9話 初めての普通
「おお……! 馬子にも衣装とはよく言ったもんだ! 服ひとつでこうも変わるのかよ」
クレープの包みを両手に抱えて『クレッシェンド』の店内に戻ったアルマは、試着室のカーテンの向こうから現れたシノアを見て、文字通り呆気に取られていた。
「だ、誰が孫よバカ!」
シノアは顔を真っ赤に染め、借りてきた猫のように不自然に内股になりながら、ドレスの裾をギュッと握りしめて怒鳴った。
怒鳴ってはいるが、その瞳は激しく泳いでいる。
(まご違いなんだけど……まぁいいか)
やや照れ混じりのシノアだが、服は相当気に入っているらしい。
全体的に白と淡いブルーを基調とした、動きやすさと女の子らしさが絶妙に同居したフレア調のワンピース。
トラッシュタウンにいた頃のガリガリな体型を上手に隠しつつ、彼女の持つ神秘的な美しさを120%引き出している。
そして何より、最大の特徴であり、中将にマークされている蒼い髪をすっぽりと隠すように、少し大きめの白いキャスケット帽が頭にちょこんと乗せられていた。
「ちょっとアルマちゃん、なに風情のないこと言ってんのよぉ!」
試着室の影から現れたエリザベスが、筋骨隆々の腕でアルマの背中を力任せに叩く。バシバシと言う音の中に、時々、鈍い音とアルマの悲鳴が混ざる。
「見て頂戴! この素材の良さ! シノアちゃんからの要望で、残念だけど髪は隠したの。でもね!ボリュームのある帽子を合わせてみたら、この子の透明感を爆上げしてるじゃなぁい! シノアちゃんったら本当に天使よぉ!!」
「あー痛ぇ痛ぇ、 肉が潰れる! ……まぁ、うん。トラッシュタウンのうんこガールから大出世だ。これなら普通に街歩いても浮かねーわ。ありがとな、エリザベス」
アルマは「フッ」と笑うと、懐からレオから巻き上げた金が入った袋を、エリザベスの毛深い胸元へと放り投げた。
「んふ、毎度あり♡ シノアちゃん、そのバカにしっかりデート楽しませてもらうのよ?」
「デ、デートじゃないっ!!」
シノアはさらに顔を赤くして、逃げ出すように店の外へと足早に歩き出した。
アルマは「おーおー、元気なうんこガールだこと」と笑いながら、その後を追って店を出た。
◇
少し歩いて、人通りの少ない裏路地のベンチへとシノアを誘導すると、アルマは両手に持っていた紙の包みを彼女の目の前に差し出した。
「ほらよ。大変身のご褒美だ」
「なによこれ……」
シノアは不審そうに、紙に包まれた奇妙な食べ物を見つめる。
薄く焼かれた生地が円錐状に丸められ、その上には真っ白な生クリームと、鮮やかな赤色をしたイチゴがこれでもかと贅沢に乗っていた。
「クレープだよ。街の普通のガキは、みんなこれ食ってきゃっきゃしてんだ。食ってみな、美味すぎて飛ぶぞ」
「……毒、入ってないでしょうね」
「入れるかこのおばか! 早く食わねーとクリームが溶けて大変なことになるぞ。あ……お前まさか」
何かに気が付いたアルマは、ニヤニヤした顔でシノアからクレープを取り上げ、
「ほら、あーんだ」
「あ、あーん……?」
なんとなく、雰囲気に流され口を開いた。
が、パクリと食べる直前、アルマのニヤついた顔が目に入ると、彼女は茹でダコのように顔を真っ赤にさせ、
「――じ、自分で食べられるわよっ!」
シノアはアルマの手から引ったくるようにクレープを奪い返し、小さな口を開け、まずは先端のイチゴと生クリームを一口――
「――っ!」
瞬間、シノアの身体がピクンと硬直した。
翡翠の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
口いっぱいに広がる、暴力的なまでの濃厚な甘み。そして、それを引き立てるイチゴの瑞々しい甘酸っぱさ。
研究所の味のしない無機質な食事や、トラッシュタウンの腐りかけた食材しか知らなかった彼女の舌に、未だかつてない幸福の衝撃が走っていた。
「……なに、これ」
「クレープ、気に入ったか?」
「甘い……すごく、おいしい」
シノアの口角が、今度は誰かに釣られるわけでもなく、心の底から嬉しそうにふわりと上がった。
白いキャスケット帽をちょこんと揺らしながら、まるで小さな小動物のように、夢中でクレープを頬張り始める。
クリームが小さな鼻の頭に少しだけついているが、本人は全く気づいていない。
その無邪気な姿を横目で見たアルマは、満足気に微笑んだ。
