第七話 赤い風船の女の子
衣装箱の一件から数日が経った。近未来エリアの応援も一段落し、いろはは総合案内の通常業務に戻っていた。だが、頭の中では、あの白いワンピースの名札の文字が、ずっとこびりついたままだった。
三枝ななみ。
その名前を知ってから、いろはは無意識のうちに、園内を歩く子どもたちの中に、その面影を探すようになっていた。
異変が起きたのは、レトロ遊園地エリアの、観覧車とメリーゴーランドの間にある広場だった。
「すみません、迷子です!」
声を上げたのは、通りすがりの主婦だった。いろははすぐに駆けつけた。
「どのようなお子さんですか」
「赤い風船を持った女の子です。八歳くらいかな、赤いワンピース着てて。さっきまで、あそこのベンチのところにいたんですけど……」
いろはの心臓が、大きく跳ねた。赤い風船。その言葉だけで、お化け屋敷の奥に結びつけられていた、しぼみかけた風船が脳裏をよぎった。
「わかりました。すぐに周辺を確認します」
いろはは無線で応援を要請し、周囲の捜索を開始した。他のスタッフも次々と広場に集まり、迷子放送を流すと同時に、手分けして探し始めた。
だが、女の子は見つからなかった。
「監視カメラの映像、確認してもらえますか」
いろはは警備室に連絡し、広場周辺のカメラ映像を確認してもらった。
しばらくして、返ってきた答えは、いろはにとって予想通りのものだった。
「朝岡さん……変なんですけど、女の子、映ってないんです」
「映ってない、って……」
「通報があった時間帯の映像、何度も確認したんですけど、そのベンチの周りに、赤い風船を持った女の子は映り込んでません。目撃した主婦の方の姿は映ってるんですけど」
いろはは、受話器を握りしめたまま、しばらく言葉が出なかった。
目撃者はいる。だが、記録には残らない。お化け屋敷の少女と、まったく同じ現象だった。
その日の夕方、いろはは同じ女の子の目撃情報を、さらに二件受けた。植物園エリアの温室前で。動物園エリアの入り口付近で。いずれも、赤い風船を持った少女を見たという通報だったが、駆けつけたときには誰もいなかった。
夜、いろははお化け屋敷へ向かった。あの封鎖されたエリアの、赤い風船が結びつけられていた場所を、もう一度確認したかった。
すずは、既にそこにいた。奥の暗がりに、いつものように無表情で佇んでいる。
「今日、赤い風船の子を、何度も見たって報告があって」
いろはが切り出すと、すずはわずかに視線を動かした。
「それが、三枝ななみっていう子なんですか」
すずは答えなかった。ただ、赤い風船の結ばれた扉の方向を見つめている。
「あなたと、その子の関係を教えてください」
「関係、なんてない」
「でも――」
「関係なんて、ない」
すずは繰り返した。今度は、いろはの言葉を遮るように。その声には、いつもの平坦さとは違う、わずかな棘があった。
「じゃあ、否定するんですね。あなたが、ななみちゃんじゃないって」
すずは、しばらく黙っていた。やがて、口を開いた。
「否定も、肯定もしない」
「それって……」
「知りたいなら、あんたが自分で確かめれば」
すずはそう言うと、いろはに背を向けて闇の奥へ姿を消した。
いろはは追いかけようとして、一歩だけ踏み出した。
だが、床に残った足跡は途中から、人のものではなくなっていた。
細い靴跡の先に、鳥とも獣ともつかない形が暗闇まで続いていた。
それでもいろはは、その跡から目を逸らせなかった。
怖いからではない。
あの形の先にいるすずを、一人にしてはいけない気がした。
いろはは、その場に一人残された。赤い風船だけが、微かな空気の流れに揺れていた。
翌日、いろはは休憩時間を利用して、資料室へ足を運んだ。二十年前のハロウィンイベントの記録を、もう少し詳しく調べたいと思った。
図書館のような静けさの中、古い新聞のスクラップや社内報の綴りをめくっていく。ほとんどは、当たり障りのない園の宣伝記事やイベント告知だった。
だが、一枚の古い新聞記事の切り抜きが、いろはの目に留まった。
『地方遊園地で起きた騒動 少女の行方は』
見出しの下には、小さな記事が続いていた。
『先月、県内の大型テーマパークで開催されたハロウィンイベント中、参加していた地元の少女(8)が行方不明になっていたことが分かった。当該パーク側は「イベント終了後、保護者と合流し、無事帰宅した」としているが、少女の親族を名乗る人物から「まだ行方が分からない」との情報提供が本紙にあった。パーク側は取材に対し「個人情報に関わるためコメントできない」としている』
いろはは、その記事を食い入るように読んだ。
