2・この場所(5)
仮想英会話はもう起動しない。例の赤い文字がまたたくだけだ。
【システムダウン・調整中】
涼の目もかすむことがなくなった。目が治ったというより、ミドリの世界との接点がなくなったのかもしれないと思うと、寂しい気持になる。
塾にはいつもどおりアクセスできる。チャットルームもそうだ。
〈なんだか世の中騒然としてますなあ。あれが起きたとき、みんなまだ寝てなかったと思うけど、いい迷惑だよね。勉強に集中できる静かな時間を侵害されたんだぜ〉
〈僕は寝てましたね。夕食後少し勉強したら、あとは三時まで眠って、それから起きてまたやるのが日課だから。早寝早起き。健康的でしょ〉
〈ねえ、もしかしたら大変なことが起きてるかもしれないのに、どうしてのんきに勉強のことばっかり考えていられるの。全国各地で一斉にああいうことが起こせるって、すごい組織力と行動力がなけりゃできないじゃない。いったい、これからどうなっていくの。こわくないですか?〉
〈その、組織力と行動力がひっかかる。あれは、やっぱり政府の側の陰謀だよね〉
〈原発事故かくしについてはどうなる?〉
〈そんなことを信じてるの?〉
〈北海道の原発って聞いた。全国で同時にああいうことが起こったっていうけど、北海道でもあったんだろ?〉
〈あった〉
〈そんなら、北海道が死の国になってるなんて、嘘だってわかるじゃない〉
〈その通り!〉
〈……でも、札幌では起きてない。小樽でも〉
〈札幌で起きてない?〉
〈北海道の原発は、たしか……〉
〈北海道全部が死の国になったんじゃなくて、もしかして……?〉
〈もういい。みんな、わかってるよね。ここに本音を書き込むバカはいないよね。このボードの管理者なら、誰が書き込んでるかわかるんだから〉
その書き込みがひときわ目立ったのは、ひとつだけ緑色の文字で表示されていたからだった。
〈ティンカー・ベルよりピーターへ 君も飛べるよ〉
ティンカー・ベル。
涼は、呆然として光る緑色の文字を見つめた。
ーーあたしだったらティンカー・ベルがいいな。
ミドリはそう言った。ピーター・パンの話に出てくる緑色の妖精。妖精を信じる心が彼女を甦えらせる……。
ピーターとフックのことは、ミドリにしか言っていない。
涼は、ほかにも緑色の文字がないか、画面をスクロールする。新たな緑色の文字はない。画面をリロードする。ない。ログを見る。さっきの書き込みを探す。それもない。消えている。
消えている。でも、確かにあった。ティンカー・ベル。君も飛べるよ。
涼は、しばらく画面を見つめていた。やっと、自分が見ているのがスクリーンセイバーであることに気づいた。
ミドリ。
僕が信じれば、ミドリは甦えるだろうか。
きらきらと光る怒った目を思った。
それとも、僕はまだミドリを失ってはいない?
学校へ行くと、門の前がざわめいていた。正門の前に教師が狛犬のようにふたり立ち、入って来る生徒をにらんでいた。
教室に入ると、碧がまっすぐ涼の席へ来た。頰が紅潮して目が輝いている。腹を立てて去って行ったときと同じ表情だ。
碧は怒っている。
「聞いた?」
「何を?」
涼はとまどう。碧は自分に対して怒っているのではないらしい。
「わたしは見た。霜村君より来たのが早かったから。二年生の男子が、窓に鉄格子をつけられるのは嫌だってビラを作って、校門のところでみんなに配ったのよ」
ビラを作って配った。
「もちろん、すぐに先生が来て、その人を殴りつけてやめさせた。そして、どこかへ連れて行ったわ。ビラはその場で回収されて、先生たちが焼却炉へ持って行った。あの二年生、どうなると思う?」
涼は首を振る。わからない。でも、ひと言ふた言説教されておしまい、などということですまないのはわかる。碧だって、そのくらいはわかっているはずだ。
碧が、さらに顔を赤くして涼をまっすぐ見た。
「こんなときになんだけど、霜村君、昨日、ごめん。わたしは見る前に跳んじゃうの。冷静に考えたら、感情的って言われてもしかたないことをしちゃうときがある。霜村君の方が大人なのはわかってる。だけど、わたしはああしかできないのよ。女の子だからじゃなくて、わたしだから。わたしは、スマートにものを言うことって、できないみたい」
涼は、びっくりして碧を見つめた。
「そんな顔しないでよ」
碧が、傷ついたように言った。
「わたし、よっぽど変なこと言った?」
涼は、あわてて首を振る。このところ首を振ってばかりいる。
「いや、変じゃなくて……。わかったふりはしないけど、野見山のやり方……なんていうか、僕はいいと思う。……そういうの、好きだな」
涼にしては、かなり思い切った台詞だった。
ーーコロッケが好き、とかいうときの好き。
碧が、ぱっと笑顔になった。
それから、涼の机に両手をついて、まじめな顔をした。
「それで、さっきのこと。わたしたち、何もしなくていいの? 来年二年生になったら、わたしたちも鉄格子のある教室で勉強するのよね。自分が大変なことになるってわかっていながらビラを撒いた二年生がいるのに、わたしたちは何もしなくていいの?」
教室の中の生徒が、しだいに涼と碧のまわりに集まってきた。涼が碧にこたえて何か言うのを待っている。
僕なんかが何を言うと思ってるんだろう? 教師が決めた級長ってだけなのに。その教師のことを、好きでもないし、尊敬もしてないのに。
ーー異議のある者?
あの日、涼はそれに「異議あり」と言いたかったのだ。その反面、異議を唱える機会を逸したことに、ホッとしていたのではなかったか。
でも、何も言わずにいたら、あきらめてしまったら、永遠に失われてしまうものがある。僕はあの教師だけじゃなく、自分さえ好きになれなくなる。




