。
隣を歩く葵が、小さな声で言った。
「……あの子、強いね」
「うん」
しばらく無言で歩いた後、葵がぽつりとこぼした。
「……ねえ、美咲。私、まだぐちゃぐちゃだけど。でも、今日来てくれたのは……嬉しかったよ」
「……葵」
「すぐには無理だけど。少しずつ、ちゃんと話せるようになりたい」
「うん、待ってる。私もまだ全然整理できてないけど。でも、ちゃんと向き合うから。絶対に逃げないから」
葵は小さく頷いた。
駅の改札で別れる時、葵が振り返った。
その顔は泣き腫らしてひどいものだったけれど、唇の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。
「じゃあね。……また明日」
「うん。また明日」
その「また明日」は、ここ数週間で初めて交わした、本当の意味での約束だった。




