2・この場所(4)
いつもの通学路には警官が何人もいた。本丸通りから県庁に続く堀端の道にはバリケードが置かれ、その両脇に黒い盾と防具に身を固めた機動隊員がいた。
「証拠もないのに、どうしてそんなこと言えるの」
涼が教室に入ろうとしたとたん、碧の声が聞こえた。
半分以上の生徒が登校している。碧に向き合っていた男子生徒が、いかにも落ち着いたふうを装って口を開いた。
「僕は、一番可能性のありそうなことを言ったにすぎないよ。これが本当だという証拠はないけど、本当じゃないっていう証拠だってないだろう。ああいう乱暴で短絡的な行動は、これまでにもあったことだ」
「だから、ゆうべのことは駅南地区の人たちがしたことだっていうわけね。そして、それは駅南に低所得者住宅があるからだって。そんなの『一番可能性がある』の根拠にだってならない」
男子生徒は、静かな、というよりバカにしたような調子で言う。
「あそこのやつらは、これまでだってときどきやってるじゃないか。住環境の整備とか、治安をよくしろとかぶちあげてさ。ああいう地区にしか住めないのは自業自得だろ。これまで努力してこなかったんだから。それを行政のせいにして文句ばかり言う連中なんだよ」
駅南地区は、歴史の教科書に載るほどの昔、身分制度で最下層に置かれ、民にあらず、「非民」と呼ばれていた人たちが住む地域だったと言われている。こういう地区は全国どの自治体にもあり、そこの住民がよい仕事につくことは難しかった。就職試験のとき、履歴書の居住地を見て落とされることがあるからだ。低所得者が多いのもそのためで、地区の子どもたちは学費のかかる上の学校へ進学することを断念せざるを得ない場合も多かった。出世してそれなりの金を得る方法のひとつが暴力団に入ることで、涼の父親は駅南地区を「犯罪者の巣」だと言う。
「でも、駅南のやつらがやってきたのは、夜中に駅前にビラやポスターを貼るとか、集まって何かの要求を叫ぶとか、そういうやり方だったろ。警察が来る前に散ってしまうようなやつ。ゆうべのやり方はちょっと違うんじゃないか」
電車通学をしているという男子生徒が言う。
涼は、クラスメイトの個人的な背景をほとんど知らない。同じ中学から来て家が近いとでもいうのでなければ、どこに住んでいるのかもわからない。
「『モグラ』が手伝ったんだろ。『モグラ』はああいうごみごみした地区に隠れてるって言うぜ。小さい家が多くて敷地の境界にちゃんとした塀もないし、迷路みたいに路地が入り組んでるらしい。よその者が行っても、わけがわからないんだってさ。あんなに狭いのに」
この街の駅の北側には、城跡や官公庁などのほか、戦争中は軍需工場もあった。そのため戦時中に空襲を受けて、戦後の復興期に街並がきれいに整備された。当時旧制中学だった涼たちの高校も焼け、戦後新制高校となるときに建て直された。
「駅南って、昔のままなんだよな。空襲で焼かれてりゃよかったのかもしれない。浄化しないと、また県議会議場に火をつけようなんてやつが出てくるぜ」
すると、昨夜の消防車は県議会議場へむかったのだ。地方議会はもう終わっているはずだし、そもそも夜中の議場に人はいなかっただろう。国会議事堂と同じだ。
それなら、初めから誰も人を傷つけないように計画されたのかもしれない……?
