2・この場所(2)
一、二時間目を保健室で眠って過ごした。夢は見なかった。
二時間目が終わるころ、養護教員に起こされた。
「どう、少しはよくなった? まだ調子が悪いようなら早退したほうがいいわ。学校で一日寝ていても時間が無駄になるだけでしょう。おうちにはどなたかいますか? 私から連絡しますよ」
涼は、まだ眠気の去りきらない頭で養護教員の言葉を考える。
家に帰りたくはない。病気でもない。今は空腹さえ感じていた。
「三時間目から授業に出ます」
「無理はしないほうがいいですよ。今日無理したせいで、この先三日間休むことになるかもしれないわよ」
養護教員は、涼が勉強の遅れを気にしていると思っている。生徒が授業を休みたがらない理由として考えられるのは、それしかないからだ。
「大丈夫です」
涼が起き上がると、養護教員は優しい目になった。
「二時間目が終わるまで横になってなさい。ゆっくりしてていいんですよ。在室証明を書いてあげるから」
在室証明というのは、やむを得ない理由で校内のどこかに留まる必要があって授業に遅れるとき、その場に立ち会った教師が書く書式だ。これを持たずに授業に遅れると、ぶたれる原因になる。
三時間目は情報処理で、これは通常の授業と比べると自由度の高い時間だ。コンピューターが扱えて、その上生徒にそれを指導できる教員が学校にはいないので、この時間だけ社会人講師が来る。実際仕事でコンピューターを使っている人だ。
この講師からは「コンピューターでの作業が好き」という雰囲気が伝わってきて、学校の教師とはちょっと違う感じを受ける。あの講師は、少々遅れても何も言わないだろうし、理由も口頭で説明すればわかってくれると思う。
それでも、養護教員は証明を書いてくれる。教師たちも守らなくてはならない規律があるのかもしれない。
「びっくりしたよ。どうしたんだ」
コンピューター実習室で自分の席についたとき、隣の男子生徒にそう言われて、涼の方がびっくりした。
もう半年以上同じクラスにいるのに、これまで特に親しい友人はいなかった。これは涼だけのことではなく、ほとんどの生徒がお互いクラスメイトとして知り合ってはいても、友だちづきあいまでしている暇はないのだった。部活動だけでなく、塾も、課外活動もある。
それでも、なんでもない雑談やちょっとした暇つぶしを一緒にするようなさりげない友人関係を求める気持は、誰の心の中にもあるのかもしれなかった。
男子生徒は心配そうな顔をして涼を見ている。涼は、微笑んでみた。
「寝不足。それに、飯も食ってなかったし」
「霜村は欠席したことないから、いつもちゃんと自己管理してるんだなあって思ってた」
「わりといいかげんだよ」
「そうか」
男子生徒も笑顔になった。
情報処理では、ひとり一台ずつコンピューターを使う。講師の説明をひととおり受けたあとは、今習ったことをもう一度操作してみたり、提示された課題をやってみたり、講師に質問するために席を立ったりすることが許される。公然と教室内を歩き、進み具合や簡単な疑問について隣の生徒としゃべってもいいのは、この授業だけだ。
碧と目が合う。涼は先にうなずく。碧の表情が、ほっとしたようにゆるむ。なんだかあたたかい気持になり、それは肩が覚えている手のひらのあたたかみにつながった。
僕は、他人が自分をどう誤解しようとかまわないと思ってきた。自分のことは自分にしかわからないんだから。でも、ミドリとは話し合えた。もしかしたら、ミドリは僕の気づかない僕のことをわかっていたかもしれない。僕はミドリにわかってもらいたかった。ミドリのことを、もっと、もっとわかりたかった。
また涙が出そうになって、涼はあわてて瞬きした。
ミドリはもういない。でも、ミドリが僕に分けてくれたものがある。何か明るくて、あたたかいもの。僕は……。
コンピューターのスロットに、学生カードを入れて起動する。画面に文字が現れる。
【使用者 33 真野洋介】
真野洋介?
涼は目をみはる。真野洋介。
あわててまわりを見る。涼に注意を払っている者はいない。講師は男子グループの何人かと、数字の並んだシートが表示されたモニターの前で頭を寄せ合っている。碧は何かのプリントアウトを見ながら女子生徒と話し合っている。
カードを間違えた。この前拾ったきり、ポケットに入れっぱなしだった、死んだ生徒のあのカード。
心臓が倍の速さで打ちはじめる。
今なら、メールを送れる。
涼は大きく息を吸う。キイボードに指を載せてから、手のひらが汗でぬれているのに気づいてズボンでぬぐった。
エラー。
あわてるな。これは一度きりだ。落ち着くんだ。
SendMailを呼び出す。メール作成。アドレス入力。
ver@ja.in
考えている暇はない。誰かが涼のやっていることをのぞきに来ないうちに。ためらっている涼を見て、講師が様子を見に来ないうちに。
【ピーターよりフックへ いい春は来るか?】
送信して、コンピューターをシャットダウンする。学生カードを抜く。
実習室のマシンは、シャットダウンすると履歴が消えるようになっている。データを保存するためにはディスクに書き出すなどの作業をしなくてはならないが、生徒たちが試しに作った文書や表がコンピューター本体に溜まっていくことはない。これでメールの送信記録も消えるだろうか。
深呼吸して、今度は自分の学生カードを取り出す。起動する。
【使用者 13 霜村涼】
確かに僕だ、と涼は思った。
自分が自分の名前でなにかをはじめるということが、ふと新しいことのように思えた。