やはり、公式発表と実際の状況には食い違いがある。少なくとも当時の関係者の中には、ななみが本当に帰宅したのか、疑問を持っていた人がいたということだ。
いろはは、記事の日付をノートに書き写した。二十年前の十一月初旬。ハロウィンイベントの終了直後だ。
さらに棚を調べると、古い事故報告書や迷子記録も見つかった。その中には、顔写真が添えられたものもある。行方不明になった当時の年齢、服装、最後に目撃された場所。いろはは一人ずつ名前をノートに書き留め、写真の顔も注意深く確かめていった。
資料室を出ると、廊下で杉森律子とすれ違った。開園当初からこの園で働いている、清掃スタッフの中でも最古参の一人だ。
「あら、朝岡さん。資料室で何調べてたの?」
律子の声には、いつもの気さくさの中に、どこか探るような響きがあった。
「いえ、その……昔のイベントの記録を、ちょっと」
「昔のイベント、ねえ」
律子は意味深に笑った。
「あんた、夜の園に好かれたね」
いろはは、その言葉にどきりとした。
「どういう、意味ですか」
「そのままの意味よ。あんたみたいな子、たまにいるの。夜の園が、話しかけたくなる子」
律子はそう言って、モップを片手にその場を離れていった。いろはは律子の後ろ姿を見つめながら、いつか、この人からもっと話を聞かなければならないと感じていた。
その夜、いろはは再び、赤い風船の少女の目撃情報を受けた。今度は、植物園エリアの夜にだけ咲く花の展示前だった。
いろはが駆けつけると、温室の入り口に、確かに小さな人影が立っていた。赤いワンピースに、赤い風船。振り返ったその子の顔は、幼く、あどけなかった。八歳くらいだろうか。
「……ななみちゃん?」
いろはが呼びかけると、少女は驚いたように、こちらを見た。
その目には、涙が滲んでいた。
「お姉ちゃん」
少女が、そう呼びかけてきた。声は、確かに人間の子どものものだった。だが、その輪郭は、街灯の光の中でわずかに揺らいで見えた。
「大丈夫だよ。お姉さんが、お母さんのところに連れていってあげる」
いろはは、いつものように腰を落として少女に手を差し伸べた。名前を聞き、記録し、呼びかける。それが、迷子を帰すための手順だ。
だが、少女は、その手を取らなかった。
「お姉ちゃん」
少女は、悲しそうな顔で、いろはを見つめた。
「すずを、連れていかないで」
いろはは、手を伸ばしたまま、動きを止めた。
「え……?」
「お姉ちゃんが、すずを連れていったら」
少女の声が、次第に、風にかき消されるように薄れていく。
「すずは、もう、いなくなっちゃう」
「待って、どういう――」
いろはが言い終える前に、少女の姿は温室の暗がりに溶けるように消えていった。赤い風船だけが一瞬、宙に浮かんだように見えて、それもすぐに闇の中に紛れて見えなくなった。
いろはは、その場に立ち尽くした。
すずを連れていかないで。
その言葉の意味は、まだ分からない。
ただ、「すずは、もう、いなくなっちゃう」と言われた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
いろはは、すずのことを何も知らない。名前だって、本当に本人から聞いたわけではない。どこから来たのかも、何を探しているのかも、なぜこの園にいるのかも、まだ何一つ分かっていない。
それなのに、いなくなると言われたことだけが、こんなにも怖かった。
お化け屋敷の暗がりで、いろはを追い返した声。夜行性動物館で、壁の向こうの足音からかばうように前へ出た背中。突き放すような言い方をしながら、最後には必ずこちらを見ていた横顔。
思い出すのは、怖い姿ばかりではなかった。
むしろ、怖いものから遠ざけようとしてくれた瞬間ばかりだった。
「……すずさん」
呼んでも、返事はなかった。
温室の中では、夜にだけ咲く花が白く静かに開いている。甘いはずの匂いが、今は少し息苦しかった。
いろはは、差し伸べたままだった手を、ゆっくりと下ろした。
ななみを帰したい。
それは、今も変わらない。
けれど、それだけではないのかもしれない。
すずに、もう一度会わなければならない。何を聞けばいいのか、何を言えばいいのかは分からない。それでも、会わないまま、いなくなられるのだけは嫌だった。
赤い風船の少女が、すずのことを心から案じているのは伝わってきた。
すずと、三枝ななみ。
二人は、いろはが想像していたよりも、ずっと深いところで結びついているのかもしれない。
いろはは温室の入り口に立ったまま、夜にだけ咲く花の匂いを、しばらくぼんやりと感じ続けていた。




