第四話 同期まひるは怪異を信じない
鏡の中の光景を見てから、いろはは自分でも気づかないうちに笑顔がぎこちなくなっていたらしい。
「朝岡さん、大丈夫? 最近ちょっと顔色悪いよ」
総合案内カウンターで常連の年配女性客に声をかけられて、いろはは慌てて笑顔を作り直した。
「あ、大丈夫です! ありがとうございます」
「無理しないでね。夏は暑いから」
客が去っていくのを見送りながら、いろはは自分の頬を軽く叩いた。
夢を壊さない場所だ。不安を見せる場所じゃない。
わかっているのに、うまくいかない日が続いていた。
その日の休憩時間、まひるが心配そうな顔でいろはの隣に座った。
「いろは、ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「最近、様子おかしくない? 元気ないっていうか、ずっと何か考えてるっていうか」
いろはは一瞬、言葉に詰まった。誤魔化そうかとも思ったが、まひるの真剣な目を見て思い直した。
「……じつは、変なもの見たり聞いたりしてて」
「変なもの?」
いろはは、これまでのことを順を追って話した。
閉園後の、存在しない迷子放送。お化け屋敷で出会った、影の揺れる少女。ミラーハウスの鏡に映った、まだ起きていない事故。そして、その後に映ったハロウィンのパレードの光景。
まひるは最初、黙って聞いていた。だが、話が進むにつれて、その表情はどんどん曇っていった。
「……いろは、それ、本気で言ってる?」
「本気だよ。嘘じゃない」
「いや、嘘とかじゃなくて。たぶん、いろはは本気でそう思ってるんだと思う。だから心配なの」
まひるの声は、責めるような響きではなかった。むしろ、労わるような、痛ましいものを見るような声だった。
「まひる……」
「ねえ、いろは。最近、ちゃんと寝てる?」
その問いに、いろはは答えられなかった。実際、あの一件以来、まともに眠れた夜はほとんどなかった。
「夏休みの繁忙期って、想像以上にきついから。私も最初の一週間、頭おかしくなりそうだったもん。ずっと人に囲まれて、休む暇なくて。そういうときって、変なもの見たり、変なこと考えたりしやすいらしいよ」
まひるの言葉は、優しさから来るものだった。いろはにも、それはわかっていた。だから、余計に何も言えなくなった。
「疲れが溜まってるだけだよ、たぶん。無理しないで、ちゃんと休んで」
「……うん」
いろはは頷くしかなかった。信じてもらえないことが悲しいわけではない。ただ、あの光景が幻覚や疲労のせいだと片付けられてしまうことに、言いようのないもどかしさを感じていた。
あの少女は、本当にいた。
あの子の声も、影の揺れ方も、いろはの記憶にはっきりと刻まれている。
まひるは話を切り上げるように明るい声で話題を変えた。
「そういえば、来月からハロウィンの準備始まるんだって。イベント統括に、外部の演出家が入るらしいよ」
「演出家?」
「うん、鴻上レイっていう人。SNSで結構有名らしくて、没入型ホラーの演出とかやってる人みたい。支配人が直々にスカウトしたとかって、先輩たちが話してた」
大石支配人の名前を聞いて、いろはは思わず耳を傾けた。総合案内の仕事をしていても、支配人と直接話す機会はほとんどない。だが、園内で見かける大石は、いつも穏やかな笑みを浮かべ、来園者にもスタッフにも丁寧に接する人物だった。
「支配人って、どんな人なの?」
「私もあんまり知らないけど、すごく園を大事にしてる人らしいよ。昔、閉園しそうになったのを立て直したとかって噂もある」
「そうなんだ……」
いろはの中で、大石という人物の輪郭が、まだぼんやりとしたまま形を作り始めていた。
休憩を終えて、いろはとまひるはそれぞれの持ち場に戻った。
午後の園内は、相変わらずの賑わいだった。子どもたちの声、アトラクションのアナウンス、フードエリアから漂う匂い。いつも通りの明るい星影ランドの光景。
その明るさの中に、いろはだけが薄い違和感の膜を一枚隔てて立っているような感覚があった。
夕方、閉園時間が近づいた頃、いろははまひるの担当エリアに顔を出した。物販コーナーの片付けをしているまひるに、缶ジュースを差し入れる。
「お疲れ、まひる」
「あ、ありがとう。ちょうど休憩が欲しかったんだ」
二人でしばらく他愛のない話をして、笑い合った。この時間だけは、いろはにとっても、いつもの日常が戻ってくるようだった。
「じゃあ、私そろそろ上がるね。まひるも、無理しないで」
「うん、いろはもね」
いろはは先に退勤の準備をするため、バックヤードへ向かった。
まひるは閉店作業の最終確認のため、しばらく物販コーナーに残っていた。客がすべて退店したのを確認し、レジを締め、在庫を数える。
閉園アナウンスが響き、園内の照明が徐々に落とされていく。まひるは黙々と作業を続けていた。
ふと、まひるの無線から、本来なら園内スピーカーで流れるはずの迷子放送が聞こえた。
「迷子のお知らせです」
まひるは手を止めた。この時間に、放送が入るのは珍しい。
「久遠まひるさん、お連れさまが迷子センターでお待ちです」
まひるは、思わず固まった。
自分の名前。今、確かに、自分の名前が呼ばれた。
「……は?」
まひるは慌てて周囲を見回した。誰もいない。自分は今、ここに、確かにいる。
だとしたら――今、迷子センターで待たれている「久遠まひる」とは、いったい誰なのだろうか。
まひるは無線を握ったまま、しばらく動けなかった。
レジ横の在庫端末が、誰も触れていないのに点灯した。
画面には商品名ではなく、短い文字が表示されていた。
――お連れさまがお待ちです。
迷子センターへ行けば、何か分かるかもしれない。
そう思った瞬間、昼間のいろはの顔が浮かんだ。
閉園後の、存在しない迷子放送。記録にない名前。呼ばれても確認しに行かないで、と千景に言われたこと。
いろはから聞いた現象と、まったく同じだった。
「……いや、違う」
まひるは小さな声で呟いた。
無線の混線かもしれない。誰かの悪ふざけかもしれない。疲れていて、聞き間違えただけかもしれない。
そう考えれば考えるほど、自分の名前を呼ぶ声の湿った響きが耳の奥に残った。
久遠まひるさん。お連れさまが、迷子センターでお待ちです。
誰が待っているのか。何が待っているのか。考えたくないのに、考えてしまう。
まひるはレジ台に手をついた。指先が、少し震えていた。
信じたくない。
怪異なんて信じたくない。
でも、もし、いろはが見ていたものが本当だったら。
その続きを考えた瞬間、まひるは慌てて首を振った。
「疲れてるだけ」
昼間、自分がいろはに言った言葉を、今度は自分に言い聞かせる。
けれど、その声は、自分でも驚くほど頼りなかった。




