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新人キャストの私だけが、閉園後の迷子放送を聞いている  作者: 明石竜


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第五話 夜行性動物館の檻の外

 まひるが自分の名前を呼ぶ放送を聞いた夜から、三日が経っていた。

 あの夜のことを、まひるはいろはに話さなかった。話せなかった、というのが正しいかもしれない。自分が経験したことを、どう説明すればいいのか、まひる自身がまだ整理できずにいた。

言えなかった理由は、いくつもあった。

自分が怖かった。それ以上に、いろはへ謝らなければならなくなるのが怖かった。

 あの日、まひるは「疲れてるだけだよ」と言った。いろはを責めるつもりではなかった。本気で心配していた。けれど、今思い返すと、あの言葉は、いろはが必死に差し出したものを受け取らずに押し返したようにも思えた。

 もし今「私も聞いた」と言えば、いろははきっと責めない。

 それが余計に言いづらかった。

 いろはは、きっとまた調べようとする。止めても、一人で行ってしまうかもしれない。あの子は怖がりなのに、迷子がいると思うと怖がることを後回しにしてしまう。

 だから、まひるは言えなかった。

 いろはを信じていないからではない。

 信じたら、いろはを止められなくなる気がしたからだ。

だが、いろははその変化に気づいていた。まひるの表情には、以前にはなかった翳りが差している。以前なら「気にしすぎだよ」と笑い飛ばしていたはずのことに、まひるは無言になることが増えた。

 

「まひる、最近、何かあった?」

 休憩室でそう尋ねると、まひるは一瞬言葉に詰まり、それから小さく首を振った。

「ううん、なんでもない。ちょっと疲れてるだけ」

 その言い方は、以前いろはがまひるに向けていた言い訳と同じ響きをしていた。いろははそれ以上、聞かなかった。まひるが話したくなるまで、待とうと思った。

 その日、いろはは急遽、動物園エリアの応援に回された。夏休みの繁忙期はどのエリアも人手が足りない。総合案内の仕事の合間に、他部署の手伝いをすることも珍しくなかった。

 動物園エリアは、レトロ遊園地エリアからさらに奥に位置している。昼間は小動物とのふれあいコーナーが賑わい、家族連れの人気スポットになっている。だが、夕方以降、夜行性動物館だけは別の顔を見せる。

 いろはが動物園エリアに着いたとき、飼育員の森崎みことが、困った顔で案内板の前に立っていた。日に焼けた肌に、短く切った髪。作業着の袖を肘までまくり、首には使い込まれたタオルをかけていた。 

「あ、朝岡さん。応援、ありがとうございます」

「はい、何をすればいいですか?」

「じつは、夜行性動物館の様子がちょっとおかしくて。お客様への説明、手伝ってもらえますか」

 森崎は三十代前半の女性で、動物への愛情が言葉の端々から伝わってくる人だった。だが今日は、いつもの落ち着きがどこか揺らいでいるように見えた。

「おかしいって、どんな風にですか?」

「動物たちが、今日はずっと同じ方向を見て、落ち着かないんです。威嚇するような声も出してて。お客様が怖がっちゃって」

 いろはは森崎について、夜行性動物館の中へ入った。薄暗い館内には、赤みがかった照明が灯され、フクロウやコウモリ、夜目の効く小型獣たちが展示されている。

 いつもなら静かに眠っているか、ゆったりと動き回っているはずの動物たちが今日は落ち着かない様子だった。フクロウは首を不自然な角度に曲げ、ケージの奥の一点をじっと見つめている。小型の哺乳類は隅に固まって震えていた。

