2・この場所(12)
家に帰ると、母親がそわそわして出迎えた。
「お帰りなさい。どうだった?」
「どうって? 普通だよ」
涼は、いつものようにまっすぐ二階へは上がらずに、居間へ行って電話をとった。それから、舌打ちして学級名簿を探す。碧の家の電話番号は、調べなければわからない。電話をするのは初めてなのだ。
碧は、今日登校しなかった。
「涼……」
母親が何か言いかけたが、手を振ってさえぎる。
「電話かけるんだ。静かにしててよ」
呼び出し音が鳴っている。碧の母親が出るのだろうか。学校へ抗議に行くと言った母親。
いいな、野見山は。
「はい。野見山です。ただいま出かけております。後ほどおかけなおしいたしますので、発信音のあと、メッセージとご連絡先をお話しください」
五回コールしたあとに聞こえてきたのは、留守番電話の録音だった。テープの声は野見山碧だった。
「もしもし。えーと。……えーと、碧さん……の同級生の霜村といいます。またあとで……」
そこまで言ったとき、突然碧の声が聞こえた。
「もしもし、霜村君。先生なんかからかかってくるといやだから、居留守電話してたの。今、わたしひとりだから」
「なんだ、いたんだ」
いつものような「野見山」でなく、「碧さん」と言ったのを聞かれたと思うと、頰が熱くなった。
「野見山、今日どうしたの」
「うん……」
碧は口ごもる。
「学校へ行きたくないって思っちゃったの。今朝まで行くつもりだったのよ。自宅謹慎なんて、わたし別に気にしてないし、誰かに何か言われるのだって平気だし。いつものようにしたくして、自転車の鍵持って出かけようとした」
「うん」
「なのに、玄関を出ようとしたら、足が重くなって動かないの。それに、なんだか気持悪くなってきちゃってね……」
電話の向こうの碧が、ちょっとうつむいたような気がした。
「わたし、先生にぶたれたの初めてだった。ぶたれることくらい誰にでもある、よくあることだと思ってた。でも、足が向かないの。体がいやだと言ってるみたいなんだ。わたしって、案外いくじなし」
ぶたれるのなんか、いやに決まってる。
そう。いやなことなんだ。だって暴力なんだから。「教える」や「諭す」とは無縁の、暴力なんだ。
「ぶたれるのはいやだよ。当たり前だよ」
「……うん。こういうこと、平気にならない方がいいのかもね。よくあることでも、ひどいと思ってはいたんだけどね。……わたし、自分は大丈夫だと思ってた。痛いのはいやだけど、もしぶたれても、そのときだけのことだろうって。なのに、こんなふうで……。なんだか自信がなくなっちゃったの。わたし、また学校へ行く気になれるかなあ」
「大丈夫だよ」
「……学校やめたら、どうなるかなあ」
「やめる?!」
もったいないよ、野見山は成績がいいし、と言おうと思った。けれど、学校での碧にとって、それはどれほどの意味があるのだろう。成績がよくて、はっきり自分の考えを言える碧は、教師だけでなく同級生の男子からさえ否定のまなざしを向けられる。
「やめたらどうなるかな、って思ってるだけよ。勉強する方法はほかにもあるかも、って」
少し間があいて、碧が続けた。
「今日、学校休んじゃえ、休んでもいいんだ、って思ったら、ものすごくホッとした。雲が晴れて青い空に日が射したみたいだった。毎日学校へ行くなんて、六つのときからやってたし、当たり前の日常の一部だと思ってたのに、けっこう大変だったんだ、と思った」
受話器の向こうで、碧が笑った。
「学校、どうだった?」
涼は、見えるはずもない碧に向かってうなずいた。
「いつもと同じだった」
ああ、でもちょっと違う。級長があいつになった。そして、彼は自分の気持の一部を僕に見せてくれた。
「変わらないよね、なんだって、簡単には」
碧がため息のように言った。しばらく沈黙が落ちた。
「明日は、わたしが霜村君に電話するね。いい? 今くらいの時間?」
「うん。いいよ」
明日も碧は学校に来ないのだ、と涼は思った。
しばらくして、碧は学校をやめた。
「わたし、外国へ行く」
受話器の向こうで、碧が南半球の国の名前を言った。
「お母さんの友だちが、向こうの人と結婚してそっちに住んでてね、わたしの『親』になってくれることになった。そこの高校に編入できそうだって」
未成年がひとりで海外へ行くには、かなりの制限がある。親が仕事で三年以上海外へ行く必要がある場合なら、家族全員で帯同できることもある。けれど、これも、多くの場合は父親のみの赴任が多い。仕事を持つ女性であっても、母親にはそもそも海外赴任の話は来ない。
学生が留学することはあるが、国の定めた留学生試験に通らなくてはならず、素行や家庭環境も調査される。それをパスして留学するときは国の補助金がもらえるが、関係機関への毎月の報告と、帰国してから政府の指定する教育施設で一定期間奉仕する義務がある。それでも留学を希望する学生は多い。
碧が行くという国は、先進国で唯一女性大統領がいる国だ。核兵器廃絶を訴え、原子力発電所のかわりに太陽光や風力の発電システムを推進してきた。
原子力発電所と言えば、北海道では実際に原子力発電所の事故があったことが明るみに出た。政府が補償のために電力会社に二兆円の支援をすることをめぐって、国会で揉めたのだ。それを新聞が報道した。まだ詳細は明らかになっていないが、大変な事態が起きていたことは事実だった。
政府と電力会社は、隠したのではなく人心を動揺させないための配慮だった、と言った。
「手続きがなんだかめちゃくちゃややこしくてね……。わたし、しばらくの間、向こうの人の養女になるみたいなのよ」
「寄留みたいなものかな」
「寄留?」
「うーん……。必要があって、住民票を別なところに移すみたいな」
碧は、ちょっと複雑な笑い声をあげた。
「ああ、それに似た感じかもね」
「遠いね」
涼は、ちょっと考えてからそう言った。
「うん、遠い。……わたし、逃げてくみたいだよね。でもね、帰ってくるから。わたし……」
逃げてもいいんだ、と涼は思った。
逃げた方がいいときに向かっていってしまうのは、臆病者のすることかもしれない。
でも、碧を傷つけずにそういう自信がなかった。だから、かわりにひと言だけ言った。
「わかってる」
「霜村君?」
「うん」
「……やっぱりいいや。今までいろいろありがとね」
「野見山……」
「手紙書くね。元気でね」
「野見山も」
涼は、切れたあともしばらく受話器を握っていた。




