第一話 新人キャストと夏休み初日の迷子放送
星影ランドの夏休みは、朝から音が多い。
入園ゲートが開く前から、子どもたちの声がフェンスの向こうで弾んでいた。ポップコーンの甘い匂い。点検中のメリーゴーランドから流れる、少し古びた音楽。スタッフ用通路を走る台車の車輪の音。
朝岡いろはは、胸元の名札を指で押さえた。
白い制服の上に、淡い青のベスト。肩にかかる黒髪は、朝から何度整えても毛先が少しだけ外へ跳ねていた。丸みのある目元は、緊張するといっそう幼く見える。名札には、まだ自分でも見慣れない文字がある。
朝岡いろは。その下に、小さく『総合案内』と書かれていた。
「朝岡さん、顔が固い」
横から声をかけられて、いろはは思わず背筋を伸ばした。
鳴海千景が、いつもの落ち着いた笑みでこちらを見ていた。肩より少し長い黒髪を低い位置で束ね、切れ長の目元には、忙しい朝でも崩れない落ち着きがあった。総合案内チーフ。いろはにとっては、入社してからずっと仕事を教えてくれている先輩だ。
「す、すみません」
「謝らなくていいから、笑って。今日から本番みたいなものだからね」
今日から本番。
その言葉だけで、いろはの手のひらに汗がにじんだ。
星影ランドに勤め始めて三か月。研修も、平日の案内も、迷子対応の練習もしてきた。けれど、夏休みの初日は初めてだった。
ゲートの外には、開園を待つ人の列ができている。小さなリュックを背負った子ども。日傘を差した母親。首にタオルをかけた父親。スマホを構えた高校生たち。
誰もが、これから始まる一日を楽しみにしている顔をしていた。
だから、いろはも笑わなければならない。
ここは、怖い顔をする場所ではない。
不安を見せる場所でもない。夢を壊さない場所だ。
そう教わってきた。
開園を知らせる明るいチャイムが、園内に響いた。ゲートが開くと同時に、人の波がなだれ込んでくる。
「おはようございます、いらっしゃいませ!」
いろはは声を張った。声が上ずったのが自分でもわかったが、誰も気にする様子はない。子どもたちはもう走り出し、親たちがそれを追いかけていく。
総合案内カウンターに着くころには、すでに三組の客が並んでいた。
「すみません、ベビーカーってどこで借りられますか」
「観覧車の待ち時間、今どれくらい?」
「近未来エリアのVRって、身長制限ありますよね?」
次々と質問が飛んでくる。いろはは研修で覚えたことを、頭の中で必死にたぐり寄せながら答えていく。汗が首筋を伝った。日差しはまだ朝のものなのに、もう真夏の熱を持っている。
「はい、ベビーカーは正面ゲート横の貸出所で。観覧車は現在四十分待ちです。VRアトラクションは身長百二十センチ以上からご利用いただけます」
言い終えて、ホッと息をつく間もなく、次の客が来る。
午前中だけで、いろはは十回以上同じ説明を繰り返した。日焼け止めの匂い、子どもの泣き声、スタッフ無線から流れる短い指示。すべてが初めての速さで過ぎていく。
「朝岡さん、お昼休憩交代で。先に行っていいよ」
千景にそう言われて、いろはは初めて時計を見た。もう昼の一時を過ぎている。
「あ、ありがとうございます。すみません、ちょっと分からないことばかりで……」
「初日はそんなもの。むしろ、ちゃんと質問返せてたと思うよ」
千景の声は淡々としているが、いつも通り優しい。いろははようやく肩の力を抜いて、バックヤードへ向かった。
スタッフ専用の休憩室は、園の裏側にある。表の華やかさとは対照的に、無機質な蛍光灯と古いロッカーが並ぶ場所だ。
「いろは、お疲れー」
久遠まひるが缶ジュースを片手に手を振ってきた。明るい茶色の髪を高い位置で一つに結び、笑うと大きな目が少し細くなる。日に焼けた頬も、よく通る声も夏の園内によく馴染んでいた。同期入社で、担当は物販とフード。人当たりのよさで、もう常連客のあしらいまで覚えているらしい。
「まひる、午前中どうだった?」
「まあまあかな。物販は在庫チェックでバタバタしたけど。そっちは?」
「質問攻めだった……頭が真っ白になりかけた」
「わかる。私も最初そうだったもん。でも慣れるよ、たぶん」
まひるは笑いながら、いろはの隣に座った。二人でしばらく他愛のない話をする。この時間だけが、いろはにとって唯一息のつける時間だった。