「ほら、見てください。あそこ」

 森崎が指したのは、館内の中央通路だった。左右にケージが並ぶその通路の突き当たりを複数の動物が同時に見つめていた。

 いろはもその方向へ目をやったが、そこには何もない。ただの壁と、非常口の緑色の表示灯があるだけだった。

「何もない、ですよね……?」

「そうなんです。何もないはずなんです」

 森崎の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。

「私、ここで働いて長いですけど、動物がこんな風になるの、初めてじゃないんです。じつは、去年のハロウィンの時期にも、似たようなことがあって」

「去年もですか?」

「はい。あのときも、こんな風に、動物たちが同じ方向を見て、威嚇して。お客様には『暑さや環境の変化で落ち着かないようです』って説明してたんですけど……本当のところは、よくわからなくて」 

 いろはは森崎の言葉に耳を傾けながら、館内をゆっくり歩いた。

 通路の奥へ進むにつれ、動物たちの反応がさらに強くなっていく。フクロウが翼を広げ、威嚇するような鳴き声を上げた。小型獣たちは一斉に、同じ壁の方向へ視線を集中させている。

 いろはは、その壁に近づいてみた。何の変哲もない、コンクリートの壁だった。だが、耳を澄ませると、微かに――本当に微かに、何かを引きずるような音が壁の向こうから聞こえてくる気がした。

「森崎さん、この壁の向こうって、何があるんですか?」

「え……その先は、旧夜行性動物館だったはずです。今の建物を新設したときに、閉鎖された古い施設です」

「閉鎖された施設……」 

 いろはの脳裏に、お化け屋敷の封鎖された「非常口」が浮かんだ。この園には、そういう場所がいくつもあるのかもしれない。忘れられたまま、それでも何かを閉じ込めている場所が。