(ったく、幸せそうにしやがってまぁ)
◇
クレープを綺麗に平らげ、すっかりご機嫌になったシノアを連れて、アルマは隠れ家である地下室への帰路についていた。
シノアは時折、新しく買ってもらったワンピースの裾を気にしたり、キャスケット帽の位置を直したりしながら、アルマの半歩後ろをトコトコとついて歩いている。
「ね、ねえ、アルマ」
「ん? なんだ、うんこガール。もう一個食いたくなったか?」
「だからその名前で呼ぶなって言ってるでしょ! ――そうじゃなくて、その……あり、がと」
シノアはぷいっとそっぽを向きながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
「声ちっさ。え?なに? 声ちっさぁ!」
「もう言わないから! バカ!」
と言いつつ、急にしおらしくなり、
「……でも、本当に、嬉しかったの」
シノアは帽子を少し抑えながら、小さく微笑む。
その笑顔を見られたのが恥ずかしかったのか、彼女はそのままタタタッと数歩前に走っていった。
「おい待て!急に走るとせっかくの新品の靴でうんこ踏むことになるぞ! 本物のうんこガールに――」
アルマは長い手足を気怠げに動かしながら、少しだけ歩調を早めて少女の後を追う。
夕暮れ時、街灯には火が灯り、都市全体を暖かみのあるオレンジ色に染めている。
「――あ」
不意に、数歩先でシノアが再び足を止めた。
彼女の視線の先には、夕日に照らされてきらきらと輝く噴水広場と、そこを行き交う普通の家族連れや、笑い合う少年少女たちの姿があった。
これまでは追手から隠れるためでしかなかった都市の景色が、今の彼女の目には、まるで宝石箱のように美しく映っている。
「どうした、そんなに珍しいか?」
「……うん。私、こんな風に誰かが笑っている場所を歩いたの初めてなの」
シノアはキャスケット帽の端をそっと掴み、瞳を潤ませながら広場を見つめていた。
冷徹な職員の目、冷たい注射針、そしてトラッシュタウンのギラついた犯罪者たち。
そんな世界の泥をすべて洗い流すかのような、ありふれた、けれど彼女にとっては奇跡のような日常がそこにはあった。
「これから毎日見られるさ。俺がサボってる間はな」
「ふん。あんた、いつもサボる口実を探してるだけでしょ」
「ったく、生意気な奴だなぁ。これは高度なメンタルケアの一環なんだよ」
アルマはそう言って、シノアの小さな頭をごわごわと、しかし、どこか愛おしそうに乱暴に撫で回した。
シノアは「ちょっと、帽子が落ちちゃう!」と怒ってみせたが、その小さな手はアルマのシャツの裾をほんの少しだけ、甘えるようにぎゅっと掴んでいた。
◇
すっかり夜の帳が下りた頃、二人は隠れ家である地下室へと戻ってきた。
シノアは真っ先に姿見の前に立ち、新しく買ってもらった白いワンピースを嬉しそうに眺めていた。
左肩にある忌々しい『003』の焼印は、仕立ての良い布地の下に隠れて息を潜めている。
「ねえ、アルマ」
ベッドにちょこんと腰掛けたシノアが、少しだけ不安そうな瞳をアルマに向けた。
「私、明日も……普通でいられるのかな」
アルマはいつも通りのだらしないアホ面を浮かべ、懐から煙草を取り出して火をつけた。
「明日もじゃねぇよ。明日からも、だ」
「そう……楽しみにしてるわ」
シノアはそう言って、今度は隠すこともなく、ふわりと素直に微笑んだ。
初めて見る、十歳の少女に相応しい、心の底からの無垢な笑顔。
彼女はそのまま、楽しかった記憶を抱きしめるように、布団の中へと潜り込み、やがて小さく規則正しい寝息を立て始めた。
布団に潜っているというのに、キャスケット帽を被ったままだ。アルマに買ってもらったお気に入りの帽子を片時も離したくなかったのだろう。
アルマは紫煙を静かに吐き出しながら、月光に照らされた不気味な城塞都市の夜空を見つめる。
咥えた煙草の火が、ゆらゆらと揺れていた。
(残りはあと六日、か……)
任務のタイムリミットが静かに、しかし確実に、カチカチと音を立てて削れていく。
アルマはふと、今までの事を思い返していると、ある違和感を覚えた。
「初歩的な疑問すぎて思いつきもしなかったが、なんで暗部じゃなくてイクリプスに捜索を依頼したんだ……? ――この依頼……本当にシノアの保護だけが目的なのか?」




