第三話 鏡の部屋に映る明日の事故
ミラーハウスで妙な噂が流れ始めたのは、夏休みも二週目に入った頃だった。
「あそこの鏡、自分の死に顔が映るらしいよ」
最初にその話を耳にしたのは、休憩室でまひるが話しているのを聞いたときだった。
「え、何それ」
「高校生のグループがSNSに上げてたの。『ミラーハウスで自分が死んでるみたいな顔が一瞬映った』って。バズってるらしいよ、ちょっとだけ」
まひるは笑いながら話していたが、いろはは笑えなかった。お化け屋敷の一件以来、園内の「ただの噂」が、そのまま「ただの噂」では済まされない気がしていた。
「まひる、それ本気にしてる?」
「まさか。演出の見せ方が上手いだけでしょ。ミラーハウスって元々、光の反射で変な角度から映るとことかあるし」
まひるの言い分はもっともだった。だが、いろはの中で何かが引っかかっていた。
その日の夜、いろははミラーハウスの巡回点検を任された。普段は別の担当だが、人手が足りず応援に回されたのだ。
ミラーハウスは、近未来エリアと隣接する古い施設だった。壁一面に配置された鏡が、来園者を複雑な迷路のように誘導する。昼間は子どもたちの笑い声と、鏡に映る自分の姿に驚く声で賑わっている。
いろはは点検用の懐中電灯を手に、閉館後の館内を歩いた。無数の鏡に、自分の姿が何重にも映り込む。歩くたびに、自分がいくつにも増えていくような錯覚に陥る。
ふと、正面の鏡に目をやったとき、いろはは足を止めた。
鏡の中の自分が一瞬、笑っていなかった。
いや――笑っていない、というより、表情がなかった。まるで疲れ果てた誰かのような、虚ろな顔。
瞬きをすると、鏡の中の自分はいつも通りの少し困った顔に戻っていた。
「……気のせい、だよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、いろはは点検を続けた。
だが、次の鏡の前を通ったとき、今度ははっきりと見えた。
鏡の中に映っていたのは、いろは自身ではなかった。
観覧車の前。子どもが一人、地面に倒れている。周囲に人だかりができ、誰かが「救急車!」と叫んでいる。制服を着たスタッフが駆け寄り、子どもを抱き起こす。その子の額から、血が流れていた。
いろはは息を止めて、その光景を見つめた。
子どもの顔には、見覚えがあった。今日、いろは自身が案内した家族の子どもだ。午前中、観覧車の待ち時間を尋ねてきた、あの家族の。
瞬きをした瞬間、映像は消えた。鏡には、ただ驚いた顔をしたいろは自身が映っているだけだった。
いろはの背後には誰もいない。
それなのに鏡の中では、黒い影がいろはの肩へ顔を寄せていた。
振り返ったときには、やはり誰もいなかった。
「――!」
いろはは震える手で懐中電灯を持ち直し、その場から逃げるように館内を出た。
その夜、いろはは眠れなかった。あれが何だったのか、幻覚だったのか、それとも――。
もし本当に、明日、あの子どもに何かが起きるのだとしたら。
翌朝、いろはは迷った末、まひるにだけ鏡で見たものを打ち明けることにした。
「観覧車の前で、子どもが怪我をする……って、それ、いつの話?」
まひるは半信半疑という顔をしながらも、話を聞いてくれた。
「わからない。でも、今日かもしれない」
「いろは、それ、本気で言ってる?」
「あの家族、今日も来園するかもしれない。昨日、また明日来るって話してたのを聞いたから」
まひるはしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。
「まあ……もし本当だったら大変だし。念のため、観覧車のとこ、気にしとくくらいはいいんじゃない?」
その言葉に、いろはは少し救われた気持ちになった。
「ありがとう、まひる」
「別に、怪異を信じたわけじゃないからね。単に、事故を未然に防げるならそれに越したことないってだけ」
その日、いろはは休憩時間を削ってまで、観覧車付近の巡回を買って出た。担当ではないことを不審に思われないよう、「熱中症対応の見回り強化です」と説明した。
午後三時過ぎ、いろはが見た家族が観覧車の列に並んでいるのを見つけた。昨日、案内した子どもだ。
いろはは、さりげなく列の近くに立ち、様子を見守った。子どもは元気にはしゃぎ、母親の手を引っ張っている。特に危険な様子は見当たらない。
ゴンドラの乗り口に近づいたとき、子どもが急に走り出した。
「危ない!」
いろはは反射的に飛び出し、子どもの腕を掴んだ。ちょうど、乗り口の段差につまずきかけていたところだった。
「わっ……」
「大丈夫? 走ると危ないよ」
いろはは膝をついて、子どもと目線を合わせた。子どもは、少しびっくりした顔をしていたが、怪我はなかった。
「ありがとうございます」
母親が慌てて頭を下げる。いろははホッと息をついた。
「いえ、お怪我がなくてよかったです」
事故は、防げた。
その日の夜、いろはは事故を防げたことに安堵しながら、再びミラーハウスへ向かった。あの鏡の中の映像が、本当に変わったのか、確かめたかった。
夜のミラーハウスは、昼間とはまた違う静けさに包まれていた。館内灯の一部が落とされ、鏡が青白い非常灯だけを反射している。
いろはは、あの鏡の前に立った。
映っていたのは、いろは自身の姿だった。肩の力が抜け、いろはは小さく息をついた。
だが、次の瞬間――鏡の中の光景が切り替わった。
昼間見た事故の映像ではない。まったく別の光景だった。
夜の園内。ハロウィンの装飾が施された通路を、無数の人影が列を作って進んでいる。
パレードだ、といろはは直感した。
子どものころ、家族と何度も見た、星影ランドのハロウィンパレード。色鮮やかな衣装を着たキャストやマスコットたちが、音楽に合わせて園内を進んでいく秋の恒例イベントだった。
だが、鏡の中に映っているものは、いろはの記憶にある明るい光景とはまるで違っていた。
仮装した無数の客たちの中に、明らかに人間ではないものが混じっている。影の形がおかしいもの。顔の位置がずれているもの。手足の関節が、あり得ない方向に曲がっているもの。
それらが仮装客たちに紛れ、同じ歩調で、同じ方向へと歩いていく。
誰も声を上げない。誰も笑っていない。
ただ静かに、行列だけが続いていた。
その行列の先頭に、黒いワンピースの少女が立っていた。
鏡越しに、少女と目が合った気がした。
いろはは思わず、鏡に手を伸ばした。指先が冷たいガラスに触れた瞬間、映像は消え、いつも通りの自分の姿が映った。
いろはは長い間、その場に立ち尽くしていた。
あの事故は、確かに防げた。だが、鏡の映像は消えなかった。ただ、別の未来に切り替わっただけだ。
夏休みが終わった先、まだ見ぬハロウィンの夜に、あのパレードが待っている。
いろはは、その光景が意味するものを、まだ理解できずにいた。だが一つだけ、確かなことがあった。
あの行列の先頭に立つ少女――あの子は、まだこの園から出られずにいる。
その夜、いろはは寮の部屋でノートに一つ、名前を書いた。
三枝ななみ。
まだ何の確証もない。だが、あの少女とこの名前が、どこかでつながっている気がしてならなかった。