 その夜、閉園後。いろはは森崎と共に、もう一度夜行性動物館の点検を行うことになった。表向きは「動物たちの様子を確認するため」という名目だった。

 館内は昼間よりもさらに静かで、赤みがかった照明だけが薄く空間を照らしていた。動物たちは相変わらず落ち着かない様子で、同じ壁の方向を注視していた。

「森崎さん、下がっててもらえますか」

 いろはがそう言うと、森崎は驚いた顔をした。

「朝岡さん、一人で行くつもりですか? だめですよ、それは」

「いえ……様子を見るだけです。無茶はしません」

 そう言いながらも、いろはの足は、自然と壁の方向へ向いていた。動物たちが恐れているものが何なのか、確かめずにはいられなかった。

 通路の突き当たりに近づいたとき、ふと、いろはの背後で空気が動いた。振り返ると、そこに黒いワンピースの少女が立っていた。

だが、少し離れた場所にいる森崎の視線は少女の姿を通り越し、落ち着かない動物たちへ向けられていた。

「すず……さん?」

いろはが、その名を本人に向かって口にしたのは初めてだった。

 少女は一瞬、目を細めた。

「勝手に名前つけないで」

「あ……ごめんなさい。でも、他に呼び方がわからなくて」

 謝りながらも、いろははその名を取り消せなかった。

 少女も、二度と呼ぶなとは言わなかった。ただ、いろはから顔を逸らしたまま、足元の影だけが小さく揺れた。


 やがて少女は、いろはの隣に並んで同じ壁を見つめた。

「動物は、あんたを怖がってない」

「え?」

「動物は嘘つかない。あんたが誰か、私が何かも、動物にはちゃんと見えてる」

 拒まれても、いろはの中では、もう彼女は「すず」になっていた。

 すずの声には、これまでの突き放すような響きの中に、わずかに違う色が混じっているように感じられた。

「じゃあ、動物たちが怖がってるのは……」

「私じゃない」

 すずは、壁の向こうを見つめたまま言った。

「別のがいる」

「別の……怪異、ってことですか?」

「怪異って言葉、あんたたち人間はすぐ使うけど」

 すずは小さく息をつくような仕草をした。人間ではないはずなのに、そういう仕草だけは妙に人間らしかった。

「この園には、私だけじゃない。もっと古いのも、もっと悪いのも、いる」

「もっと悪いって……」

「私は、迷子を探してる。でも、それは違う。迷子を、増やそうとしてる」

 いろはは、その言葉の意味を理解しようとした。

「迷子を、増やす……?」

「帰り道を忘れさせる。自分の名前を捨てさせる。そうすれば、その子はずっとこの園のものになる」

 すずの声は淡々としていたが、その内容は、いろはの背筋を凍らせるのにじゅうぶんだった。

「そんなこと、誰がしてるんですか」

「知らない。姿を見たことない。でも、気配は感じる。あんたが見てる鏡の映像にも、たぶん、あれの影が混じってた」

 いろはは、ミラーハウスで見たパレードの光景を思い出した。あの中に混じっていた、人間ではない形をしたものたち。あれらの中に、すずとは違う「何か」がいるということだろうか。

