2・この場所(7)
翌日の朝、ホームルーム五分前のチャイムが鳴った直後だった。チャイムにかぶさるようにスピーカーから声が流れた。
「昨日、校門で、二年のF君が窓の鉄格子に反対するビラを配って先生たちにとりおさえられました。彼は、今日登校していません」
教室の中は、ぴたっと静かになった。
声は緊張してかすれ気味だが、早口ではない。
「教室の窓に鉄格子をつけることについて、そこで勉強する僕たち自身が意見を持つのは当然のことだと思います。そこで、臨時の生徒総会を提案します。みんな、放課後体育館に集まってください」
声の背後で物音がする。
「できるだけ多くの生徒の参加を待っています。今日の放課後体育館に来てください。放課後体育館に」
唐突に放送が切れた。生徒たちは、そこから放送室の中が見えるかのように、天井に設置されたスピーカーを見つめていた。
「生徒総会なんかできっこない」
ぽつりと、ひとりが言った。
「先生がやらせないよ。のこのこ体育館なんかに行ったら、全員氏名をチェックされるよ。それだけじゃすまないかもしれない。行かないだろ、みんな」
生徒たちがざわめく。
そのとき、隣のクラスの生徒が廊下から教室に頭をつっこんだ。
「おい、トイレに行ってみろよ! ビラが貼ってあるんだ。昨日校門で配ってたやつ!」
「ビラ?」
涼は、胸の中に何かが生まれて、それが次第に熱を帯びてくるのを感じた。この成り行きに楽しい要素などひとつもないのに、どうして気持が高揚するのだろう。
「先生が来る!」
誰かがささやく。生徒たちは、ぱっといずまいを正す。
教師の態度はいつもと変わりがなかった。生徒のひとりやふたり、何をしたって学校は関係ない、と言いたげな様子だ。
「今日は、クラブ活動は中止だ。放課後は全員すみやかに下校すること。何か異議のある者?」
いつもの決まり文句。だが、今日はひとりの生徒がおずおずと手を上げる。
「クラブ活動は、どうして中止になったんですか?」
教師は、その生徒が自分を罵倒したとでもいうような目で、彼をにらみつける。
「校長の方針だ。ほかには?」
説明にはなっていない。けれど、生徒は追求しない。
そして、授業は何事もなかったかのように進む。
四時間目終了のチャイムのあとで、校内放送が流れた。生徒指導の教師の声だ。
「本日の昼休みは、全員教室内に留まること。トイレその他、どうしても必要があって教室を出る場合は、担任の許可を得ること。以上」
不満のざわめきが広がる。窓側の席から碧が涼を振り返ったとき、担任が入ってきた。黒いランチジャーをぶら下げている。
「全員席につけ。弁当を食うのに歩きまわる必要はない。トイレに行きたい者は、今なら行ってよし。これ以後昼休みに教室外に出る者は、どこへなにをしに行くのかを私に言いなさい」
女生徒が何人か、あわてたように立ち上がる。碧もだ。涼も廊下に出る。
「ひどいわね」
碧が声をひそめて言う。
「うん。女子トイレにもビラはあったのかな」
「あったらしいけど、わたしは見なかった。二時間目の休み時間には、もうはがされてたのよ」
それは、男子トイレのビラも同様だった。でも、昨日の二年生はひとりではなかったのだ。彼のしたことを無駄にしたくないと思った誰かが、それもおそらく複数のだれかが、ひそかに今日行動したのだった。そして、今朝の放送にもつながった……。
「トイレにビラが貼ってあるってこと、先生に言いに行った子がいるんだって。どうしてかなあ。そういうことしたら、内申書にプラスになると思う?」
「わからないな」
涼が言うと、碧はため息をついた。
「放課後、どうする? 生徒総会っていっても、何人集まると思う?」
涼は、しばらく考える。
「多くはないと思う。それより、あの放送をしたのは誰だったんだろう。先生たちが放送を止めたあと、どうなったと思う?」
「あの、呼びかけをした人ね……」
碧が眉をよせてうつむいた。
「おい、教室にもどれ! これ以後の退出は原則禁じる!」
担任が、前の戸口から廊下に顔を出して叫んだ。
黒い制服の群れが、正門から吐き出されて行く。体育館の入り口は、一ヶ所を残してどこも閉まっている。
「おい、まさか、体育館へ行くつもりじゃないだろ? 生徒総会なんかありゃしないぜ。先生に目をつけられるだけだ」
同級の生徒が、昇降口で立ったままの涼を見て言った。
涼は、足早に正門に向かう生徒たちを見送る。
「僕は、鉄格子はいやなんだ」
何も言えずに、黙っている自分もいやなんだ。
「僕だってそうさ。野見山に聞かれるまでもなく、鉄格子に賛成なんてやつ、誰もいないさ。でも、学校に何言ったって無駄だろ? 卒業するまで我慢するしかないだろ? 霜村だって、いい大学に入りたいだろ? 霜村ほどの成績で、将来低所得者住宅に住む羽目になるなんて、まっぴらだろ?」
相手は、頼むから同意してくれ、というようにたたみかける。
「……うん。でも、どうなるかはやってみなくちゃわからないから」
「わかるよ、そんなの。やってみなくたって、わかりきってるじゃないか」
男子生徒は、息を切らしながら言う。
涼が体育館へ行くことを選んだら、自分は卑怯者になる、と彼は感じているのかもしれない。そんなことはない、と涼は言おうかと思う。でも、そうしない方がいいような気もする。彼はよけいいたたまれなくなるかもしれない。
「まあ、試してみるよ」
涼は、なんとか笑顔のようなものを作る。どうなるのかわからないし、どうすればいいのかも、本当にはわかっていない。これまでのように、ちゃんと正しい答えの出せることだけをやっていれば、優等生のままでいられるのだろうけれど。
ーー間違ったって、わからなくたってかまわないんだ。塾や学校は、間違ってもいいところなんだから。
山城先生がそう言った。
体育館は、ひと気がないように見える。正門から出て行った生徒の数を考えると、自分ひとりだけが、つやつやした飴色の床の上に立っていることになるのかもしれない、と涼は思った。
「おい、霜村」
男子生徒が呼ぶ。涼は、ちょっと振り向いて彼に手を振った。それから歩き出す。
「待ってよ」
小走りの足音とともに、碧が追いついてきた。
「ひとりで行くつもりだったの? どうせなら、一緒に行こうよ」
涼は微笑む。ひとりじゃない。昨日の二年生と同じように。
さっきの同級生は、まだ立ったままこっちを見ている。




