第二話 お化け屋敷に残った客
スマホのライトが震えたまま、いろはは動けなかった。
目の前の少女は、微動だにせずこちらを見ている。ガラス玉のような瞳には、感情らしいものが見当たらない。それなのに、なぜか目を逸らせなかった。
「あなた……誰、ですか」
声が掠れた。少女は答えない。代わりに、わずかに首を傾げた。人間なら当たり前の仕草のはずなのに、その動きはどこか、関節の位置がずれているような微妙な違和感を伴っていた。
いろはは無意識に一歩、あとずさった。
その拍子に、足元の何かを蹴ってしまう。からん、と乾いた音が響いた。見ると、古い金属製のバケツが転がっている。演出用の小道具だろう。
視線を戻したとき、少女の姿は消えていた。
「……え」
通路の奥にも、来た道にも、誰もいない。ただ、闇と、仕掛けの人形たちが、変わらずそこにあるだけだった。
いろはは急いでスマホのライトで周囲を照らしながら、来た道を引き返した。心臓が痛いほど鳴っていた。出口の光が見えたとき、初めて息を大きく吸い込めた気がした。
外に出ると、夜の空気が肌に染みた。汗が背中を伝っている。
ふと、監視カメラの存在を思い出す。お化け屋敷の入り口には確か、防犯用のカメラが設置されていたはずだ。
翌朝、いろはは誰にも気づかれないよう、警備室の映像記録を確認させてもらった。理由は、「昨夜、施錠されているはずの扉が開いていたので確認したい」ということにしておいた。嘘ではない。
「ここです……よね?」
昨夜の時間帯の映像を、警備員と一緒に確認する。扉が開いていたことは記録されていた。だが――。
「あれ。おかしいな」
警備員がモニターに顔を近づける。
映像の中には、いろは自身がお化け屋敷に入っていく姿は映っていた。だが、少女の姿はどこにもなかった。いろはが少女と対峙していたはずの通路の映像には、誰もいない暗闇が続いているだけだった。
「朝岡さん、中で何かあったんですか?」
「い、いえ……すみません、勘違いだったかもしれません」
いろはは曖昧に笑って、その場を離れた。
勘違いなんかじゃない。あの少女は確かにそこにいた。声を聞いた。目が合った。
だが、カメラには映らない。
その事実だけが、いろはの中に、じわじわと不気味さを積み重ねていった。
その日の午後、いろははお化け屋敷の担当キャストから、気になる報告を受けた。
「じつは、さっき小学生の女の子が、お化け屋敷から出てきてすごく怖がってて。親御さんも困ってたんです」
「何があったんですか?」
「それが……『出口に、ずっと手を振ってる女の子がいた』って言うんです。うちのスタッフでそんな子いないので、演出のどれかと勘違いしたのかなとは思うんですけど」
いろはの背筋に、冷たいものが走った。
「その子、今どこに?」
「もう帰られました。特に体調の異常とかはなかったので、そのまま……」
いろはは礼を言ってその場を離れながら、頭の中で昨夜の記憶を反芻していた。
出口に立つ、手を振る女の子。
それは、あの少女のことだろうか。それとも――昨夜の放送で呼ばれていた、あの名前の子どもだろうか。
三枝ななみ。
記録にない名前。だが、確かに園内放送で呼ばれた名前。
いろはは休憩時間に、こっそり過去の資料を探そうとしたが、迷子センターの端末には、それらしい情報は一切なかった。当然だ。今日の記録の話ではないのだから。
それでも、何かが引っかかっていた。二十年前という言葉。あの少女が口にした「三枝ななみなら、二十年前から呼ばれてるよ」という台詞。
その夜、いろはは再び、お化け屋敷へ向かった。
千景には内緒だった。
「一人で行かないで」と、あれほど言われたばかりなのに。
いろはにも、自分の行動が正しいとは思えなかった。だが、確かめずにはいられなかった。あの少女が何者なのか。あの放送の名前が、何を意味するのか。
もし本当に、誰かがまだ、この園の中で帰れずにいるのだとしたら。
閉園後の園内は、昨夜よりもさらに静まり返っているように感じられた。街灯の明かりだけが等間隔に並び、遠くでカラスの声が響く。
お化け屋敷の扉は、今夜もわずかに開いていた。
いろはは深呼吸をしてから、中へ入った。
昨夜と同じ、湿った木の匂い。仕掛けの人形たちの影。だが今夜は、通路の奥から、微かに何かを引きずるような音が聞こえていた。
「……もしもし?」
声をかけながら進む。音は、奥へ進むほどはっきりしてきた。まるで、何か重いものを引きずっているような、規則正しい音。
いろはは通路の突き当たりに差し掛かった。そこは、昼間の見学ルートには含まれていない、封鎖されたエリアだった。ロープが張られ、「立入禁止」の札が下がっている。
その奥に、扉があった。古びた木製の扉。表面には、色褪せた文字で「非常口」と書かれている。
だが、いろはが記憶している限り、このお化け屋敷にそんな非常口はなかったはずだ。