「動物たちが怖がってるのは、それ、ってことですか」

「たぶんね。動物は、私を怖がらない。でも、あれのことは、本能で拒絶する」

 その時だった。壁の奥から、はっきりとした足音が聞こえた。何かを引きずるような、規則正しい、重い音。

 いろはは思わず身を強張らせた。すずが、すっといろはの前に立った。

「下がって」

 その声には、これまでにない強さがあった。

 いろはは言われるままに下がりながらも、すずのワンピースの袖を指先で掴んだ。

「すずさんも、危なくなったら逃げてください」

「今、心配される側はあんたでしょ」

 すずは呆れたように言ったが、袖を振り払おうとはしなかった。

すずの背中が、すぐ目の前にあった。黒いワンピースの肩は細く、街灯も届かない館内の赤い照明の中で、ひどく頼りなく見えた。

 けれど、その背中は逃げなかった。

 壁の向こうから近づいてくるものが、すずにとっても危険なのかどうか、いろはにはわからない。すずが怖がっているのかも、表情からは読み取れなかった。

 ただ一つだけ、わかったことがある。

 すずは今、いろはを壁から遠ざけるために、自分の方を前に出している。

 すずの足元で、異形の影が大きく広がった。

 鳥の翼にも、獣の背にも見える黒い形が、いろはと壁の間を塞ぐように床を覆っていく。

 人間の影ではなかった。

 怖いと思うべきものだった。

 それなのにいろはには、その歪な影が自分を包んで守ろうとしているように見えた。

 影の先端が、いろはの靴へそっと触れた。

 指先のようにも、獣の鼻先のようにも見えた。

 冷たいはずなのに、そこだけが不思議と、誰かに手を握られたように感じられた。

「すずさん……」 

「黙って」

 短く遮られた。怒っているようにも聞こえたし、焦っているようにも聞こえた。

 いろははそれ以上、何も言えなかった。

 怖いのは、壁の向こうから近づいてくる足音のはずだった。

なのにいろはは、それよりも、目の前の細い背中が消えてしまいそうなことの方が怖かった。

これまでにも、迷子が見つからなかったらどうしようと不安になったことはある。

けれど、今感じているものは、それとは違う。

誰かが帰れなくなるからではない。すずに、もう会えなくなることが怖かった。

 足音は次第に近づいてきて、そして――ぴたりと止まった。

壁の表面が、内側から押されたようにわずかに膨らんだ。

 五本ではない何本もの指の形が浮かび、すずの影に触れる寸前で止まった。

 いろはは息を殺して、壁を見つめた。動物たちの威嚇の声だけが、館内に響いている。


 どれくらいそうしていただろうか。やがて、足音は遠ざかっていった。

 すずは、しばらくその場から動かなかった。

「行った……ってことですか?」

「今日は」

 すずの言葉には、安堵よりも警戒の色が濃く残っていた。

 いろはは、まだ速いままの鼓動を抑えながら、すずの横顔を見た。

「あの、ありがとうございました」

 すずは、こちらを見なかった。

「何が」

「今、前に立ってくれたので」

「勘違いしないで。あんたがあれに連れていかれたら、面倒が増えるだけ」

 いつもの突き放すような声だった。けれど、すずはそう言いながらも、いろはがちゃんと後ろにいるか確かめるように一度だけ視線を向けた。

 その一瞬が、いろはには不思議と忘れられなかった。

「あれは、あんたにはまだ、姿を見せない。でも、時間の問題」

「どうして、私に見せないんですか?」

「知らない。たぶん、私がここにいるから」

 すずはそう言うと、いろはに背を向けかけた。だが、ふと足を止めて、振り返った。

「あんた、動物館のガラス、見てみるといい」

「ガラス?」

 すずが指したのは、館内の奥、フクロウの展示ケージの背後にある大きなガラス窓だった。夜行性の動物たちの生態を見せるための、演出用の窓だ。

 いろはがそちらへ近づくと、ガラスの向こうには、暗い展示スペースが広がっているだけだった。だが、ガラスの表面に反射する形で、何かがぼんやりと映り込んでいることに気づいた。

 いろははガラスに顔を近づけた。

 映っていたのは、動物ではなかった。丸みを帯びた、どこか懐かしい輪郭。大きな目、丸い耳。まるで、古いマスコットキャラクターのような顔だった。

 だが、その表情には笑顔というにはあまりに歪んだ、不自然な引きつりがあった。

 いろはが息を呑んだ瞬間、その映り込みは、瞬きをする間に消えていた。ガラスには、いつも通りの暗い展示スペースが映っているだけだった。

「今の……」

 振り返ると、すずの姿はすでになかった。動物たちの声だけが、まだ落ち着かない様子で館内に響いていた。

「朝岡さん、大丈夫ですか?」

 少し離れたところから、森崎が不安そうに声をかけてきた。

「はい。少し驚いただけです」

 いろはは、その夜見た顔の輪郭を記憶に焼き付けようとした。丸い耳。大きな目。どこかで見たことがある気がする、古いマスコットの顔。


 翌日、いろはは休憩時間に、園の資料室でこっそり古い広報誌を探した。星影ランドの歴史を紹介する冊子の中に、開園当初のマスコットキャラクターが紹介されているページがあった。

 名前は「兎月ミミ」。

 丸い耳、大きな目。いろはがガラスに見た輪郭と、確かに重なるものがあった。

 いろはは、その名前をノートに書き留めた。

三枝ななみ。

仮称――夜見すず。

新しい名前が加わった。

 兎月ミミ。


「それで、また奥まで近づいたの?」

 休憩室に戻り、いろはが昨夜のことを話し終えると、まひるは険しい顔で尋ねた。

「一人じゃないよ。森崎さんもいたし」

「いても、すぐ隣にいたわけじゃないでしょ。何かあったら、森崎さんだって助けられなかったかもしれない」

 まひるの声は、いつもより硬かった。

 いろはは言い返そうとして、言葉に詰まった。まひるの顔が怒っているというより、青ざめて見えたからだ。

「まひる?」

「……いろははさ、怖くないの」

「怖いよ」

「だったら、なんで行くの?」

 まひるは低い声で問いかけた。

「迷子がいるかもしれないから? 名前を呼べば帰れるかもしれないから? でも、いろは自身が帰ってこられなくなったら、どうするの?」

 その言葉に、いろはは何も返せなかった。

 まひるは唇を噛んだ。何かを言おうとして、やめる。胸の奥に押し込めたものが、そこからこぼれそうになっているようだった。

「ごめん。言い方きつかった」

「ううん」

「でも、お願いだから、一人で抱えないで」

 まひるは、いろはの閉じたノートを見た。

「信じるって言えるほど、私はまだ強くない。でも、いろはが危ないことしてるのを見ないふりできるほど、薄情でもないから」

 いろはは、まひるを見た。

「まひる……」

「だから、次に何か調べるなら、ちゃんと言って。止めるかもしれないけど」

「止めるんだ」

「止めるよ。友達だから」

 そう言ったまひるの声は、少しだけ震えていた。


 この園には、まだ知らないものが、いくつも眠っている。

 そんな予感が、いろはの中で日に日に強くなっていった。


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