2・この場所(10)
騒ぎは、夜はじまった。
「涼、ちょっと降りて来なさい」
母親が涼の部屋のドアを叩いて、ドアの外から言った。これはめったにないことだ。
「なに?」
「降りて来てって言ってるの。お父さんがお呼びです」
母親の声の背後に乱暴な足音が響いて、いきなり父親がドアを開けた。
「おまえ、何をしたんだ?」
「何って……」
父親は涼の頰をぶった。母親が小さな悲鳴をあげた。涼は一瞬あっけにとられ、それから父親をにらみつけた。
「学校から連絡があったぞ! 三日間の自宅謹慎だそうだ! なぜおまえまで、こんな……」
憤りのあまり、父親が声をつまらせる。ウィスキーの匂いがする。
「洸のことは、もう死んだつもりであきらめた。おまえだけは……親の気持もわからんで、おまえは……」
「兄ちゃんは死んでなんかいない。兄ちゃんをなかったことになんか……」
もう一度振り上げられた父親の手を、涼はおろされる前につかんだ。父親の手首は涼のそれより太かったが、たるんだぜい肉の感触がした。
僕の方が強い。
涼は、父親の手首をつかむ自分の指を見つめた。
父親より背も高い。腕も、指も長い。
なあんだ。僕の方が強いんだ。
涼は、父親を見下ろして立っていた。黙って父親の手を押しもどす。父親は傷ついた表情を浮かべて、奇妙に歪んで見えた。
「今日のことなら、僕は何もしてない。どなって暴力をふるったのは先生たちの方だ。僕らは何もしなかった」
僕は、何もできなかった。
父親は、涼が放した手首をさすった。
「生徒が教師に対して、何もしなくたって当たり前だ。今回だけは、特別の温情で当局に報告はしないでくれるそうだが、三日間の自宅謹慎だけで十分恥だ。いいか、三日間家から出るんじゃないぞ。庭にもだ。窓際にも立つな。近所の人に見られたら何を言われるかわからん。それから、級長はやめさせられたからな」
母親が、すねた子どものような恨みがましい目つきで涼を見ている。本気でそうは思っていないのに、私が悪い、私の育て方がいけなかったの、と言っているような目だ。だから、父親は母親の期待どおりにどなる。
「まったく、おまえが子どもをまともに育てることもできんから……! 家のことだけして遊んでいられる身分のくせに、このざまだ!」
涼は、父親も母親も見ていたくなかった。
「言うことがそれで全部なら出てってよ。僕は勉強するんだから」
「なんだと!」
父親はすごんでみせたけれど、涼が一歩前に出ると後ずさりした。
母親が半泣きになって父親の袖をひっぱる。
「三日したら学校へ行くんですよ。勉強しておかなかったら、そのとき遅れてしまうじゃありませんか。ちゃんと勉強さえしていれば、それでいいじゃありませんか。ねえ、わたしがいけなかったの。わたしがちゃんとしていなかったから……」
涼は、両親を押し出してドアを閉める。かけたくても鍵はない。両手でドアを押さえるが、両親はもう入ってこようとはしなかった。
そのとき気づいた。
このドアだ。
あの仮想現実からミドリのところへ行くとき、僕が毎晩開けて通っていたのはこのドアだった。これよりも古びてぼろぼろだったけど、間違いなくこれだ。見覚えがあったはずだ。
あれは、向こうの世界のリョウの部屋のドアだったのだろうか。
リョウ。
不意に、あの世界のリョウに会ってみたかったと思った。この世界にいたら、リョウは何をし、どう考えるだろう。
涼は、ドアに額を当てて目を閉じる。空気に雪の匂いはしないだろうか。
翌日、碧から電話があった。自分の方からかけることを思いつけばよかった、と涼は思った。
ぎこちない態度で電話を取り次いだ母親は、姿は見えないが声は聞こえるところへひっこんだ。
「もしもし、どう?」
「うん。平日の昼間に家にいるのって、変な気分だな」
碧は笑った。よかった。元気そうだ。
「今度のこと、家で何か言われた?」
碧に言われて、ゆうべの両親の姿を考えた。みっともない、と思った。
「まあね」
「うちじゃ、わたしがぶたれたって言ったら、お母さんが興奮しちゃってなだめるのに苦労したわ。うちの親って、ちょっと世間知らずよね。学校行って、抗議するって言うのよ。平手打ちでそんなことする親、いないよね。でも、そう言ってくれたのはうれしかった」
「……ふうん」
碧の母親も、見る前に跳ぶタイプなのかもしれない。そして、碧が今まで足元を気にせず跳ぶことができていたとしたら、両親がその地面をちゃんと固めていたからかもしれない、と思った。
「霜村君ちって、厳しいんじゃない?」
「厳しいのかな。何も考えてないんじゃないかと思うな。父親にぶたれたよ。とりあえず一発。問答無用で」
「……そうか」
「でも、二発目は防いだ。防げるんだってわかった」
碧がまた笑った。笑い声は心地よかった。
「収穫ね、それは」