扉の前に、赤い風船が結びつけられていた。しぼみかけているのに、まだかろうじて形を保っている古い風船。
風はない。
それなのに風船は、扉の向こうから引かれるように細い糸を何度も震わせていた。
耳を澄ますと、ゴムの表面を内側から指で擦るような音がした。
「――帰れないよ」
声がした。
振り返ると、少女が立っていた。今夜も、影だけが不自然に揺れている。
「あなたは……」
「ここは怖がらせる場所じゃない」
少女は感情の読めない声で言った。
「帰れなくする場所」
「それって、どういう……」
「これ以上、奥に行かない方がいい」
少女はいろはの前に、すっと立ちはだかるように動いた。人間の動きとしては、あまりに滑らかで、あまりに静かだった。
「ここから先は、あんたが戻ってこられる場所じゃない」
「でも、あの放送……三枝ななみっていう子、迷子なんですよね。だったら、私は迷子センターの担当として――」
「あんたに、何ができるの?」
少女の声に、初めてわずかな棘のようなものが混じった。
「名前を呼ぶだけで、帰れる子なんていない。ここでは」
「じゃあ、どうすれば……」
「知らない」
短く突き放すように言って、少女は赤い風船に視線を移した。
その瞬間、足元の影も風船へ手を伸ばすように細長く形を変えた。
けれど、少女自身の腕は動いていなかった。
「これはただの目印。あんたが触っていいものじゃない」
いろはは、その言葉に何か痛みのようなものが滲んでいるのを感じた。突き放すような口調とは裏腹に少女の視線は、その古びた風船に長く留まっていた。
「……あなたの名前、聞いてもいいですか」
少女は一瞬、動きを止めた。
いろはにとっては、何気ない質問のつもりだった。だが、少女はまるで、聞かれることを想定していなかったかのように、わずかに目を見開いた。
「名前を聞いて、どうするの?」
「え……いえ、その、ただ……」
「名前を聞いたら、記録に残すの? 呼びかけるの? それで、帰らせようとするの?」
矢継ぎ早の問いに、いろはは言葉を失った。少女の声には、怒りとも悲しみとも取れない、複雑な響きがあった。
「今日は、帰って」
少女はそれだけ言うと、背を向けた。
「待って――」
いろはが手を伸ばしかけたとき、少女の姿は、闇に溶けるように消えていた。
残されたのは、しぼんだ赤い風船と封鎖されたはずの「非常口」の扉だけだった。
いろはは、その扉に近づいた。
鍵はかかっていないようだった。だが、開けようとした瞬間、無線が鳴った。
「朝岡さん? 聞こえてますか。もう退勤時間過ぎてますよ」
千景の声だった。いろはは我に返り、慌てて手を扉から離した。
「す、すみません、今戻ります」
通話を切り、いろははもう一度、扉と赤い風船を見た。
この先に、何かがある。あの少女が守ろうとしている、何かが。
だが今夜は、これ以上進むことはできなかった。
お化け屋敷を出ると、月明かりが園内を薄く照らしていた。振り返ると、建物はただの古いアトラクションのように、ひっそりとそこに建っているだけだった。
翌日、いろはは千景にそれとなく尋ねてみた。
「お化け屋敷って、昔から今の造りだったんですか? その、非常口とか」
千景は一瞬、手を止めた。
「……どうして、そんなこと聞くの」
「いえ、なんとなく気になって」
千景はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに言った。
「あそこの奥には昔、別の出口があったよ。今は封鎖されてる」
「どうして封鎖したんですか」
「さあ。私が入る前の話だから」
千景の口調は、いつもより硬かった。それ以上、いろはは聞けなかった。
ただ、あの赤い風船が二十年という歳月の重さを持って、そこに結びつけられていたことだけは、確かなことのように思えた。
いろははノートを開き、今日までに分かったことを書き留めた。
三枝ななみ。
二十年前。
閉鎖された非常口。
黒いワンピースの少女。名前は不明。
最後の一行で、ペンが止まった。
名前がないままでは、考えるたびに「あの少女」と呼ぶしかない。
けれど、本人が名乗っていない名前を、勝手に決めるのも違う気がした。
いろはは少し迷ってから、行の端に小さく書き加えた。
仮称――夜見すず。
夜の園に現れては、呼び止める間もなく消えてしまう少女。
せめて次に会ったとき、心の中で呼べる名前が欲しかった。
書いた名前を、いろはは指先でそっとなぞった。
調査のための仮称にすぎないはずなのに、文字にした途端、あの少女が少しだけ自分の近くへ来たように感じられた。
なぜ「すず」なのか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、その響きだけが、あの少女に似合う気がした。
もう一度会いたい。
その気持ちは、ノートには書かなかった。