しかし、休憩は長くは続かない。
無線から、聞き覚えのある声が響いた。
「総合案内、迷子対応です。レトロ遊園地エリア、メリーゴーランド付近。至急対応願います」
いろはは反射的に立ち上がった。
「行ってきます」
「気をつけてね」
まひるの声を背に、いろはは走った。
迷子対応は、研修で一番時間をかけて教わったことだ。焦らせない。急かさない。子どもを安心させる声で話す。
メリーゴーランドの前には、小さな女の子が泣きながら立っていた。人混みの中で、母親とはぐれてしまったのだろう。周りの大人たちが遠巻きに見ているだけで、誰も声をかけていない。
「こんにちは。お名前、教えてくれる?」
いろはは腰を落として、女の子と目線を合わせた。
「……みお」
「みおちゃんね。お母さんとはぐれちゃったのかな」
女の子はこくりと頷いた。涙で顔がくしゃくしゃになっている。
「大丈夫だよ。お姉さんと一緒に、迷子センターに行こうか。きっとお母さん、そこに来てくれるから」
いろはは女の子の手を取り、無線で状況を報告しながら、迷子センターへ向かった。
園内には、こういうときのための決まりごとがいくつもある。
迷子を見つけたら、まず名前を聞く。名前を聞いたら、必ず記録に残す。記録に残した名前は、迷子センターの端末に登録され、それを元に館内放送で呼びかける。
名前を確認し、記録し、呼びかける。
それが、園に来た子どもを無事に帰すための手順だった。
迷子センターに着くと、ちょうど母親が血相を変えて駆け込んでくるところだった。
「みお!」
「お母さん!」
女の子が母親の胸に飛び込む。いろははその光景を見て、初めて肩の力が抜けるのを感じた。
「本当にありがとうございました……」
「いえ、無事に見つかってよかったです」
母親が何度も頭を下げながら去っていくのを見送って、いろはは小さく息を吐いた。
怖かったのは、女の子の方だったはずだ。それでも、あの子は名前を聞かれて、少しだけ安心した顔を見せた。
名前を聞けば、帰り道につながる。
それが、いろはが初めて実感したこの仕事の意味だった。
午後の日差しは強く、園内はさらに人で溢れていく。熱中症で体調を崩す客の対応、迷子の呼び出し、アトラクションの故障による誘導。いろはは休む間もなく走り回った。
夕方には足の裏が痛み、声は掠れていた。それでも、閉園のアナウンスが響いたとき、いろはは達成感のようなものを感じていた。
「本日のご来園、誠にありがとうございました。星影ランドは、まもなく閉園時間となります」
明るい音楽と共に、客たちが少しずつゲートへ向かっていく。楽しかった一日の名残を惜しむように、何度も振り返りながら。
いろはは、その光景をカウンターの奥から見つめていた。
やっと、終わった。
そう思った瞬間、無線からノイズ混じりの音が聞こえた。
いろはは首をかしげた。閉園アナウンスはもう終わっているはずだ。次の放送があるとしたら、それはスタッフ向けの終業連絡のはずだった。
だが、園内スピーカーから流れてきたのは、いつもの明るい放送とは違う、どこか湿った響きの声だった。
「迷子のお知らせです。三枝ななみちゃん、お連れさまが迷子センターでお待ちです」
いろはは、思わず端末を確認した。
迷子登録一覧。今日一日の記録。そこには、そんな名前は存在しなかった。
「……え?」
もう一度、放送が流れる。
「三枝ななみちゃん、お連れさまが迷子センターでお待ちです」
同じ声。同じ文言。だが、今日、そんな迷子は届け出られていない。
そのとき、誰も近づいていない迷子センターの自動扉が、ゆっくりと開いた。
外には誰もいない。
それでも床の案内表示のあたりが、何かの重みを受けたように一度、小さく軋んだ。
「朝岡さん」
振り返ると、千景が立っていた。表情はいつもと変わらないが、声にはわずかな硬さがあった。
「その放送、聞こえた?」
「はい……でも、記録には、そんな名前……」
「うん。ないよ」
千景は端末を覗き込み、それから、いろはの目をまっすぐ見た。
「いい、朝岡さん。よく聞いて」
その声は、いつもの指導の口調とは違っていた。
「閉園後の放送には、返事をしないで」