「浄化って……」
碧が、あきれたように絶句する。
「あそこで問題が多いのは事実だろう。少年犯罪だって、塾にも行けない低所得者のやつらが通う落ちこぼれの学校でよく起きるんだし」
「わたしも塾に行ったことない」
自分で言って、碧は自分で首をふる。
「ううん、そんなこと関係なかった。でも、どうしてそんなふうに、自分の方が駅南地区の人たちより上、みたいに思えるのか全然わからない。塾に行けるのって、自分がなにか立派なことしたからなの? たまたまそういうゆとりのある家に生まれたってだけでしょ。そんなふうに見下すことで、あなたはあの地区の子たちの希望の芽をむしりとってる」
希望。
男子生徒は、やれやれ、というように笑って周囲を見まわした。
「女の子って、すぐ感情的になるから困るよな」
碧の頰が紅潮した。
「でも、あれは、あちこちの都市でほとんど同時に起きたって、今朝テレビで言ってたから」
涼は、少しあわてて口をはさんだ。碧が、驚いたように涼を見た。
「この街の行政とか、地区とか、そういうのとは別なところではじまったんだと思う」
涼は、思いがけず周囲の注目を集めてしまって、どう続ければいいかわからなくなった。
「それじゃ、級長はどう思う?」
誰かが言った。責めるような口調ではなく、本当に涼の意見を聞きたいと思っている声だった。
僕がどう思うか。
「わからない」
涼は言った。
ミドリ。僕は自分の場所にいてさえ、何も知らなくて何もわからない。
「わからないから、知りたいと思うんだ。ゆうべ、僕にはサイレンくらいしか聞こえなかった」
駅の近くに住む生徒はもちろん、電車通学の生徒も駅で少しは情報を仕入れていた。みんな、何もはっきりとはわからず、もっと知りたいと思っていた。
「ガソリンをつめた空き瓶に火をつけて……」
「でも、全焼はしなかったって」
「警察は、誰か撃ったのかなあ? 銃声みたいなのが……」
「威嚇だろ。ほんとに人を撃つなんて、そんなこと……」
「誰か逮捕されたの?」
「そりゃ、あれだけパトカーが出動したんだから……」
「……原発事故のこと、言ってたよ」
「え?」
涼は、その言葉を発した生徒の方を見る。原発事故と聞くと、あの山城先生を思い出す。
「北海道の原子力発電所が事故を起こして、北海道は放射能で死の土地になってるって。それを政府は隠してるって。情報を公開しろって、叫んでる人がいた」
「まさか……」
「うち、駅の近くでビジネス旅館やってるんだ。僕もちょっと外へ出てみたし、宿泊してるお客さんも仕事であちこちへ行ってる人がいて、話をしたし……」
原発事故のことを言い出した生徒は、悪いことをしたようにうつむいた。
最初の男子生徒が言う。
「そんなのデマだよ。そんなことがあったら、外国からだって何か言って来るに決まってるよ。本当に放射能がもれたんなら、気流によっては外国にも影響があるはずだろ。自分たちに都合のいい嘘ばっかり信じて文句を言うなんて、バカみたいだよ」
でも、山城先生も信じていた。あのとき国会前に集まった人たちも。
あれからどのくらいたっただろう。もし本当に放射能がもれているなら……。
荒涼とした風景が、涼の頭の中に広がった。人間の住めない灰色の世界。涼の知っていた世界では、そこで生きる希望を失わない人がいた。
「霜村君」
碧が涼のそばに来た。
「わたしが何を言い出すか心配だったの? それで話をそらしてくれたってわけ? そりゃ、わたしは考える前にしゃべっちゃうとこがあるけど」
ーー涼は、よくよく考えてからしゃべるのね。
ミドリが前にそう言った。でも、あれから僕はずいぶん考えなしにしゃべるようになった。さっきもそうだ。
「ごめん。でも、あいつ、納得するつもりがないから」
「それで、わたしは感情的な女の子にされたままなのよ」
「ごめん」
「謝らないでよ」
碧の目が怒りできらきらしている。ミドリも、こんな目で涼を見たことがあった。教師の暴力に対して抗議しないのか、と聞いたときだ。
「事勿れ主義なんだ、霜村君て。わたし、ごまかしてなんかほしくないし、自分のことは自分でできる」
碧はすっと離れて行く。こんなときでも、いつものシャンプーの香りがする。




