2・この場所(9)
「僕たちは話をしたいだけだ!」
背の高い生徒が叫んだとたん、生活指導の教師が、彼のあごに拳をたたきこんだ。
それが合図のように、ほかの教師が生徒の間に飛び込んで、胸ぐらをわしづかみにする。涼の後ろにいた二年生が、やめろと叫びながらその混乱に向かって走り出した。
「こんなのって……」
涼の隣で碧がつぶやく。次の瞬間、碧は駆け出して生徒たちに加わった。殴る教師の腕にしがみつく。
「殴らないで!」
碧の声は、他の生徒の声にまぎれていく。生徒たちは叫びながら、拳をふるう教師の体にとりすがる。
「やめろよ!」
「殴るな!」
教師の人数は、いつのまにか増えていた。どこかで待機していたのだろう。どうりで昇降口や校門には教師の姿はほとんど見られなかった。
涼のみぞおちに、公民館の裏で殴られたときの痛みが甦った。
殴られるのはいやだ。
みんなが殴られるのを見るのもいやだ。
ーーどうしてそれに抗議しないの?
ミドリの声が聞こえた。頭の中に焼きついて離れない、あのきらきら光るまなざしが見えた。
涼がステージに近づいたとき、碧が教師に払いのけられて床に倒れるのを見た。
「野見山!」
涼が駆け寄る前に、教師が碧をひきずり起こして、頰を平手で打った。
「女のくせにこんなところに出て来るな! 男に注目されたいのか!」
涼の頭の中に、真っ赤なかすみがかかった。
あいつを殴ってやる。
教師に向かって行こうとしたとき、誰かに腕をつかまれた。振り向くと、新任の男性教師だった。涼は彼を振り離そうとして、腕をめちゃくちゃに振りまわした。
「やめるんだ」
教師は、どならずに低い声で言った。
「兄さんと同じだ。女友達が教師にぶたれるのを黙って見ていられなかった。そりゃそうだ。だが、君に早まってほしくない。あんなことになっちゃいけない」
涼は、唖然として、まじまじと教師の顔を見た。教師は、ほんの一瞬微笑んだ。
「君にできることはたくさんある。いいか」
教師は、涼の指を自分の上着から一本一本放していった。
いつのまにか、開いていたたったひとつの扉が閉まっていた。閉ざされた空間の中で、生徒たちの小集団は教師と警備員に囲まれている。
生徒指導の教師が、荒い息をつきながら顔を上げた。赤らんで、汗をかいている。満足そうに笑っている。その教師に胸ぐらをつかまれていた生徒は、彼が手を放すと床にくずおれた。
これが終わりなのだ。
「よし、学年ごとに分れろ! そっちから、一年、二年、三年だ。さっさとしろ! ほら、立て!」
碧は、よろめきながら立っている。
「大丈夫?」
涼は聞く。大丈夫なはずはないと思いながら。
碧は唇をかみしめ、やっと言う。
「『女のくせに』だって」
泣き出すまいと、目を大きく見開いている。制服にワックスの汚れがついている。頰に指のあとが赤く浮き出ている。
「ごめん」
君をぶたれるままにしておいて。
女の君を本当にはわからない男の僕で。
「よし。一年生は学生カードを提出して帰れ。今回は、上級生による扇動と好奇心によるおろかな行為として目こぼしする」
一年生は五、六人だ。誰も動こうとしない。
「さっさとしろ!」
教師が、一番近くにいた生徒の頰を打つ。その生徒はうつむいて胸のポケットを探る。
二番目の生徒は、カードを差し出しながら震える声で言う。
「上級生はどうなるんですか?」
「おまえになんの関係がある!」
もらうのは、罵声と平手打ちだ。
涼の番が来る。
「霜村」
教師は、あきれかえった、という口調で言った。
「なぜこんなところにいる? 成績優秀だからといって、何をしてもいとは思うなよ」
涼は黙っている。教師のタバコ臭い指が、涼のあごをつかんで自分の方を向かせる。
「わかったか」
涼は黙っている。教師の目がすうっと細くなった。
こういう目は、前に見たことがある。人を殴る前の目だ。
さっきの新任教師が、涼の視線の端をとらえて、かすかにうなずいてみせた。
「はい」
涼は答える。教師の目が、少しずつもとにもどる。
帰り道、碧はずっと口をきかない。涼に腹を立てているのではなく、口を開いて言葉より先に涙が出てくるのがこわいのだ。涼にもそんなときがあった。
碧が泣かないのは、女だからだ。女はいい、泣けばすむんだから、と言われたことがあるからだ。
「送っていく」
自分の家の方へ曲がる分かれ道で涼が言うと、碧は、きっと顔を上げた。
「わたしがか弱い女だから? 大丈夫。ひとりで帰れる」
それから、涼を見る目が不意に少しだけうるんだ。
「ごめん。やなやつね、わたし。霜村君が心配してくれてるの、わかってるのに」
涼は首を振る。
「ぶたれるなんて、ひどいよね」
いつか、同じようなことを碧が言った。
碧は、やっと微笑む。
「わたしたちふたりのうち、ひとりしかぶたれなかた。それはよかったね」
それなら自分の方がぶたれていればよかった、と涼は思う。碧はそういうのを女性差別だと思うだろうか。
「ほんと、大丈夫よ。自転車だもの」
少しずつ、いつもの碧に戻ってきた。
「これからひと騒ぎね」