「え……」
「呼ばれても、確認しに行かないで。無視していい。というか、無視して」
千景の声は穏やかだった。けれど、その指先だけが端末の縁を強く押さえていた。
いろはは、千景が怒っているのだと思った。新人が余計なことに首を突っ込まないよう、強めに注意しているのだと。
でも、違った。
千景は、怒っているのではなかった。
怖がっていた。
そのことに気づいた瞬間、いろはは何も言えなくなった。
千景は迷子センターの奥を一度だけ見た。まるで、そこに誰かが立っているのを確認するように。けれど、そこには誰もいない。閉園後の薄暗いカウンターと、今日一日分の記録が残った端末だけがある。
「昔から、たまにあるの」
千景は言いかけてから、すぐに首を振った。
「……ううん。今のは忘れて」
「千景さん?」
「朝岡さんは、今日の記録だけ確認して。記録にない名前には、関わらないで」
その言い方は、研修で教える注意事項ではなかった。
誰かに言い聞かせているようだった。
「分かりました」
いろはは戸惑いながらも頷いた。だが、頭の中には昼に対応したばかりの、あの女の子の顔が浮かんでいた。
名前を聞けば、帰り道につながる。
ついさっきまで、いろははそう信じていた。
だとしたら、あの放送で呼ばれた「三枝ななみ」という子は、いったい、どこへ帰ればいいのだろう。
誰も、その子を迎えに来ないなら。
その夜、退勤時間になっても、いろははロッカールームでその名前が頭から離れなかった。
「三枝ななみ、か……」
スマホで名前を検索しようとして、指を止める。何を調べればいいのかも分からなかった。
着替えを終えて外へ出ると、まだ園内には数人のスタッフが残っていた。閉園後の点検作業だろう。いろはの担当ではないが、なんとなく、足がレトロ遊園地エリアの方向へ向いてしまう。
夜の遊園地は、昼間とはまったく違う顔をしている。
消灯された観覧車のシルエット。動きを止めたメリーゴーランドの馬たちが、街灯の光の中で、どこか作り物めいた表情で並んでいる。
その奥に、古びたお化け屋敷の建物があった。
昼間は子どもたちの悲鳴と笑い声で賑わっていた場所が、今は闇の中に沈んでいる。入り口の看板の文字は、電気が落ちているせいで読み取れない。
いろはは、千景の言葉を思い出した。
閉園後の放送には、返事をしないで。
でも、これは放送に返事をしに来たわけじゃない。ただ、確認したいだけだ。あの放送が、どこかの機械の誤作動なのか、それとも――
考えているうちに、いろはの足は、お化け屋敷の入り口の前まで進んでいた。
扉は、わずかに開いていた。
本来なら、閉園後は施錠されているはずの扉が。
いろはの心臓が、どくりと音を立てた。
「確認だけ。中を覗くだけ」
自分にそう言い聞かせながら、いろはは扉に手をかけた。
軋んだ音を立てて開いた扉の向こうは、真っ暗だった。昼間の照明ではわからなかったが、闇の奥には、ひんやりとした空気が滞留しているように感じられる。
スマホのライトを点け、いろはは一歩、足を踏み入れた。
仕掛けの人形たちが、光の中に浮かび上がっては消えていく。造花の蜘蛛の巣、揺れる提灯、血のりのついた人形の手。すべて、いろはが研修で見せてもらった、ただの演出だ。
だが、奥へ進むほどに、空気が変わっていくのを感じた。
湿った、古い木の匂い。
どこか遠くから聞こえる、微かな足音。
いろはは足を止めた。
「……誰か、いますか?」
声をかけると、返事の代わりに、通路の奥の暗闇が、わずかに揺れた。
ライトを向ける。
そこに、少女が立っていた。
黒いワンピースに、古びたキャスト帽のようなもの。年齢は、十代後半から二十歳くらいに見える。
人間の少女に見える。けれど――。
少女の足元、床に伸びるはずの影が、まるで獣か鳥のように不自然に揺れていた。
少女がゆっくりと顔を上げる。ライトに照らされたその目は、まるでガラス玉のように、無機質な光を宿していた。
いろはは息を呑んだ。声が出なかった。
少女は、ゆっくりと口を開いた。抑揚のない、けれど確かに人の言葉として届く声で。
「三枝ななみなら、二十年前から呼ばれてるよ」
いろはの手の中で、スマホのライトが小さく震えた。




